本番目前2
この話の中に出てくる人物は実際の人物、会社その他全てのものと一切関係ありません。
あの後続々と家に運び込まれる大量の食事。
その全てをことごとく平らげていく私。
やっと栄養を求める体に、その求めるものを行き渡らせることができたのは食事を開始してから1時間半が経った頃だった。
こんなに一気に食べて問題ないだろうかと自分でも心配になるほどの量を食べた。
そのおかげか体重は2キロ減のところまで戻った。
心なしか乾燥してガサガサになっていた唇の潤いも戻ってきたような気がする。
まるで乾いた大地が水を吸うように私の体は栄養を摂取した。
「満腹になったら今度は睡眠か…。」
私の体はどうやらとてもわがままなようで、私の意思とは関係なく睡魔が襲ってきた。
流石に食卓で倒れ伏すように寝るのは行儀が悪いので、どうにかこうにか、やっとの思いでマスターベッドルームに向かった。
満腹感を抱えて重くなった体をベッドに横たえると、そこから記憶がない。
気づいた時には翌朝の10時だった。
結構しっかり寝たな。
そして今日は本番前日でもある。
曲の完成度が気になるところではあるが、実はこれも私の中ではほぼ完成している。
あとは今日のコンディションに合わせて少し調整をするだけだ。
「今日は車を取りに行って、明日のタキシードもピックしなきゃな。」
タキシードはアマンのランドリーサービスに出しておいたのだ。
ジェシカが、もしまた演奏会になったらどうするの!と世話を焼いてくれて、1着だけ持ってきていたタキシードの一式を預かってくれたのだ。
本当に頭が上がらない。
ざっくりとした本日の予定を立てながら、朝ごはんにしてはいささか多すぎる量の食料を平らげていく。
単純にとても腹が減っているということもあるけど、
明日の演奏会が終わった翌日には日本に帰るので、保存食のようなもの以外はそろそろ消化してしまいたい。
タンパク質を中心とし、脂質と糖質を抑えた朝ごはんはなかなかヘビーだけど、私は好きだ。
いつも食べているものよりも数段ヘビーな朝食を終え、洗い物をしてからシャワーを浴びにいく。
「アメリカでなんかやり残したことってあるかな?」
買い揃えておかないといけないもので急ぐものは大体買ってあるはずだし、みんなが移住してきてからも買い物はできるので、おそらくそこまで急ぎじゃない。
他にもなにか忘れてないか考えながらシャワーを浴びて、朝の身支度を済ませる。
「特にないか。」
私は特に忘れていることはないと結論付けた。
「さて、着替えますか。」
今日は天気予報によると結構暑くなるらしい。
なので夏物の薄手の生地のラルフローレンの白シャツをチョイスした。
ラルフローレンのシャツは胸ポケットがないものが多く、海外っぽいディテールが気に入っている。
そしてラルフローレンのシャツは長袖を腕まくりするのが好きだ。
私は体を鍛えているため割と体が厚い。
物理的に胸板が厚いのだ。
そうするとどうなるかというと、ラルフローレンのシャツがよく似合う。
ラルフローレンに限らずシャツを着て腕まくりをする場合、痩せ型のほっそりした人がそれをすると、子供が大きな服を着ているように見えてしまう。かなりサイズ感に気をつけて服を選ぶ必要があるが、筋肉は全てを解決するのだ。
そんなラルフローレンのシャツに合わせるのは、ビームスで買ったチノパン。
なんの捻りもない、普通のチノパンだ。
しかしその捻りのなさがいい。
こういうのでいいんだよ。
ストレートで、ワークウェアが的になっているチノパン。
無骨な野暮ったさが好きだ。
これに白シャツをタックインして着る。
ザオーソドックでアメリカンな、アイビールックな着こなしになったのでネクタイも締めてみる。
締めたところで、逆に仕事感が出てしまったので今日はノータイ。
第一ボタンだけはずして、紺ブレを羽織ると、うむ。気持ち良い。
ゆるっとした着こなしが流行る昨今ではあるが、たまにはオーソドックスでジャストフィットな服も着たくなるのが服好きの面倒なところだ。
上が決まったので、本日の着こなしに合わせて足元はオールデンのタッセルローファーにした。
うむ、気持ちいい 。(2回目)
私の個人的な荷物は貴重品以外全てを練習室に置いてきてしまったので、とりあえずそれを回収するところから本日の予定は始まる。
家を出て、通りで適当にタクシーを捕まえて大学に向かう。
流石に歩いていくには遠すぎる。
学校に着くとまずはマリアの元に向かって体調が戻りましたの報告。
注意を受けて、ちゃんと反省した顔をしておく。
自分でもよくない癖なのは分かってるし、ここまで入り込みすぎたのはピアノを始めた時以来だったので油断していたことには違いない。
奥さんたちにバレたらえらいことになるのでちゃんと注意を受けておく。
練習室に向かい、鍵を開けて私の私物の荷物を、これまた置きっぱなしにしていた、いつものベルルッティのバッグにがさっと詰め込む。
荷物を回収し、次は車の回収に向かう。
大学を出て、アマンニューヨークへ向かうところで変わった出会いがあった。
「青年!ちょっと今いいかい?」
「なんでしょう?」
「私は服の仕事をしているんだけどよかったらうちの服を着てくれないだろうか?」
……?
なんか怪しいな。
「いや、ちょっと急いでいるので…。」
「あ、すまない。
今日、今すぐにというわけではなくて、3ヶ月後にあるコレクションで着て欲しいんだ。」
よくわからないけど騙す目的ではなさそうだ。
あとこのおじいさんなんか見たことあるぞ?
「あぁ、であれば可能かもしれないですね。」
「本当かい!?
ありがとう!これは私の名刺だよ。」
アメリカでは日本と名刺の扱いが異なる。
海外では名刺を使わないという誤った情報もあるが、使うか使わないかでいえば普通に使う。
だけど、日本と異なるのは、ただ単に連絡先が書いてある紙として使うことが多い。
ビジネスの場において、今後も連絡を取りたい、取る必要があると思った場合だけ交換するということが多いような気がする。
今目の前のおじいさんから手渡された名刺を見て驚いた。
ラルフローレン氏そのものだった。
どうりでこのおじいさん見たことがあると思った。
ていうか、着こなしかっけぇ〜!!!!
こんなイケオジになりたいと心から思った。
「どこかで見たことあると思った!
ラルフローレンさんじゃないですか!」
「おっ、私を知っている日本人というのも珍しいね。
うちの服も着てくれていて嬉しいよ。」
彼はトントンと私の左胸にあるポニーのロゴを指差した。
「いや、なんとなく突然着たくなったんですよ。
ラルフローレンが。」
「紺のブレザーもとても品があって合わせも素敵だ。
足元のオールデンのタッセルローファーもしっかり履き込んでて手入れも丁寧だ。」
「ありがとうございます。
これ私の名刺です。」
私は名刺を人に渡すことはほとんどないが、尊敬するラルフローレン氏になら何枚でも渡したい。
そのまま、意気投合してしまい、ファッション談義に花を咲かせながら歩いていると、アマンニューヨークに着いてしまった。
「すみません、もっとたくさん話したいのですが、目的地に着いてしまいました。」
「おや。君もアマンかね。
私もだよ。ジムで汗を流そうと思ってね。」
「本当ですか!私も車をアマンの駐車場に預けていて、ついでにランチでもしようかと。」
聞けばラルフローレン氏は個人的にアマンニューヨークのレジデンスを1室所有しているらしく、仕事中もよくジムに来るのだとか。
「どうだい?よければ一緒にランチでも。」
「喜んで。」
このあとめちゃくちゃランチした。