本番目前
オーケストラとの共演を決めてから、数日が経った。
どれだけ弾き込んできたか自分でもよくわからない。
ここ数日?数時間?は現実の世界にいるのか音楽の世界にいるのか自分でも境界線が曖昧になってきていることを感じている。
今私が立っている世界はどっちだ。
音の世界なのか。
流れる音に身を任せて、気持ちがいいところに音を置いていく。
そう。そう。
それはここじゃない…もう少し先…。
うん、綺麗になった。
私が音楽の世界で音と戯れていると、その至福は唐突に終わりを迎える。
「えっ、なんだ?」
「案の定って感じね。」
そこにいたのはマリア。
どうやら私の肩を叩いてこちらに戻してくれたらしい。
「なんでここに?」
「他の学生に感謝することね。
ここの練習室からずっと音が消えないって報告があったのよ。
誰かいるのなら休ませたほうがいいんじゃないかって。」
「あぁ、なるほど…」
「なるほどってあなたねぇ…」
「ちょっと本番近くなって入り込みすぎたみたいだね…。心配かけちゃった。」
「ちょっとってレベルじゃないわよ。
見る限り水分は取ってたみたいだけど。」
自分ではほとんど記憶がないのだけど、誰かが差し入れしてくれたのか、スポーツドリンクの空きペットボトルが部屋の中に散乱していた。
「それにすごい顔。ちょっと顔でも洗ってらっしゃい。」
「そんなにひどい?ちょっと後で見てくるけど。
ちなみに今日は何日?」
「6月12日よ。」
なんでこった、本番まであと3日しかない。
「本番まであと3日しかないじゃないか。」
「ちなみにあなた最後に家に帰ったのはいつ?」
「多分4日前かな?」
「おそらくあなたは四日間寝ずにピアノを弾き続けてきたはずよ。
とりあえず今日は帰りなさい。」
「そんな!大丈夫だから。まだ弾けるって!」
「やれるやれないの話をしているんじゃないの。
これは命令よ。従えないのならあなたには日本に帰ってもらいます。」
「…わかっt…」
そこから記憶がない。
後から聞いた話によると、極限状態の糸が切れてしまった私はぶっ倒れてしまいそのまま病院に搬送されたらしい。
もちろん大した病気などではなく極度の疲労。
恥ずかしいことこの上ない。
気づいた時私は病院の部屋にいた。
「えっ。」
まさにリアル知らない天井だ状態。
腕には2本の点滴が繋がれ、その点滴の針が刺さっている腕には一枚の付箋。
『目が覚めたらナースコールすること。』
その指示に従って、ナースコールのボタンを押すと、看護師さんとドクターがやってきて、一通り私の体の不調をチェックした。
「こんなに疲れ果てている人を久々に見ました。」
とはドクターの言だ。
呆れてものも言えないといった風だった。
そこからはあれよあれよという間に退院手続きをし、病院を後にする運びとなった。
入院料などの明細も確認したがとんでもない料金だったことは言うまでもない。
手術するような病気や怪我ではなかったのだけど、一泊料金と各種検査料、救急車代金、その他諸々合わせて62万円。
クレジットカードの付帯海外旅行保険で賄えたが、初見では覚悟してたものの少し驚いた。
持っててよかった、ハイステータスカード。
この場合はハイステータスだったからというよりも、海外旅行保険が自動付帯になっているカードを持っててよかったということになるか。
荷物も何もないので、すぐに退院することができた。
さすがにマリアになんの連絡もなくというわけにも行かないので連絡をするとすぐに迎えにくるとのこと。
病院のエントランスでしばし待つとマリアが来た。
マリアは車できたようで、エントランスの前に自家用車と思われるGMCのサバーバンを横付けした。
雰囲気に似合わず硬派な車に乗っている。
「その様子だともう全部終わったみたいね?」
マリアは車に私を乗せながらそう聞いてきた。
「えぇ、ご迷惑をおかけしました。」
「ほんとよ。
昨日の昼前に倒れて、今はもう夕方だから都合30時間ほど寝てたことになるわね。
体の不調はもうない?」
なんてことだ。
30時間も。
「丸一日以上か…。おかげさまで変な感じはするけど、不調はないね。」
流石に寝過ぎたのか、体が変な感じだ。
今日はしっかりと栄養を体に入れて、飢餓状態の体を労わろう。
「大変だったのよ。
倒れて意識はないはずなのに、手はずっとピアノを弾いてる。
最初は痙攣してるのかと思ったけどラフマニノフのピアコンを弾いてたわ。」
「なにそれこわい」
「私も、搬送を手伝ってくれた生徒もドン引きしてたわ。不気味すぎて。」
ここまでくるといよいよ狂気を感じる。
「とりあえず今日はゆっくりと家で休むことにするよ。」
「そうしてちょうだい。
あなたのためだけじゃなく私たちのためにも。」
助手席でマリアに私の家までの道のりを指示しながら同乗すること40分。
私の家に着いた。
「…ここって下宿先?」
「まさか。買ったに決まってるでしょう。」
「稼いでんのねぇ…。」
「上がってく?」
「病み上がりの弟弟子に気を遣わせるのも悪いから今日はやめとく。」
「わかったよ。」
マリアと私を乗せた車は門をくぐり、玄関前に車を止め、
私を下ろした。
「じゃあ気をつけるのよ。」
「はーい、わかりました。」
「練習したらダメだからね。」
「わかったって。」
マリアはまだいまいち信用しきってないみたいだったけど、
とりあえずは私を解放してくれた。
「ちょっと寝よう…。
さすがにちょっとキツイ…。」
私は家の中に入って、バスルームに直行。
きていたものを全て洗濯機に放り込み、洗面台で鏡を見て驚いた。
明らかに顔の形が違う。
やつれている。不健康な痩せ方をしている。
人相が悪い。無精髭が大変なことになっている。
恐る恐る体重計に乗ってみると、7キロ落ちていた。
おそらく筋肉も相当落ちているだろう。
割と私は増減が激しく、演奏会の前と後で2〜3キロ違うといったこともザラなのだけど、これは緊急事態かもしれない。
とりあえず風呂に入ることにした。
お風呂に入って体が温まったところで内臓が活動を開始したようだ。
猛烈に腹が減ってきた。
病院で点滴を打ったので低血糖になるような兆候は感じなかったけど猛烈に腹が減ってきた。
急いで髪を洗い、体を洗い、髭を剃りさっぱりしたところでルームウェアに着替え、スマホで手当たり次第ウーバーイーツした。
一階に降り、家の食糧庫にあったもので、すぐに食べれそうなオートミールなど消化によさそうなものを片っ端から胃に入れていく。
「まるでチートデーだな。」
私の呟きは空に消えた。