練習、練習、練習。
テストも終わったので、大学は夏休みに入って、毎日行く必要がなくなったので、これでピアノの練習をしまくることができる。
歯磨きのような感覚で、毎日やらないと落ち着かなくなってしまったツェルニー60番を弾きながら考える。
本番は11月だが、その前、10月には音楽祭がある。
自分の予定では10月の音楽祭で、本番と同じ構成でやってみて様子を伺うつもりだ。
指がだんだんとほぐれてきて、温まってきた。
「よし、やろう。」
まずは気分的に鬼火から。
名前だけを聞くとさぞかし凄さまじい曲なのだろうと思われがちだが、そうでもない。
この曲の真髄は、ゆらゆらと揺れる陽炎のような曲想を繊細な表現力で弾きこなすことにある。
譜面は半音や連譜だらけで、心が折られる人も少なくないらしい。
吹奏楽ではこのような譜面だらけだったので今更抵抗感は少ない。
むしろフルートの譜面など見るとほぼ全曲こんな感じだ。もちろん異論はあると思う。
昔先輩に言われたことだが、どんな難しそうに見える譜面といえども、何度か口ずさんで、ちゃんと歌えるようになったら吹けるようになる。
だからピアノも同じで、曲を理解できると弾けるようになる、と思う。
「うーーん。なんか調子が悪い。」
頭では、自分の指を動かす方向、動かし方は分かっているのだが、どうしてもそれを100%トレースすることができていない。
「ストレスがたまってきた。次!」
2時間くらい弾いていたがなんか気持ちが乗らなかったので次の曲に進もう。
おもむろに取り出したのは英雄ポロネーズ。
これはいわゆるパワー系難曲だ。
ダイナミックな譜面は、強弱が付いていれば付いているほどカッコいい。
弱と強のメリハリが肝となる。
特徴的な、英雄の凱旋を感じさせるメロディが耳を打つ。
「うんうん、これは良い。」
いつもより指の回りが滑らかで、力をダイレクトに伝えることができている。
運指が滑ることもない。
気持ちよくピアノを弾いていると、ガチャっという音とともに防音扉が開けられた。
「やっほ。」
「実季先輩。」
「どう?進んでる?」
「まぁそれなりには。」
「なんか浮かない顔してんね。どしたの?」
「いや、鬼火がうまくいかなくて。」
「ほう、ちょっと聴かしてみ?」
「はい。」
いつも通りに、練習でできたことをさらいながら、丁寧に表現して弾く。
「うん、上手い!」
「うーん。」
「正直プロって言われても遜色ないレベルだと思う。」
「でも自分的にはまだまだで…。」
「例えば?」
「ここの半音階の32分音符で上がって降りるとことかもっと揺らしたいですし、2、3箇所指も滑りましたし、重音レガート奏法もなんか必死ぽく聴こえません?」
「いや、必死には聴こえなかったかなぁ…。
でも指滑ったのは聴こえた。
あれ弱音だし、力加減難しいから滑りがちだよね。」
「ピアノだろうとピアニシモだろうと、むしろもっと早く弾けって言われる方が楽なんですよね。」
「あ、吉弘くんそういうタイプなんだ。」
「そういうタイプとは?」
「指がよく動く人とかだと早弾きする方が楽っていう人時々いるよ。」
「そうなんですか?」
「そうそう。だから世界的にテクニックで鳴らしてるタイプのピアニストの中には少し早めにこの曲弾く人もいるから、少し早めにやってみたら?」
「わかりました。ちょっと聞いてもらってていいですか?」
「いいよ!」
普段でも早めの126前後くらいで弾いているが、今回はさらに早める。
おぉ!弾きやすい!
いけるいける!!!
「どうですか!!!!」
「ほんとテクニック派だよね…。」
「普段よりだいぶやりやすかったです!」
「でもこれ早すぎでしょ…。」
「まぁそうですよね。」
「じゃあ導入部をもう少しゆっくりにして…
「そうすると中間部で…
実季先輩とのピアノ談義に発展してしまい、白熱する。
2時間後。
「よし!じゃあそれで弾いてみ?」
「はい!」
先輩のアドバイスや、二人で確認したことを確かめつつもより繊細に写実的に弾く。
気持ちいい。
ピアノを弾いてきた中で一番気持ちいい瞬間だ。
弾き終わるとそのまま放心状態になる。
「どうでした?」
かろうじて感想を尋ねる言葉を口にするのが精一杯だ。
「…。」
「先輩?」
先輩は涙をうかべていた。
「ちょっ、どうしたんですか先輩!」
「いや、鬼火って別に泣ける曲ではないんだけど、感動して涙が止まらなくなっちゃって…。」
「メイク崩れますよ…。」
「あぁ黒い涙が…。」
「号泣じゃないっすか。」
「とにかく、鬼火はこの方向で行こう!
わたしはメイク直してくるから!
じゃあねっ!」
「はーい。」
手を振る実季先輩に手を振り返しておく。
ガチャンと防音扉が閉まる音を聞くと緊張の糸が切れてしまったのか、ピアノに突っ伏す。
「あぁ、緊張した。」
頭の中ではサントリーホールで大観衆に迎えられて弾いていたので緊張感は凄まじい。
着ていた服は汗で色が変わっている。
「汗臭くなかったかな…。」
そんなことを思いつつ、自分のできる限り最高のイメージを持ったまま明日を迎えたかったので、今日はもう店仕舞いだ。
と言っても時刻はすでに夜。
「いつものラーメン食って帰ろ。」
練習室を出た吉弘は行きつけの二郎系ラーメン屋へと自転車を進める。
「いらっしゃい!」
「こんばんは。いつもので!」
「はいよっ。」
常連になってしまっているので、メニューも覚えられてしまった。
出されたラーメンを、一心不乱に貪る。
体に悪いものを食べているという罪悪感がさらに味をよくしているのは間違いない。
「ありがとうございましたぁー」
「ごちそうさまでした。」
大盛りにもかかわらず、ぺろりとたいらげると家に帰る。
今日もいい1日だったな。




