ゾーンに入る
ちょっと短くなりました。
今日は最近日本で買ったばかりのサカイのTシャツに、袖を通し、スタジオニコルソンのパンツを合わせた。
ニコルソンのパンツはとても気に入っていて、色味もシルエットも全てが愛おしい。
安い買い物ではなかったがとても満足している。
靴はナイキのエアフォース1のホワイト。
どうしてもハイカットの靴があまり好きになれず、持っている靴はローカットの方が多い。
いつものトートバッグに楽譜とスマホ、パソコン、財布を突っ込んで車の鍵を持って学校に向かう。
カーステレオから流れる音楽は自分が弾いているラフマニノフのピアコン。
全ての時間をこの一曲にフォーカスして、完成度を高めて行く。
本来なら2ヶ月は欲しいところ、2週間弱ほどで完成させようと思っているのだ。
有名な曲だからもともと曲を知っていて、いくら楽譜を読んだことがあって、譜読みの手間があまり掛からなかったからといっても余裕のあるスケジュールでは全くない。
普段よりももっと入り込む必要がある。
運転に注意を割きながら、自分の音楽の粗を頭の中に刻み込む。
きっと側から見たら変な人に思われるだろう。
車を降りてから学校に行くまでもずっと1人でぶつぶつ言っていたと思う。
「ここの表情はもっと豊かで、響かせて。
もっと甘くないといけない…。
でもこのカデンツァは、今だと鳴らしすぎだからもっと控えめに…。」
そんなことをぶつぶつと呟きながらいつもの練習室に入る。
鍵盤の蓋を開け、グランドピアノの蓋を開け。
まずいつものハノンから。
すでに全ての工程を暗譜しているが、これはラジオ体操のようなものなので、これをしないと始まらない。
毎日同じルーティンをこなすことで自分の調子を確かめる。
アスリートと同じだ。
ゴルフの時も、私は練習前にする体操があるのだが、
毎回同じ体操を、毎回同じ時間だけきっちり行う。
これはなおちゃんも同じで、おそらく他の選手も似たようなルーティンがあるはずだ。
これも全て体の状態を確かめるためのものだ。
今日もハノンを弾いているのだが、いつも通り、全ての指がきっちり綺麗に同じ動きをしてくれる。
調子は悪くない。
むしろ研ぎ澄まされた感覚があり、思考と体の動きが高い精度で一致している。
「うん。いいね。いい感じ。」
きっちり60分のウォーミングアップがわりに、指の体操を兼ねたハノンを引き散らかす。
作曲者のアノンも自分が作った60の練習曲集がこんなふうにされることは予想していなかっただろう。
グッと力が入った手をほぐして、束の間の休憩。
筋肉に溜まった乳酸を散らす。
「さ、行きましょう。」
私はまだ完成度に不満が残る第三楽章に取り掛かる。
第三楽章は、オーケストラの序奏に続いて、ピアノが華やかに、勢いよく合流しスケルツォのような第1主題を展開する。
それに続いて抒情的な第2主題がオーボエとヴィオラによって展開し、ピアノがそれを引き継ぐ。
この対照的な第1主題と第2主題が交わりながら音楽が展開し、壮大な盛り上がりの中でこのラフマニノフピアノコンチェルト第2番は幕を閉じる。
ちなみに私はここが一番好きだ。
ロシアっぽい抒情的な音楽と、いわゆるラフマニノフ終止と呼ばれる、ジャン!ジャジャ!ジャン!という472小節目から476小節目の4分音符と8分音符の組み合わせが本当に気持ちがいい。
特にラフマニノフ終止は楽譜通り弾くともたつくし重くなるのでここはほんの少しだけ工夫が必要だ。ここはリハで合わせていきたい。
この第三楽章の第2主題は甘美で抒情的だけど、始まりの方の第1主題はかなり即興的な雰囲気を持つ。
少し気まぐれな雰囲気を醸さないといけない。
そして、ラストの第2主題の裏メロがピアノの独奏は鳴らしすぎなくらい鳴らしてもいいはず。
荘厳で力強く、雄弁に、ドラマチックに。
そしてラフマニノフ終止!
「よっしゃ!」
最後の方はすごく上手く弾けた気がする。
家に帰ったらもう一度聞いてみよう。
ふとスマホを見るともう夜だ。
割と早めの朝からもうすでに15時間ほどが経過していた。
このままだとカロリーが不安なので、カロリーモンスターのスポーツドリンクで、簡易栄養食と一緒に、エネルギーを胃に流し込む。
不摂生な生活をしている自覚はあるが、とにかく今は時間がない。
とにかく楽しいのだ。
音楽をしている時間が、音楽と向き合う時間が。
「今日も帰れないな。」
束の間の休憩をとりつつ、溜まっているメールやメッセージアプリの連絡を処理していく。
今日も帰れないとは言ったが、本当は帰りたくない、ずっと音楽をしていたいだけだったりする。
結局家に帰ったのは、学校での練習を開始した日の翌日の23時だった。
自分でも入れ込みすぎててちょっと引く。