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街中華

「こんなもんか。」

一通り曲を浚い終え、気になるところを潰す。

そんな作業の繰り返しをしていると気づいたら丸一日経っていた。


最近新調したばかりのApple Watchはすでに充電が切れており、スマホにもいくつかの不在着信と未読のメールが溜まっていた。


最近は気をつけていたのであまりなかったのだが、やはり集中すると周りが見えなくなる癖がある。

幸いというべきか、車はアマンニューヨークの駐車場に預けている。


これはジェシカの強い勧めによるものだ。

ジェシカ曰く、私は集中すると周りが見えなくなるのだから、盗られるかもしれない車なんかは心配のないところに預けておきなさいとのこと。

全くもってその通りである。


詳しいことはよくわからないけど、アマンのドアマンに車のキーを預けると勝手にどこかに持っていってくれるし、私がアマンに帰るとすぐに車が出てくる。

不思議だ。


集中して音楽と向き合うと非常に腹が減る。

昔は二郎系のお店でカロリー爆弾を入れて凌いでいたのが不意に懐かしく思える。


腹が減ったことを脳が認識すると、余計に腹が減る。

荷物をがさっとベルルッティのトートバッグに入れると、私は練習室をさっさと後にする。


「この近くになんかいい店は…。」


「ヒロ!!」


声をかけてきたのはチャン君だった。


「何してんのさ、こんなところで。」

チャン君はやつれた様子で、無精髭を生やして、憔悴しきっていた様子だった。


「恥ずかしいんだが、寝てなくてね。」


「奇遇だね、私もだよ。」


「君はどうして寝てないのにそんなにツヤツヤなのか甚だ疑問に思うよ。」


「まぁそれはいいとして、なんで寝てないんだ?」


「昨日?おととい?君に諭されてから、すぐにオーケストラの練習をして、そこで気づくことが多くてね。

いつもの練習会が終わった後、すぐそこの練習室でこもって楽曲研究をしてたのさ。」


「なるほど。」


指揮者の仕事は棒を振って終わりではない。

棒を振るのはいわばまとめ作業みたいなもので、指揮者はそれに至るまでの全ての責任を負い、本番の楽曲のプランニングを行うのが仕事だ。

フルスコアと睨めっこをして、どこのタイミングで何の楽器が入ってきて、そこでどんな音楽が展開されて、どんな形の音になって。

なぜここでヴィオラが入ってくるのか、なぜここでチェロは入ってこないのか、なぜここでトランペットではなくコルネットなのか、オーボエではなくイングリッシュホルンなのはなぜなのか。

そんなことを時代背景まで考慮して、作曲家の特性や性格に至るまで把握して一つの楽曲を作り上げていく。

それが指揮者の仕事なのだ。


彼も私も音楽を志す者。

集中しすぎて一晩を明かす気持ちは非常によくわかる。


「恥ずかしながら腹が減ってしまって、丸一日経過してることに気づいてね。」


「私も。どこかご飯に行こうと思って出てきたんだよ。

よければ一緒にどう?」


「いいね!近くに馴染みの中華屋があるんだ、行こう。」


「いいね、楽しみだ。ぜひ行こう。」


こうして私はチャン君と馴染みの中華屋とやらに行くことになった。


店に行くまでの道すがら、私たちはラフマニノフの解釈について激しく討論を交わしていたが、大学の敷地を出ると店までの道のりはすぐだった。


「ここか。」


「そうそう。入って入って。」


店構えは至って普通の中華料理店で、拍子抜けした。

もっととんでもない店に連れてこられるかと思った。


チャン君は勝手知ったる顔で店主らしき人と中国語で会話し、注文を取り付けている。


「ヒロは普段日本にいるから日本風の味付けが馴染みがあるよな。」


「まぁもちろんそうだけど。」


「ここの店主は日本でも修行してたから日本風の味付けでっていうとどことなく日本風なものが出てくるんだ。」


「なんと」


「俺も小さい頃は日本の親戚の家で育ったからたまに食べたくなるんだよな。」


まさかの新事実である。

日本に住んでたことがあるとは。


「そうなのか。だったらまた日本に来るといいよ。」


「もちろん。俺が指揮者として大成したら日本の親戚も呼んでサントリーホールでコンサートをやるんだ。」


「それはいい。その時はぜひピアニストとして私のことも呼んでくれ。」


「もちろんだよ。頼もしいね。」


「そうだろうそうだろう。」


他愛もない話をしながら、日本風のチャーハンと青椒肉絲を食べ音楽談義に花を咲かせる。

料理の味は普通だったが、どこか懐かしく、いくらでも食べられる味がした。





食事が終わり、店を出たところで私たちは解散した。

チャン君は一度家に戻って睡眠をとってからまた来るらしい。

私はまだ納得できてないので、キリがいいところまでは仕上げたいと言うと、チャン君は少し引いていた。

解せぬ。



歩いて大学に戻り、また練習室に篭る。

今からは第二楽章の練習だ。

とりあえず第二楽章が終わったら家に帰ろう。

と思ったところで楽譜を広げ、指を慣らして練習に入る。


第二楽章は、アルペジオで入ってくるピアノを、静かに弦楽器がクレッシェンドしつつ迎え入れる。

このアルペジオは六手のピアノのための「ロマンス」の序奏から引用されているので、ついこの間ロマンスをやった私としても記憶に新しい。

このピアノの上に柔らかなフルートのメロディーが乗り、それをクラリネットが受け継ぐ。


この流麗で綺麗な音楽がピアノに継承されていき、転調し短調となった音楽がテンポを増す。

ピアノとオーケストラが複雑に絡み合い音楽の最高潮に達したところでピアノのカデンツァに入る。


優しい音楽の中、最後はピアノ独奏で静かに第2楽章は終わりを迎える。



「…はっ!」


私は今息をしていただろうか?

深く深く音楽に入り込んで、ラフマニノフの世界に居た気がする。

脳にエネルギーが供給されたためだろうか?

いつもより深く入り込んだ気がする。

今日着ているアグネストゥデイオズのTシャツにじっとりと汗が染み込んでいるのがどことなく不快だ。


「今日は帰るか。」

スマホを見てみると充電がもうほとんどなく、チャン君と中華を食べてから10時間以上が経過していた。

楽譜にも書き込みがびっしりされているが、書き込んだ記憶は朧げだ。


荷物を持って大学を出て、セントラルパークを歩いてアマンを目指す。

途中、キッチンカーの屋台で出ていたホットドッグを買うのも忘れない。

取り急ぎの栄養補給としてそれを胃に入れる。

アメリカのホットドッグはどこで買ってもめちゃくちゃ美味い。


もう顔馴染みになったドアマンが私の姿を見ると手を振ってくれた。彼がインカムでどこかに連絡すると、聞き覚えのあるエンジン音が私に近づいてくる。


「おかえり、ミスター。

車を預けたまま何日も帰ってこないから日本に帰ったのかと思ったよ。」


「恥ずかしながら、練習室に篭りっきりでね。

日本に帰るどころか家にも帰ってないんだよ。」


「そりゃ大変だ!

スパに寄っていくかい?」


「いいのかい?」


「もちろん。上には私が良いように言っとくさ。

ほら行った行った。」


彼の粋な計らいで、私はアマンのスパを利用させてもらえることになった。

良いのか?



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