迷ったら相談
「っていう話があってね。」
「わたしに面倒ごとを押し付けるんじゃないよ。」
チャンくんのオケの勧誘に困った私は実季先輩に話を振ってみた。
実季先輩は、弓先生と一緒に今ロンドンにいる。
先生はイギリスのスパイ映画の音楽監督をすることになったので、ロンドンで長期滞在中なのだ。
実季先輩はその映画が大好きということもあって、先生の手伝いということで同行している。
アメリカに引っ越した後もしばらくはアメリカとロンドンを往復する生活になるとのこと。
先輩も飛行機好きなので、マイルが貯まるわーとホクホク顔だ。
青い飛行機会社のマイルはもううなるほどあるので、今は赤い飛行機会社のマイルを貯めているらしい。
「そんなこと言ったって、私も今忙しいからオケなんてやってらんないわよ。」
「だよねぇ。」
「だから、今はできないけど、正式に引っ越した後、ちゃんと組んで共演しようって言うしかないんじゃない?」
「うーん、たしかに。」
「でも迷ってるってことは、ほんとはやりたいんでしょ?」
「うん、実はそうなんだよね。
やってみたい気持ちはある。」
「にしたって、練習時間が足りなさすぎるわよ。」
「そこがネックなんだよ〜。」
「じゃ滞在時間伸ばしちゃえば?」
「お?」
「だって別に日本に帰んなきゃって理由ないんでしょ?」
「たしかに!」
「引越しのちょっと前に帰ればいいじゃない。
飛行機のチケット変更できるやつでしょ。」
「マイルで取ったから変更できないかも…。」
「マイルなら使用前なら変更できるわよ。」
「マジか!すぐ変更する!
ありがとう!」
「はーい、どういたしまして。」
「ところで、撮影どんな感じ?」
「めちゃくちゃいい。」
先輩のニヤケ顔が簡単に想像できた。
「めちゃくちゃいいよ、ほんとにあの映画の世界入ったみたい。」
「音楽監督って現場行くんだ?」
「まぁ人によるみたいね。
先生は、映画音楽やる時は絶対現場に行くし、実際に主題歌歌う歌手さんともしっかり打ち合わせするみたいよ。
私も同行してる。」
「すっごいな。もうセレブの世界だね。」
「ほんとにそう。パーティとかも出たけど煌びやかすぎてもう…」
「仕事の方はどうなのよ。」
「先生が、だいぶ楽になったわーって言ってるくらいには戦力になってるよ。」
「そりゃそうか。
私たちはあのデスマーチを乗り越えた戦友だもんね。」
「あのときに比べりゃね。全然楽。
マネージャーさんも、ずっといてくださいって泣いてる。」
先生の仕事のスケジュール的に、基本的に1人で映画音楽をやるとなると寝られない。
それが、今回は休みまで取れてるとなると、マネージャーさん的には歓喜だろう。
ロンドン観光もやろうと思えばできるのだし。
「まぁ辛いよなぁ…。」
「そうよねぇ。」
その後も実季先輩の近況を聞いたりして、時間を過ごした。
先輩との電話を終えた私は早速航空会社に連絡し、飛行機のスケジュールを3日間ほど後倒しにした。
幸祐里と緋奈子には少しばかり文句を言われたが、オケに出たいと言うと2人とも賛成はしてくれた。
「さて、チャンくんに連絡するか。」
愛車のGTRのエンジンをかけて、猛獣を眠りから起こす。
地下駐車場から車を出して、猛るエンジン音を残し、学校に向かう。
「今の時間はたぶん…
お、いたいた。」
チャンくんは学校で受けている指揮の授業が終わったタイミングで、ちょうど講義室から出てきたところだった。
「お!ヒロから来てくれるとは珍しい。なんかあった?」
「飛行機の日程ずらしたよ。
仕方ないから一緒に弾いてあげよう。」
「本当か!?!?
今日はなんていい日なんだ。
こうしちゃいられない。お祝いだ!!」
練習じゃないのか?
と思う気持ちもあったが、慌ただしくいろんなところに電話をかけているチャン君を見ていると何も言えなかった。
忙しそうにし始めたチャン君のことは放っておき、私は
「これをやる予定だから!」と、チャン君から押し付けられていた楽譜を持っていつもの練習室に向かった。
「さてさて…。
やらないと言いつつも、迷っていたから譜読みは済ませてるんだよね。」
チャン君から言われていた演目はラフマニノフのピアノ協奏曲第二番。
耳馴染みもよく、非常に素晴らしい楽曲である。
また、例に漏れず難曲である。
しかし、この曲はラフマニノフの名声を確固たるものにした、名曲中の名曲。
演奏時間は35分ほど。
ドラマにもなった漫画で聞いたことがある人もとっても多いはず。
でも、実はこの曲を書き上げた時のラフマニノフは非常に精神的にまいってしまってて、やっとの思いで書き上げた曲だ。
譜面上の所々に不安の跡が窺える。
「よし、弾いてみよう。」
出だしから暗い。
ロシアっぽさを感じて私は好きだけど。
オーケストラ譜も頭に入っているので、今ピアノを弾きながら、私の頭の中ではオーケストラが鳴っている。
ヴィオラが鳴ってきて、ピアノによる第2主題がはじまる。
第2主題は暗い出だしとは対照的に、甘美で、聴くものを虜にする美しいメロディーが柱になっている。
ピアノで、ロシア正教の小さな鐘を鳴らす。
そしてオケが加わってきて、音楽の規模はうねりを帯びて、次第に大きくなってくる。
展開部で劇的に盛り上がると、再現部は壮厳な音楽だ。
最後はピアノ独奏の盛り上がりの中で終わる。
「ふぅ…第一楽章だけなのに体力使うな。」
事実私も久々にオケと共演するため、昂っているのか、いつもより激しく弾いたため、かなり消耗していた。
オケに負けないように、しっかりと鳴らして、しっかりと表現するとなるとこれくらいは消耗する。
するとどこからともなく拍手が。
「ブラボー。さすがは俺の見込んだヒロだ。
俺をほっておいてどこか行くなんて酷いじゃないか。」
「いや、忙しそうだったし。」
「それは、うん、ごめん 。嬉しくってつい。」
「まぁわかるけど。」
「今回は本当に、参加してくれてありがとう。
おかげでコンサートは大成功すると思う。
オケと併せの練習日とかはメールするからメールアドレス教えてくれ。」
「はいはい。」
私はスマホでチャン君と連絡先を交換したところで練習に戻ろうとすると、この野郎こんなことを言ってきた。
「練習、見学させてもらってもいいか!?」
「ダメ。」
「そこをなんとか!!!!」
「チャン君さ、やってることもはやただのファンなのよ。
ただのファンなんだったら私共演したくないなぁ。」
チャン君はギクッとした顔をした。
「私は飛行機の日程までずらして、君のオケと、君たちの音楽と真摯に向き合おうとしている。
君はどうなんだ?もう完璧なのか?
私と同じくらい音楽と向き合ってるか?団員もそうか?」
「…いや、言われてみれば団員たちも学生の頃ほど本気で向き合っていなかったかもしれない。
初めて音楽に触れた時のように無邪気に、ただ一心に音楽を追求できていなかったかもしれない。」
「だったらやることがあるだろう。」
「そう、だな。
ありがとう。音楽と向き合う覚悟が、少し足りなかったのかもしれない。」
チャン君の顔は
先ほどとは打って変わって、覚悟が決まった男の顔をしていた。
「さっきより、よっぽどいい顔だよ。
練習には顔を出すから予定を送ってて欲しい。」
「わかった!」
足早に練習室をさっていったチャン君の姿を見ると、本番が楽しみだ。
「さて、負けないように練習しないとね。」
その後も私は練習して第二楽章も第三楽章も完成度を高めていく。