光陰矢の如し
光陰矢の如しとはよく言ったものだが、
それからの日々はまるで矢のように過ぎていった。
毎日のように学校に通い、ピアノを弾き、
日々完成していく庭を眺める。
完成していく庭を眺めつつ、作曲のストックをどんどん積み増していく。
完成していく庭とは言っても、イギリスの王族が住む大宮殿のような庭があるわけではない。
アメリカらしい、武骨というのか、短く刈りそろえられた目に美しい青々とした芝生と、外界と我が家を隔てる大きな木々達があるだけだ。
庭木の数は日毎に増えていき、もうすぐ我が家をぐるりと囲んでしまいそうだ。
もともとはプールがあったらしいが、私が屋外プールがあまり好きではないし、好きではないものに手入れの手間をかけるのも惜しいので、潰してしまった。
潰した後は、庭の芝生のための散水栓に変えてしまった。
今ではスイッチ一つで庭の芝生や植木に恵みの雨を降らせる魔法のシステムになっている。
ニューヨークの夏は茹だるように暑いが、
ニューヨークの冬はそれと同じように人間が凍るほど冷える。
水道管は凍ったりしないのか、問題ないのか聞いたら、プールでも問題ないように工事してあるとのことだったのできっと大丈夫なのだろう。
いつもの日課となった朝ランを終え、シャワーを浴びて、プロテインとBCAA、スムージーを体に入れ、車で学校に通学する。
守衛さんに軽く挨拶をして入構し、新たに友人となった仲間達からかけられる声に軽く挨拶をしてマリアが用意してくれた練習室に引き篭もる。
私が今取り組んでいるのはフランツリスト作曲のスペイン狂詩曲だ。
これがまた難しい。
私としては鬼火も難しかったが、これも同じくらい難しい。
鬼火に関しては正直もうやりたくないくらいには思っているが、スペイン狂詩曲についてはきっと満足するほど弾けたらもう弾かないだろうと思っている。
やはりピアノの魔術師と言われるリストが作っただけある。
きっと自身の超絶技巧を周りに自慢したかったに違いない。
この曲は、とにかく右手が疲れる。
この曲には10度の重音が続くフレーズがある。
ここで解説するが、ある一つの音を基準として、10度というのは、1オクターブからさらに鍵盤三つほど遠くに位置している鍵盤を同時に鳴らすことを言う。そんな遠くの鍵盤を同時に鳴らすとは、私の指を自分で見ていてよくここまで開くものだと思う。
ダイナミックな演奏を好む私の努力の賜物というか。
今日もガンガンにピアノを鳴らして、寝ていた楽器を起こしてあげて覚醒させる。
するとノックが聴こえる。
今日はまだゾーンに入っていなかったためか、はっきりと聞こえた。
「どうぞ〜」
スペイン狂詩曲のイメージを口ずさみながら弾いていたため、入室を促す声もそれにつられた。
「やっぱりいたいた。」
「また君か。」
入ってきたのは最近友達になったチャン君。
張梓涵と書くのだが初見では読めなかった。
非常に綺麗な英語を話す彼は、元はドイツの生まれだそう。
父はドイツで活動する中国人のチェロ奏者、母はアメリカ系の中国人で同じくドイツでピアニストをしているらしい。
そんな音楽一家に生まれたチャン君は、例に漏れず幼い頃から音楽の英才教育を施され、中国国営テレビで神童として報道されたこともあるのだとか。
彼は世界一の指揮者になりたいとのことで、今猛勉強中だ。
「そんな邪険に扱うなよ。」
「悪いが何度来てもらっても返事は変わらないよ。」
「そこを頼む!なんとか!」
彼が私にお願いしているのは、彼が指揮しているオーケストラがやるピアノ協奏曲でピアノを弾いてくれということだ。
曲目はラフマニノフピアノ協奏曲第2番。
あまりに有名かつ、大胆で壮麗な曲の構成は聴くものの誰しもが魅了される。
私としてもダイナミックで弾きごたえのある曲のため、非常に好ましい。
ではなぜ私が断っているのか。
今回は日程が悪かった。
私は今回の滞在でそれほど長くは滞在しないし、最終日の飛行機はお昼頃の便のため、実質1週間弱しか滞在できない。
彼が私に弾けと言うコンサートは最終日の前日。
これではできるものもできない。
しかも今回のオーケストラはプロオケだ。
彼は学生の身ながら、すでに指揮を任されている楽団がある。
それでお金も得ている。
楽団のみんなもそうだ。
お金をもらって楽器を鳴らしている。
そんなプロのみんなとせっかく合わせるのならしっかりと時間をとって、自分なりに満足のいく形で曲を仕上げてみんなと一つの音楽を作り上げたい。
私だけが責任を負う立場で音楽を披露するというのならともかく、急ピッチでとりあえず曲を仕上げてプロと合わせるというのは私の流儀に反するのである。
私はスペイン狂詩曲を弾く手を止めずに応える。
「別に君のことが嫌いで断っているんじゃない。」
「それはわかるが…」
「あと2〜3日でこの難曲を仕上げて、プロのオーケストラと合わせるなんて、そんな提案を私が飲むわけないだろう。」
「いや、きっとヒロなら大丈夫だ!
あんなに弾けてたじゃないか!」
彼には一度弾いてみせたことがある。
諦めてもらうために。
しかしそれが逆効果だった。
「あんなものは弾けたうちに入らん。
何よりピアニストとしての私が納得できない。」
「そんなことはない!あれは確かに聴くものの全てを魅了する音楽だった。」
「とはいえ、弾いている本人が納得していないのだから
あれはまだ未完成だよ。
それに他にいい音色を鳴らすピアニストなんていくらでもいるだろうに。」
「いや、私は君がいいんだよ。
あのモースホールでの演奏には感動した。
間違いなくピアノが喜んでいたんだ。」
これは確かにそうだと思う。
私は良くも悪くもピアノを鳴かせるのが上手いと言われる。
どんなピアノも私が弾くと嘘のように鳴り響く。
昔からそうだったというわけではないのだが、楽器を吹いてきた経験からか、楽器の鳴りやすい音や特徴を掴むのが早い。
そして、莫大な努力量で全てを薙ぎ倒してきたからか、楽器を屈服させるのが上手い。
自分でもわかるくらいに楽器を鳴かせるのがうまいのだ。
「とはいえなぁ〜。」
「お願いだ!」
「日程的にもきついんだ。
日本に帰国する日程と近すぎる。」
「飛行機のチケットくらい私がとるから!」
「私はファーストクラスで帰国すると決めているのだけど、もちろんファーストクラスのチケットを用意してくれるんだよね?片道で140万円くらいかな?」
それを聞いたチャン君は目を見開いた。
「ぐうぅ…」
どうやらぐうの音はまだ出るようだ。
「本格的にこっちに越してきたらやろうって言ってるじゃないか。」
「それはそうなんだが…。」
「ほら、帰った帰った。」
「わかった…」
わかったとは言ったが彼はきっとまだ諦めていない。
どうしたもんかなぁ。