本番
木枯らしを弾き切ったところでハッとする。
後の耳に残っているのはホール全体がうねっているような残響のみ。
極限まで集中すると記憶が飛ぶ。
多分弾いている時はいろんなことを考えている。
でも弾き終わると全部飛ぶ。
なので毎回本番では身近な人に録音を頼んでいる。
記憶が飛ぶ時は、よく弾けている時だ。
ちょっとでも何かが噛み合わない時はどうしても悪い感触が手に残る。
ちょっと間を持たせよう。
立ち上がってまた客席にお辞儀。
その時に楽譜台の横に置いてくれていたタオルで手を拭く。
手汗がすごい。
やっぱり人前で弾くのは気持ちが良い。
「次はこの曲にしよう。」
私が選んだのはまたショパン。
英雄ポロネーズだ。
この曲も得意中の得意だ。
さあ。聴いてくれ。
その後も、私は新曲のチャイコフスキー『四季』の小品12曲とロマンスを含む全16曲を披露した。
締めはもちろんカンパネラだ。
例に漏れず、記憶はない。
きっとマリアが録画録音してくれているだろう。
カンパネラの最後の音を弾き終え、ホールにその残響がこだましている時、私はこの世界に戻ってきた。
響きが消えたところで、
1拍ほどの間をおいて万雷の拍手で迎えられた。
会場全体が割れんばかりの拍手の音で満たされており、観客はみんな席を立っている。
ライトの逆光でみんなの顔が見えないのがとても残念ではあるが、きっとみんな笑顔だろう。
やっぱり人前で弾くってのはいいもんだね。
私は椅子から立ち、下手側にはける。
袖で聞いていたマリアが声をかけてくれる。
「やっぱりさすがって感じね。
あなたがしてきた努力や気持ちが音から聞こえる。
ごめんなさいね、突然のことで。」
「ほんとですよ…。」
一気に緊張の糸が解けた私は、その場にあった長椅子に崩れ落ちる。
「ちょ!大丈夫?」
「あぁ、大丈夫。ちょっと集中しすぎただけだから。」
私にはもともと貧血の気質がある。
低血糖だからなのか、貧血だからなのか、ぐっと集中して、それが解けた時よく顔が真っ白になるのだ。
「ん。」
そんな私に日本の黄金糖を渡してきたのはアレクサンダーだった。
「おぉ…これこれ。」
私はいつも演奏会終わりの時に袖になんかしらのお菓子を用意していた。
これが割とみんなに好評で、前ニューヨークにいた時は日本の黄金糖や綿菓子をよく袖に用意してた。
その中で一番日本のお菓子にハマっていたのはアレクサンダーだった。
一緒にコンサートをしたのを思い出す。
「きてたのか、アレックス。」
「マリアがTwitterでヒロがやるっていうからね。
きっとお菓子用意してないんだろうと思って家から持ってきたよ。」
「ありがとう。」
そうだった。
アレックスはよく人を見ている。
留年してるけど。
私がお菓子を用意していたのも、神経を使って集中した後は気分が悪くなるからだということにちゃんと気づいていた。
日本のお菓子にハマったのは完全にアレックスの趣味だったけど。
アレックスが手渡してくれた飴を舐めて、スポーツドリンクを飲んでいるとだいぶ気分が戻ってきた。
「演奏家は一回のステージで4キロ痩せるっていうわよね。
だからすぐにエネルギーに変わるものを必要とする奏者も多いわ。
ヒロの集中力なら尚更かもね。」
「そうだね、私は日本にいた時はよく綿菓子を食べてた。」
「我々も食べに行きたいものだ。お菓子。」
アレクサンダーが大真面目な顔でそう言う。
「じゃ日本への演奏旅行考えてみようかな。」
「マジか!!!俺絶対行く!!!」
日本食を堪能したいだけのアレックスが騒ぐ。
「いいわね!私も行くわ!」
引率の教官がくるのはありがたい。
「アレックスは留年してるからちょっと厳しいかも…」
「えぇ…」
「とりあえず秋から頑張って教官がGo出せば考えるよ。」
「わかった!!!!」
普段から無気力げな顔をしているアレックスの顔が生気に満ち溢れている。
日本食には魔力がある。
私の体調も戻ったのでその場を解散する。
「じゃ、マリアまた明日ね。」
「うん、待ってるわ。
カリキュラムとかの詳しい話詰めましょ。
あと、練習室は24時間開いてるしいつでもどこでも使っていいからね。
これ、入館パス。学長から。」
「ありがとう。」
時刻は午後6時。
ジェシカと約束した晩御飯の時間までは1時間といったところか。
予期せぬ演奏会のおかげで汗だくなので少しばたつくが一旦家に帰ることとする。
荷物を持ち、駐車場に行き、車に乗って急ぎ目で家に帰る。
家に着くと、車は駐車場に入れずに玄関ドアの前に横付けして家の中に駆け込む。
着ていたものはとりあえず夜なんとかするので脱衣所のその辺に捨てる。
シャワーを浴びて、とりあえず全身をキレイにする。
熱めの湯を頭から被ると、思考がスッキリしてくる。
クローゼットでコーデを考えると時間の無駄なので今のうちから考えておこう。
シャワーから出るとクローゼットに行き服を着る。
お気に入りのサリバンのパンツに、かなりヘビロテしているグラフペーパーの白Tシャツを着て、マルニのグリーンが綺麗なざっくり編みでところどころ穴が開いているデザインのコットンカーディガンを羽織る。
姿見で全身を確認する。
「うん。よし!」
靴はハイカットのカラフルなマルニのスニーカーだ。
今回はちゃんとお金が入っているサンローランの財布も持って玄関を飛び出し、車に乗り会場に向かう。
夕飯会場はアマンニューヨーク。
開業したばかりのホテルである。
マンハッタンの57丁目にあるアマンニューヨークは世界中が注目している、今最もホットなホテルだ。
アマンは東京にもあり、一度だけ食事に行ったが、いつか泊まりたいと私も思うほどいいホテルだった。