エロスとメロスとガソリンと。
彼の指が背中を這う。
初めての夜にそうしたからか、いつもとは言わないまでも、ちょっといいことがあった日や特別な日は彼が私の下着を脱がせる。もうブラジャーのホックを外すのに戸惑ったりすることもなく、かといって流れ作業染みていることもなく。
丁寧な指先の動きからは充分に、彼の気持ちが伝わる。
腰のあたりからまた背中、首筋を通って耳の後ろ。くすぐるように、壊れないように、両手でそっと包んで。
こんな夜はいつもより、自惚れでなく愛されてんなぁって思うし、それが嬉しくて、私も愛してますよって伝えたくて、すぐ目の前の彼に軽くキスをする。小鳥がさえずるように触れるだけのキスを幾度も。
「ちょっとお腹に肉ついたんじゃね?」
「コラつまむな、部活引退したんだから仕方ないじゃんっ」
「これはこれで好き」
「ほんと調子がいいんだから」
すると不意に真剣な顔で私を見つめる。
彼の目に映る私が見える。真っ直ぐに見たら私が見えるなんて、どこかヘンなかんじ。
「んっ」
目を瞑ってさっきよりも長いキス。
やがて彼の唇が私の身体をほどよく蕩かし、そうして私たちの夜は始まる。心なんてもう、とっくに蕩けていた。
四年前、私たちは高校三年生のとき同じクラスになった。
彼は飄々とした性格で誰とでも仲良くなれるタイプで、またスポーツ万能でもあったから、学年でも人気があった。
私はというと、私も人気者だった。
自分で言うと嫌な奴だけど、何というのか、外さない人間だったから。
ここでこんなリアクションをすればウケる。
ここは真面目な意見を言うべきだ。
そういうのを外さない私は、クラスでも中心の立ち位置にいた。
でも私は、冷めていた。
思った通りの反応をするみんなに。それ以上に、冷めた目で周りを見ていた自分に。
このまま、恋なんてしないと思ってた。
放課後になればいつだって私の机を囲んで何人も群がる。
「うっわ、それ萎える~」
友人の一人がおどければ、
「萎えるっていうかむしろ、渇く?」
私がツッコむ。
「ちょっ、生々しい発言禁止!」
そして口々に姦しい花が咲く。
「あれ、お前らまだいたんだ?」
ある日、そう言って陸上部の練習着に見を包んだ彼が教室に入ってきた。
「何話してんの?」
絶妙な間で会話に入ってくる彼は、やはり飄々としている。
「だめー、男子には内緒の話ー」
「なんだよ、それ」
笑いながら、じゃあ部活の途中だから、と去っていく彼の後ろ姿を熱い目で見送る友人もいた。
基本的にモテるのだ、彼は。
「遠藤くん、格好いいよねー」
「今フリーだっけ?」
「愛ちゃんチャンスじゃん!」
「ちょっと、やめてよー。まだ無理だって」
愛ちゃんは困ったような、満更でもないような顔で私を見てくる。いや、そんな目で見られても困る。
「私が思うに、彼はSだね」
ちょっと何言ってんのー、とまた笑いが私の机を包む。
うーん、彼、ほんとにSかなあ。自分で言っといてアレだけど。
ていうか、平和だなあ。
「私はね、遠藤くんの笑ってるところとか、そういうのだけでいいの」
「うわ、愛ちゃんすげー純情じゃん!」
「きっと尽くす女になるねー愛ちゃんは」
……純情ってか、燃費が低いってだけじゃね? 笑顔だけでいいってアンタ。高三にもなればもっとこう、ねっちょりぐっちょりしたいとかあるでしょうに。
彼女たちの盛り上がりを余所に、私はやっぱり冷めていた。
彼に特別な感情を覚えたのは体育の授業だった。
珍しく男女混合で走り高跳びをすることになったその日、ブルマと短パンの違いを熱弁している男子たちの横で、私たちは怠そうに座って話していた。
「ほら、遠藤くんの番だよ愛ちゃん」
「うん」
「うわ、目、キラキラしてるよこの子」
愛ちゃんを茶化すのが流行っていたこの頃、自然、私も彼を目で追うことが多くなっていて。
……いやいや、すげー高さ跳んでるよ。
私も運動は出来る方だけど、あれは無理だね。きっと膝にバネ入ってる、そーゆー手術とか受けてるってあれ。
自分の順番に備えて屈伸していたら、私の前を跳ぶ天野さんが派手にバーを落とした。
彼女は運動が得意じゃなくて、引っ込み思案で、正直クラスのノリについて来れてないような、そんな女の子。……ああ、ほら、泣きそうになってる。
あーあ、とひとつ溜め息を吐いてから走り出す。はてさて、上手く出来ればいいんだけどなっとッ!
がしゃーん。
たぶん文字にしたらこんなかんじだろうなぁ。私は天野さんよりも派手にバーを落とし、
「いったぁーっ!」
芸人顔負けのリアクションをしてみせる。女子高生必修科目、変顔その三十三だ、ほらとくと見やがれ。
「おいおい、何だよその跳び方!」
「あれだ、お前は陸上部に謝れ!」
「いやむしろバーに謝っとけ!」
そうだね、私がこれやったら笑うよね。最高に単純だよこのクラス。みんなマジ愛してるよマジで。でもね、
「おい、遠藤、保健室連れてってやれ」
体育教師のこの一言は余計だった。センセ、ほら、キャラってあるじゃん? 何なら私、こんなときの為に普段のキャラやってるじゃん? えーぎょーぼーがい良くないと思います!
「え、いや私大丈夫ですよ」
それに、愛ちゃんに悪いし。私は冷めてるけど、友達が大切じゃないわけではないのだぜ?
「いいよ、念のためだから。行こうぜ」
彼が近寄ってくる。その顔は当然、私の考えてることなんて気にかけてる様子はなくて、その足取りもいつも通りに飄々としていて。
あーあ。
内心で盛大に本日二度目の溜め息を吐き、目線で愛ちゃんに謝りながら、私たちは保健室へ行った。
スマートにこーゆーこと出来るのってやっぱ、膝にバネ入れただけじゃないんだろう。天然で心までイケメンとか女子高生入れ食いじゃん、やったね!
……なんて一方的に失礼なこと思えるぐらい、私ってアレな性格の女なんですけどそのへんどう思います? あ、気付いてないですかそうですか、はい知ってまーす。
「適当に時間潰して、すぐ戻ろうね」
だって怪我してないし。運動も得意な私は受け身だって完ぺきだった。すべては外さないための行動、それだけだった。
「……お前さ」
私の言葉は無視して、彼が口を開く。
「なんであんなことしたんだよ」
さっきの高跳びのことだろうか。うん、それ以外ないよね。
「……ああ、ごめん、怒った? そっか、陸上部としてはやっぱり許せなかったかー」
「違う、天野のフォローだってわかってるよ」
意外なその言葉に、けれど私はムッとした。
わかってんなら何さ。
あれで場は和んだんだしいいじゃん、てかそこに気付けたんならスルーしてくださいよセンパーイ、いちいち拾うとかマジ性格アレっすよー……。
……いやマジ、キャラじゃねぇこと言い出すなよ。あんたは飄々と誰にでも爽やかクンやってろよ。
私が私の嫌いなところ、遠慮なく踏み込んで来んなって。
きっと顔に出ていた不満に、彼は続けてこう言った。
「お前見てるとムカつくんだよ、私は全部わかってます、みたいなそういうの。お前、もっと出来る奴じゃん。勿体ねえよ」
い、いきなり何言ってくれてんのあんた。
かつて、かの有名なメロスは激怒したらしい。
私が彼に覚えた特別な感情の正体も、たぶん、きっと。
激怒、しちゃったんだろう。静かにだけど、このムカムカは激怒って言っていいだろう。そこんとこどう思いますメロスさん!?
「あんたに言われる筋合いじゃない」
「筋合いとかそんなの、関係ねえって! 出来るのに何でやらないんだよ! そうやって本気出さなかったら、後で必要なとき出せなくなるんだからな!」
お前ならわかってんだろ。
この、最後の一言がとどめだった。
常に全力でやってないと、本当に全力でやらなきゃいけないときに出せなくなる。そんなのわかってる。つまらないのはこの世界の方だーとか嘯いて、どんどんつまらない奴になってる自分に気付いてる。気付いてるどころかこっちゃ毎朝鏡越しに挨拶してんだよ十何年もな!
でも、それをあんたには言われたくなかった。あるんだよ、あんたが口を出すべきじゃない筋合いってものは絶対に。
顔の出来も運動神経も要領もいつだって中の上、どんなに努力したって上の下には届かない、少しでも卑屈な態度を取ろうもんなら皮肉かよって妬まれて、ほんの一握りのホンモノになんか絶対なれない、上ばっか見て首だけ疲れて、仕方ないから自分の嫌なとこだけ見るようになってる私に。
どんだけ努力したのか知らないけどね、間違いなくずっと誰かの上位互換、ほんの一握りのホンモノにだってなれるスペックを散々に見せ付けてるあんたに、ムカつくからってそんな簡単な理由で私が今まで泣く泣く切り捨ててきた色んなものを、目の前に突き付けてやっぱり捨てんなって偉そうに御高説垂れるその神経!
これどう思いますメロスさん!?
「……そんなに本気が見たいんなら、見せてやる」
乗ってやる。これはもう、売られた喧嘩ってか戦争だと私は認識した。ここで引いたら女が廃る。
期待に応えるとかそんなの知らない、でもあんたに負けたくない。
つまらない私の悩みとか全然知らないくせに、一方的に言うだけ言っていつだって全力を出せる綺麗なあんたに、私は負けたくない。
それから私たちの一騎打ちが始まった。
私はこれからいつだって全力を出すこと。御丁寧に何をするにもって条件まで付いてきた。
対する彼は、ごめんと一言謝ることを賭けて。
このクラスの性格だから、それはそれは盛り上がったさ。
「なに、なんで遠藤くんと勝負すんの?」
「よっしゃ遠藤、女に負けんなー!」
最初は男子と女子の平均の高さに合わせて、そこから二センチずつ上げていった。彼が先攻、私は後攻。
頑張ったと思う。
陸上部(それも男子!)と勝負して、これだけ長引けば褒められていいと思う。
グランドに大の字になって、ごめんよメロスと呟きながら私は肩で息をしていた。
「どうよ、本気出せた?」
彼は少し汗をかいた程度の疲れ方だ。ちくしょう、爽やかが過ぎる。
「ま、高跳びで俺に勝とうなんて百年早い」
「ちょっ、専門だったのか!」
出来レースじゃんか!
……あーあ、負けちゃったよ。
それでも不思議と心地好くて、私は目を閉じた。ここまで見事に完敗するとか普通ないもんね。
すると横に、彼も寝転んだ音がした。
「真似しないでよ」
「いいじゃん、減るもんじゃないし」
「減るんだよ私のイメージが」
こんな、男子と青春するような女じゃないんだよ。察せよ。女子高生はイメージ切り売りして生きてんだぞ。
「でも、気持ちよかっただろ?」
屈託なく笑うその笑顔は、とても眩しくて。
ほんと単純だよ、このクラス。
みんなも、私も。
目を瞑ったって、名残惜しそうに夏にしがみついている太陽がわかる。
まだ薫る夏の匂い。
隣に遠藤。
かすかな呼吸の音。
それと、私の心臓の音。
こんなにドキドキしたのって、いつ以来なんだろ。……まったく、つまりこれはそういうことなんだろうね。はぁー嘆かわしい嘆かわしい、しかしながら要領が悪くないもんで、自分の気持ちの見つけ方も、対処法だってもうわかってる。いっそ悲しいぐらいに清々しくて、何だかもう笑いすら込み上げてくる。
「ね、遠藤。付き合おっか、私たち」
「おーいいぜっ、って、は?」
「私が約束を守るとは、限らないだろ?」
「いや守れよ」
「いいから! ……だから見ててよ、近くでさ」
「お、おう……そういうことなら」
「うん、そういうことだから」
「……けどこういうのって、こんな殴り合った結果、みたいのじゃない気がするんだが」
「勝手にズカズカ踏み込んで来て、惚れてもいいなって思わせた遠藤が悪い、諦めて。あとさ、」
「初めて私から執着するって決めたの。悪いけどきっと、重いからね?」
そのとき遠藤を見て告げた私の顔は、中の上にしちゃ最上級の笑顔だったんじゃないかな。
――それから。愛ちゃんとは絶交されちゃったし、机の周りからはずいぶん人が減ったけど。
私は全力を出すようになった。約束だもんね。
ほんとは全然、破る気なんてなかったこと、まだ言ってないけどね。
「うっ……ごめん、もう」
耳元で呟いて、彼は果てた。
彼の弱々しいその様子が、私にはとても可愛い 。果ててからも、しばらく私に覆い被さって動こうとしない。
心地好い重さ。
直接伝わる温もりが、心臓の音が、こんなにも愛おしいなんて。
「あ、ごめん、重かったよな」
離れようとする彼の首に手を回して、それを拒否する。
「だめ。……もうちょっと、このままがいい」
私の我が儘を、仕方ないなと笑いながら遠藤は聞いてくれる。
私は自力で、彼はスポーツ推薦で入った大学ももう四年生。就活を終えても人付き合いの多い私たちはなかなかべったりとは会えないけど、こうやって温もりを伝え合えればもう、私には充分。
何ヶ月分、何年分だって走れるガソリンを 、私は彼からもらってるんだ。や、そりゃ会える日は貪欲に会うけどさ。私も燃費の低い女になったかな、なんて言ったら愛ちゃんに怒られそうだ。
そんなことを考えて一人でニヤニヤしていたら 、彼が不思議そうに聞いてきた。
「何笑ってんの?」
「えーっと、遠い日の、メロスを思い出して」
「なんだそりゃ、意味わかんね」
「わかんなくていいのっ」
軽く吹き出した彼を抱き締めると、背中に回された腕に力がこもった。
「こうしてるとさ、なんか思い出す、あの日のこと」
「あの日?」
「遠藤って、夏の匂いがする」
このまま死ぬまで一緒にっていうのは流石に贅沢で、そんで我ながら重すぎるから口には出さないけど。
それでも、想像も出来ないぐらいずっと長く隣にいたい。あの夏を、これからの夏を、遠藤に感じたい。そのためにはきっと、今蓄えてるだけの愛しいとか可愛いとか嬉しいじゃ、全然足りないって思うから。
――うん。だから私、今、愛を補給しております。
こーゆーモノローグ、どう思いますメロスさん?
ぼく自身が太宰のこと、そんなに好きじゃないっていうのが一番笑うところだよなぁ、なんて思いながら書きました。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。