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第7章

 君のせいだ。

 そう言われる予感はあった。里美からも最近彼の様子がおかしいと聞いていたから。里美には秘密の誘いに応じた夜、目の前のグラスでゆっくりと溶けてゆく氷のように、私は隠していた心を声にした。

「一度だけ…」

 一度だけ、彼を奪った。すべらかな、石のような背中だと思った。

 その感触と共に、罪悪感がいつも私から離れなかった。

 ───今もそれは私の喉の奧で胃の底でぐるぐると渦巻く───

 それから彼は時々私に触れたがった。里美と上手くいかない時だけ。然り気なさを装って肩に置かれる手、逃げようとする私の腕を掴む手に、鼓動だけは正直に高鳴っていた。

「給湯室で彼の手を振りほどいた時に湯呑みを割って」

 里美はいつも変わらずに、

「切れた指に里美がバンドエイドを貼ってくれたの」

 白井さんと生きる道を探していた。私はそんな彼女が、

「ずっと羨ましかった」

 由加にしか話せないと彼女が言った時、私は誰にも話せないと思った。

「私は里美がずっと羨ましかった…」

 終始黙って聞いていた諒介は、ゆっくりとひとつ頷くと、話の間ずっと私の前に広げていた手で、きゅっと拳を握った。

 そして、大きく腕を振って、何か投げ捨てる仕草をした。




 月曜日、諒介は大阪へと発った。

 休憩室には諒介の漫画が置かれ、休み時間に皆が読んでいた。あの時の話は佐々木さんによって『諒さんマジ伝説』と名付けられ、社内に広まっていた。いつのまにかファンタジー風の物語に仕立てられていて、テンジ界に連れ去られ、呪われて石化したイズミ姫(私の事だ)を救うべく、勇者リョースケが伝説の亀を私の前に翳し、「マジ」と呪文を唱えるという、よく判らない話だった。

「泉さんはゲームとかしないの?」

「うん。全然」

 残業前の休憩のひととき、佐々木さんが面白かったゲームの話などを聞かせてくれていると、澤田さんが顔を出した。

「由加おる?」

「おるよ」と市川チーフが答えた。澤田さんが手招きする。私は入力室の外へ出た。開発部へとひっぱられていく。そこに居た二人の男性が「誰?」と訊ね、「伝説のヒロインや」という答えに大笑いした。

「勇者からメール」

 私はモニタを覗き込む。澤田さんは「何やろな、このタイトル」と言いながら『上を向いて歩こう』という諒介からのメールを開いた。



 和泉です。

 二年ぶりの大阪は変わる事なく憂鬱です。

 街角の景色にフラッシュバックする様々なものを見つけてしまう。

 しかしこの道を通らなければたどり着けない場所がある、と

 自分に言い聞かせながら歩き、また考えながら歩いてきました。

 こういう事を書くと君はきっとこれを

 由加に見せるだろうと思うので、彼女だけに判るように書きました。

 ざまあみろ。

 土産はない。期待するな。


 和泉諒介



「素直に由加宛やて書きゃええのに。由加、返事書いたれ」

 私は簡単に一行だけ書いた。その下に澤田さんが続けた。



 待ってるよ。 由加



 澤田です。

 君のいない東京は静かに、しかし確かに息づき、時を刻みながら、

 そこに育まれたものを礎とした橋を架けて君が帰るのを待っている。



「澤田さん」

「ん?」

「本当は知ってるんじゃない?」

「何の話や」

「……」

 横目でじろりと睨むと、彼は「ほんまに知らんて」と苦笑した。

「でもな、何にでも当てはまると思わへん?」

「…なるほど」

 澤田さんの言葉が嬉しかった。諒介だけでなく、きっと私にも当てはまる。

 痛みさえ糧にして、私たちはつながってゆくのだ。

「決めたやろな」

「きっと」

 諒介は四月にまた大阪へ行くのだろう。今度はずっと。いなくなる、だけど私はいつでも橋を向こうへと架ける。

 セロハンテープやバンドエイドでつながれたいびつな橋だけど。




 帰って来た諒介は「正式に決めてきた」と開口一番に言った。

「行くよ」

 判っていても、やはり何も言えない。

 火曜日の夕方に東京に戻った諒介はその足で会社に来た。報告等を終えても帰らずに私が出て来るのを待っていた。行くよ、と言う彼は展示会の準備の時に見せていた、自信に満ちた顔をしていた。私が答えずにいると、彼は「その、」と言いながら歩調をゆるめた。軽く握った拳で額をこすり、俯いてゆっくりと話し出した。

「…何をどうやって決めようか、選択肢は幾つかあった。その中で、僕は、今まであえて遠ざけていたものに、近づく道を選ぶ事にした。…由加は僕を求められている人間だと言ったね。それは求められる僕の役割があって、幸いな事に、僕にはその役割をこなす能力がある…と、思う。やってみなくちゃ判らないんだけど」

 そう言ってクスッと笑った。私は「…うん」と頷いた。

「だから、どこで何をしたいのか、と考えた時にね…うん、その」

と言葉を切って、諒介は小声で「仕事の事だけではなくてね」と付け足した。

「場所も関係なく、僕の居る所で、僕自身がどうあるか、…どう生きるか、という事を初めて考えた。その上で、大阪に戻る事に決めた」

 彼は言い終えて顔を上げ、微笑んで「ありがとう」と言った。

「えっ?」

「ああ、煙草がもうないんだった」

と諒介はくるりと背を向け、煙草の自販機の前でポケットに手を入れて財布を取り出した。

「何が?何でありがとうなの?」

「ああ、小銭が足りない。まとめ買いしておくか」

「ねえってば」

「なんと、千円札もない」

 諒介は両手を上着のポケットに入れると、こちらを見ないですたすたと歩き出した。早歩きになっている。

 …照れているらしい。

 私は「まあ、いいや」と呟いて彼の後に続いて歩き出した。

 築地の駅の入口で「それじゃ、お疲れさまでした」と行こうとすると、彼はニヤッと笑って「あれ?由加」と呼び止めた。

「こんな物があった」

とポケットから出した手を広げた。掌に私の吐き出した青い石があった。

「ポケットに入れたままだった」顔を見合わせ笑った。

「持ってていい?」

「どうして」

「…記念かな。澤田の言った橋の礎にちょうど良さそうだ」

「───うん」

 また明日、と諒介は笑顔で手を振った。

 新富町へ向かって歩き出しながら、そうか、と思った。

 ありがとうってそういうことか。

 諒介は思い描く未来へ橋を架けたのだ。

 私にもできるだろうか。この街で、この、一時でも私の居る場所で。

 私の足元はまだ頼りない。一歩一歩、バランスをとってゆっくり進んでいく。危ういバンドエイド・ブリッジ、どうか崩れないで。

「由加」

 背後から再び呼び止められた。振り返ると彼はまだ駅前に立っていた。

 通りの上に淡く暮れてゆく空の広がりと、その向こうの見えない海までも背負ったような影だった。彼は声を確かなものにするために大きく息を吸い込んで、両手でメガホンを作った。西日に輪郭が滲んで光る。

「待っててよ、僕も待ってる。いつか、」



 いつか、



 私は両手を高く伸ばして振った。夕陽を浴びて、どこからでも見えるように。



【2015年度版あとがき】


この作品は1998年に執筆した、BAND-AID BRIDGEシリーズの事実上の1作目でありながら、諸事情あって第2作の「ホームワード」を先に発表し、第5話に収められていた物です。

このシリーズを改めて皆様にお届けするにあたり、第1話として公開することに決めました。気まぐれじゃないですよ?(笑)「このシリーズの雰囲気を決定づけたのは『ホームワード』である」と言って第1話にしていましたが、それが許される空気が、前のサイトにはあったんですね。つまり、「他作品も読んでいて、筆者を知っている読者の皆様」がいらしたからです。


サイト閉鎖から15年が過ぎて、これからBBシリーズを読まれる方には「何のことやら」という部分が発生するため、由加、澤田、諒介の関係性を明確にする必要がありました。そこで、本来の1作目であるこの作品を、改めて第1話としてお届けすることになりました。


あまりに稚拙で、第2話以降を読んでもらえないのではないか…とも思いました。でも読み進めるとおわかりになられると思いますが、私はこの作品で、成長しました。いや、未発達な部分は15年以上経った今でもあるんですが(苦笑)


と、いう訳で、全10話、番外編もあります。楽しんでもらえたら幸いです。

この先もどうぞよろしくお願い致します。


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