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第6章

 駅から部屋まで走って帰った。もう喉の辺りでがさがさと音がしている。私は部屋に飛び込むとまっすぐ洗面所へ走った。

 うまく吐き出せない。

 口に入れた指が、喉元まで出かかったそれに触れた。

 怖い───ぎゅっと目をつぶった。

 つるりとした感触に気持ち悪くなって、ゴホッと咳で押し出そうとする。吐き出した筈なのに、口の中には何かの感触が続いている。もう一度指を口に入れた。

 何か、長い物だ。掴んで引っ張った。薄く、幅のある───

 つるつるとした、これは何?

 目を開けた。黒っぽいテープ状の物が私の口元から洗面台に落ちて蜷局を巻いていた。

「───」

 声にならない悲鳴が息になって漏れた。震える手で引っ張った。

 引いても引いても、ずるずると出続ける。

 いやだ、───いやだ、

 ───まだ、まだ…?

 もうやめて。

 吐きながら床に倒れた。口の中の怖ろしい感触が消えた。息を切らして、洗面台からだらりと下がったそれを見る。恐る恐る触って、何かに似ていると思った。

 ……ビデオテープのような……

 諒介。

 『何を吐き出したいのか、僕には訊く権利ないかもしれないけど』

 『僕はそんな理由で未来を決める事はできない』

 殴った時、諒介が歯を食いしばっていたのに気がついた。殴られて伏せた目を上げ、頼りなく私を見てゆっくりと眼鏡をかけると、何も言わず築地の駅の階段を降りて行った。




 翌日の昼食は会社から少し離れたカフェに誘われて、澤田さんと二人で採った。きっとまた話があるのだろうと思ってついていった。

「和泉を殴ったんやて?」

 やるなあ、由加、と笑って呑み込んだばかりのサンドイッチにむせる。澤田さんはコーヒーを一口啜った。

 今日は打ち合わせはなかった。諒介が出向で来ていないのだ。もう充分覚えたし、そちらは大丈夫だろう。ただ昨日の今日で、顔を合わせたらどうすればいいかと考えていたので拍子抜けした。澤田さんは「夕方には来るやろ」と言った。

「どうして知ってるの?」

「昨夜、電話で…。あいつは放っておくと何も言わへんからな」

 気に懸けてくれていたのだ。「どうも…」と、何となく頭が下がる。

「『グーで殴られた』て笑うてたわ。心配すな、怒ってへんから」

と言って、手にしたサンドイッチを口に入れようとして止めた。

「おまえら、付き合うてんのと違うんか?」

「違うよ」と答えて紅茶を飲む。

「…今ちょっと困ってる事があって、ひょんな事から諒介がそれに関わっちゃって、」

「それで殴られてんか」

 呆れ顔で言われ、言葉に詰まる。

「…うん。諒介の言う事は正しいよ。判ってるけど」

 澤田さんはあっという間に皿の上をきれいに片づけて、コーヒーを飲みながら考え込んでいた。やがてぽつりと「大阪行くんかな、あいつ」と言った。

 私もそう思う。思わず握りしめた拳を黙って受けた諒介は、もうそのつもりだったのかもしれない。

 夕方、入力室に諒介が現れた。紙袋を持って私の所まで来るとそれを差し出し「明日までに読んでおいて」と言った。何だろう、と中身を取り出す。漫画本が5冊。

「こち亀…?」

 なぜ明日までに読まなければならないんだろう。私は座ったまま、呆然と漫画の表紙から顔を上げ、マシンの横に立つ諒介の真顔を見た。

「選りすぐりだ。もしも明日、説明会の最中に具合が悪くなるような事があったら、両さんの事だけを考えて乗り切るんだ」

「……」

 どう反応していいか判らない。佐々木さんがマシンをサスペンドしながら笑い出した。

「和泉さん、彼女困ってるよ」

「いえ、マジなんですけど」

 部屋に笑いが広がっていく。諒介は苦笑して「まいったな」と呟いた。

 本当に、この人は何て人なんだろう。彼は「うん」と何度も私に頷いてみせたので、マジだというのは吐き気の事を言っているのだと判った。それをこんなふうに言えるなんて、かなわない。私は机に突っ伏して肩を震わせて笑った。

 やっぱり大阪に行って欲しくない。




 説明会は順調に進んで行った。諒介の説明を追って操作してゆくのを、後ろに並んだ人達が覗き込んでいる。緊張すると、逆に思い出し笑いをしてしまいそうになった。漫画は面白かった。こういうのが好きなのか、意外だと思った。それが済むと私の出番は終わりで、後は諒介の話を聞くだけだ。皆が会議室を出て行くと、諒介が後片づけを始めた。

「お疲れ様でした。戻っていいよ」

「うん」

と言いながら何となく手伝う。土曜の入力室の業務は半日で、戻ってももう終わっている。お茶当番の人も帰った頃だろう。

「由加」

 残った資料を箱に入れて私を呼んだ。椅子を並べ直していた私は顔を上げた。ガタガタという音の合間に話す。

「打ち上げやるか」

「うん」

「話がある」

 背を向けて話していた諒介は振り返り、頼りなく微笑んだ。彼は一度帰ってから私の部屋に来ると言って段ボール箱を抱えた。

 夜、訪ねて来た諒介は「すごい、片づいている」と玄関から部屋を見回した。思わず握った拳が宙に浮く。彼はクックッと笑って「飯を食いに行こう」と言った。先週と同じ青いシャツの中は白。私はジャケットをはおりながら訊ねた。

「話って何」

「後で」

 駅前通りをゆるゆると歩く間、諒介は右手の指先で固く結んだ唇に触って何か考え込んでいるようだった。きっと大阪行きの話だろう、と思うと話しかけづらかった。肩を竦めて俯くと、彼はふいに立ち止まった。

「…そこの、」と彼が指差す方を振り向いた。

「天ぷら屋と中華料理屋と、どっちが旨いんだ」

「…中華屋」

「そうか。どっちがいいかずっと迷ってた」

 そう言って急にニッコリと笑ったので、私は顎が地面まで落ちたような気がした。「悩んで損した」と私が言うと、彼は「ははは」と笑って私を横目で見た。

 点心とビールで乾杯し、今日私が見ていない展示会全体の話を聞いた。私には判らない事が殆どで、ただ頷くだけだったが、諒介は仕事が楽しいようだった。けれども用件はこれではないのだろう。時折、先刻のように指先で唇に触れながら、言葉を選んで黙り込む。本題を避けているのかもしれなかった。

 テーブルの上の蒸篭や皿が空になり、漫画の話も詰まったところで、諒介は黙っていたかと思うと突然「うん」と頷いた。

「月曜日、大阪に行く。実際に向こうの仕事を見て決める。火曜には戻る。以上」

「…話って、それ?」

「うん」

 私は諒介の顔を直視できなくなって、気の抜けたビールをぼんやりと見た。彼の声がテーブルの上に静かに置かれたように聞こえた。

「由加のおかげだ」

「え?」

 驚いて顔を上げると、彼は「その、」と指で鼻の頭を軽く掻いて目をそらした。

「…昨日、自分で言った言葉がそのまま自分に跳ね返ってきた。拳付きで」

と言うと穏やかに微笑んだ。

「自分が何をどうやって決めるのかを、見て来ようと思う。…大阪で」

「……」

「…出よう」

 何を言われたのかよく判らない感じだった。

 疑問が目の前に沈んでゆくような感覚に、俯きがちにもと来た道を戻る。酔いで火照った体に夜風が冷たかった。

「…どうして迷うの?」

「……」

「いい話なんでしょう?行けばいいじゃない、大阪」

「まいったな。行くなと言ったり行けと言ったり」

 諒介はフッと笑った。

「どっち?」

 そう言われて、私は隣を歩く彼を横目で見上げ、恥ずかしくなった。行けばいい、という言葉が八つ当たりだと判ったのだ。

「…諒介がいなくなると寂しくなるって、入力室のみんなも言ってた。それに、来て欲しいって言う会社もあって…。諒介はみんなに求められていて、居場所がたくさんあって…」

 私は何を言っているのだろう。語尾が震えた。

「…贅沢だよ」

 足を止め、頭を下げて私の顔を覗き込む諒介の顔が歪んで見えた。瞬きをしたら涙がぽろりと落ちて、はっきりと見えた彼の顔は困り果てたような頼りない笑みを浮かべていた。坂道の下、公園の隅の明かりが芽吹き始めた木々の枝越しにわずかに届く薄暗がりに、私は少しほっとした。

「私は通り過ぎるだけ…。一時求められても」

 誰かの影が頭をよぎった。

「その時だけなんだもの」

 それは派遣という仕事のせいなのか、私自身のせいなのか、判らない。

 諒介は傍らのガードレールに腰掛けるとかすかに溜息を吐いて、すっと手を差し出した。

「吐く?」

「…え?」

「ここに」

 彼は首を傾けて、静かに続けた。

「この手も由加にとって一時のものかもしれない。だけど確かに、ここにあるんだよ」

 胸に何かがぎゅっと固まった感じがして、両手で口を押さえた。彼は微笑んで「何も気にしなくていいよ」と言った。

 私は本当に望んだものを前にしているのだと思った。

「ずっと寂しかった」

 諒介が頷いた。私はやっと『嗚咽』を吐き出す事ができた。


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