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第5章

 どれくらい眠ったのだろう、背中が痛い。でも意識ははっきりしている。薄明かりが瞬くのに驚いて、私は目覚めてすぐ起き上がるという、自分でも信じられない行動をとった。

 振り向いた諒介と目が合った。

「…夢?」

「何が」

 暗い部屋。音のない映画。ベッドに寄り掛かって足を伸ばして座る諒介。

「今、いつ」

「夜の11時過ぎ」

「そうじゃなくて」

「寝惚けてる?」

 よく見ると諒介はネクタイを締めている。テレビの画面はフランス映画だ。

「…あれ?」

 ククク、と諒介が笑って背中を丸めた。

「…どういうこと」

「覚えてないの?」

 笑いを止めて、彼は眉間に皺を寄せた。

 なぜここに居るのかと訊いたら、今日私が無断欠勤をして、これはきっとまた吐いたに違いない、と様子を見に来たのだという。呼び鈴を鳴らすと、私はぼんやりした様子でドアを開け、諒介を招き入れると自分はさっさとベッドにもぐって眠ってしまった、と言われて愕然とした。

「よっぽど眠かったんだな、目が開いてなかった」

 必死に記憶を手繰る。昨夜吐いて…と床を見るときれいに掃除されていた。「ご迷惑をおかけして」と言うと「うん」と言われてがっくりした。

「何があった」

「え?」

 彼は胸ポケットから煙草を一本取り出して「うん、その」と目をテレビに向けた。

「吐く前」

「…ビデオ見てた…」

「これ?」と手にした煙草で画面を指した。

「ううん。この前の」

「…それは、いつ」

「昨夜」

「昨夜は一人だった?」

「え?」

 なぜそんなことを訊くのだろう。諒介はこちらも見ずに言った。

「この前言ったでしょう、きっかけの事。思いがけない人と話すとか」

「…友達と…」

「うん」

「…飲みに行ったけど、そこで別れて、一人だった…よ」

「そうか」と答える時も、諒介の目はテレビの画面に向けられていた。黙り込むので私もテレビを見る。暗い色彩の映画。音はミュートのままだ。痩せた少女の暗い眼差しをぼんやりと見ていると、ふいに諒介が静寂を破った。

「そうだ、喉、痛くない?」

「別に」

「ならいい」

「…私、何吐いたの」

「……」

 私はベッドから降りると屑カゴを覗いた。こっちじゃない。諒介が立ち上がって私を追った。キッチンのごみ箱に、口を絞めた袋があった。由加、と彼が止めるのもきかずに私は急いでそれを開けた。

 缶のプルトップだった。

 10個くらいだろうか。私はごみ箱を抱えるように床に座り、壁に凭れて呆然とした。一瞬、何か見えかけた。

 あれは───

 ───いやだ、見たくない。

「気が狂いそう…」

 静かだった。テレビの光がゆっくりと色を変えていく。私の前に片膝をついている諒介が今にも立ち上がるように見えた。

「諒介、大阪行くの?」

 答えない。

 私も言葉を失くし、揺れる光の洩れる方へと顔を向けた。諒介もそちらを見る。

 黒い球を手にした女の子がそれを口に入れるところだった。

 口一杯の大きな球だ。それをむりやり呑み込むと、彼女は喉を押さえて苦しみだした。後ろは本がびっしりと並んだ本棚だ。もがき苦しんで背を本棚にぶつけ、手で棚に掴まり、よろよろと歩いている。

 不意に本棚が動いた。

 隠し扉。

 彼女は扉の向こうの暗闇に落ちた。棚の扉は勢いよく閉じ、後には何事もなかったような本棚が、ただそこにあった。

 彼女はどうなるのだろう、と暫く見つめていたら、そのまま終わってしまった。

 誰にも気づかれず。

「…由加みたいだな…」

 掠れた声で諒介が言った。

 思わず振り向くと、彼もゆっくりと振り向いた。私を見ると、一瞬驚いたように見開いた目をすぐに伏せた。

 私もあんなふうになるんだ。きっと。

「ごめん」

「…帰って」

 諒介は黙って立ち上がると上着の袖に腕を通し、何か言おうとしてやめ、玄関に置いたままだった鞄を拾い上げて静かに出て行った。




 ずっとベッドの上に転がってぼんやりとしていた。今日も休みたい。諒介の顔を見たくない。だが今週はチーフの言った通り仕事が混んでいる。打ち合わせは憂鬱だったが行かなければならないと思った。休みが多いと次の仕事にも関わってくる。

 始業前のわずかな時間や休憩時間に、次々と声をかけられた。「大丈夫?」と訊かれるたびにだんだん恐縮して身が縮まった。

「ごはんちゃんと食べてないでしょう」

「え、」

「時々お昼に姿くらますのに、外に出てる様子もないからさ」

 驚いた。

 隣の席の人はニコッと笑って「ダイエット?必要ないじゃん」と言った。何て答えたものか、吐くのが怖いとは言えないし、と迷っているとチーフが彼女に声をかけた。

「佐々木」

 はい、と彼女は立ち上がって行ってしまった。

 派遣という立場から、女性ばかりの職場の連帯感の中に入り込むのが難しく感じていた。だけど周囲の人は見ているのだ。些細なきっかけで他者との関わりは変わってくる。奇妙なきっかけだけど。それはもう以前から判っていた筈なのに、関わりを拒んでいたのは私の方だった。

 私は心の中で「隣の人は佐々木さん」と繰り返し、ぐるりと部屋を見回した。

 諒介はいつも通り淡々と打ち合わせを進め、昨日の事は何も言わなかった。謝らなければいけないのは判っているが、きっかけがつかめない。気のせいか、私の顔を見ないのでとりつくしまがなかった。まるでずっと息を止めていたかのように、大きく息を吐き出しながら「以上です。お疲れさまでした」と切り上げて、さっさと会議室を出て行ってしまった。私はのろのろとマシンの周りを片づけながら心細くなった。

 昼休みには、休憩所でお茶を飲んだ。やはり食べるのが怖くなっていたのと、あまり外に出たくないのと。澤田さんが休憩所と通路を隔てる衝立の上に顎を載せて、「由加」と呼んだ。八重歯を見せてニカッと笑う。

「生首」

「……」

「つっこめや」

 口を尖らせてこちらにやってくると、澤田さんはどかっと椅子に腰掛けた。

「どうしたんですか?」

「それはこっちの台詞。昨日どないしたん」

 私は「ちょっと」と口の中で答えた。

「おまえら、何かあったんか」

「…誰と?」

と答えて俯きながら上目で見た。これがあの澤田さんかと思うくらいの真顔だ。

「和泉も昨日からおかしい。由加が来てへんて市川さんに聞いてから、時々何や考え込んどったし、今日はめっちゃ不機嫌や」

「うん。謝ろうと思ってるんだけどね」

「ふむ」澤田さんは背を丸め、膝に肘を突いた頬杖で私の顔を覗き込む。

「諒介、大阪行くって本当?」

「何や、原因はそれか?和泉もはっきりせえへんからなあ」

「人事って決められたら仕方ないものなんじゃないの?」

「奴を欲しがっとるんは本社やないねん」

「え?」

「うちとこのグループの、まあ親玉会社やな。本社におった頃から目ぇつけられよって、こっちには鍛えられに来ててん。で、そろそろええやろと」

 きゅっと何かに心臓を掴まれたように感じた。

「何で諒介ははっきりしないの」

「うーん?向こうの開発チームの方が面白そうやしな。仕事に魅力は感じるんやろけど、何でか渋ってんねん」

 俺も知らへん、と額を掻いた。

「今日は歩く速度が三割増しやったやろ」

 そう言って、澤田さんはやっといつもの笑顔を見せた。

「返事急かされて苛ついてんのやろ。堪忍したってな」

 用件を素早く済ませて立ち去る澤田さんを見ながら、諒介は好かれているのだな、とまた思った。

 諒介は、求められている人なんだ。必要とされている人なんだ。

 空になった紙コップを屑カゴに捨てた。昼休みはまだ終わらない。私はもう一杯ウーロン茶を買った。

 砂のように乾いた自分が嫌だった。




「なあ、早歩き健康法でも始めたんか」

「いいや」

「せやろ?あんなんアカンで」

「何で」

「生物の心臓はな、生きとる間に打つ脈の回数が決まっとるんやて」

「それで」

「早歩きしたら脈が速うなって、その分寿命が縮む」

 諒介はようやく立ち止まった。

「アホ」

 やっと二人に追いついた。残業を終えて開発部の前を通ると、二人もまだ残っていたので外で待った。澤田さんが私に気がついて、早歩きの諒介にあんな話をしていたのだ。

「お、由加。今帰りか」

 しらじらしい、と全員が思っている空気。

 追いついたはいいが、何と言っていいか判らない。見ると諒介はいつか地下鉄の車窓に映ったような頼りない顔をしていた。ふっと溜息をついてガードレールに腰掛け、「悪い、ちょっとなさけなかった」と爪先に向かって言った。

「お先にな、お疲れさん」

 澤田、と諒介が呼び止めたが、澤田さんは駆け足で行ってしまった。私は澤田さんに感謝しつつ、あの、と切り出した。

「昨日はごめん」

「何で謝るの?」諒介はきょとんとした。

「いろいろと…」

「…ああ、はい、判りました。でも謝るような事じゃないでしょ」

「え?」今度は私が驚く番だった。「怒ってたんじゃないの」

「怒る?」

 手でガードレールを押すように勢いをつけて立ち上がり、彼は歩き出した。横に並ぶ。

「うん、怒ってたよ。余計な事言ったから自分に腹が立った」

「……」

「だからまあ、由加に合わせる顔がなかったと」

と、彼は言って人差し指で鼻の頭を掻いた。

 こういう人なのか。

 それは以前から判っていた事に初めて気づいたような、不思議な感動だった。とても静かで、見過ごしてしまいそうな。

 最初からそうだった。吐き出されたセロハンテープに戸惑わない人なんていない筈だ。彼はあの時の掌のように現実を受けとめようとする人なんだ。私には耐え難い奇妙な現実、恐怖、それさえも触れる事のできる人。

 新大橋通りに出て築地駅の入口前まで来ると、焦燥感に襲われた。

「諒介」

「何?」

「行かないで、大阪」

 ゆっくりと立ち止まった。振り向いた彼の眼鏡の奧の目が大きく見開かれている。

「諒介がいなくなったら、私これからどうしていいか判らない」

「……」

 信号が変わって車が止まる。ふいの静けさに戸惑うように諒介は目を細め、眼鏡を外した手で眉間をこすった。

「…由加、」

 時間が止まったような気がする。彼は手を下ろし、真っ黒の瞳で私を捉えると呼吸を一つした。

「僕はそんな理由で未来を決める事はできない」

 そんな事は判っている。

 諒介は唇を固く結んで私を見ていた。私はぎゅっと力を込めて拳を握り、諒介を殴った。


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