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第4章

 朝のテレビ中継。地方各局からのどかな話題が伝えられる。シャワーの後で髪を拭いていると「北海道の」という声に顔を上げた。道南のどこかの町。空が広い。

 白井さんの行く先はこんな感じなんだろうか、と考えるのではなく、胸のどこかでぽつんと思っている。床に座り込むとスリップの裾が濡れた。髪が額や頬にはりついて、身体のあちこちの隅からひんやりとしてくる。

 中継が鹿児島へと飛んだ。「こちらはもうすっかり春」と北海道のリポーターに呼びかけながら、花を出荷する様子を伝え始める。色とりどりの花を見ると何となく笑みが浮かぶ。ごろりと横になった。ずいぶん濡れていた、腕も背中も冷たい。また着替えなくちゃと思った時、画面は金沢の城下町に転じた。曇り空の下でまだ寒そうに見える。神様が時間をひっぱっているような、きれいに古びた町並みだ。誰かが金沢の生まれだと言っていた、そうだ諒介だ、似合わない。富士宮が映らないかな、と待ってみたが、中継はそこで終わり、スタジオが映し出された。私は起きあがってテレビを消した。



 壁の時計を見上げて仕事を切り上げた。『112/』と書いた票を原稿の束に付けて山に戻す。途中だが、打ち合わせに行く。チーフが目で「いってらっしゃい」と言うようにこちらを向いて頷いた。三階の会議室の一つが説明会に使われる。運び込まれたマシンの前に座って諒介が来るのを待った。

 おはようございます、と言いながら彼は部屋に入ってきた。

「ちょっと変更がありまして」とファイルを広げて傍らに置き、立ったままキーを叩いて画面に問題の箇所を呼び出した。短い言葉でわかりやすく説明する。私は昨日貰った資料を訂正しながら聞いた。

 打ち合わせ中の諒介は殆ど別人のようで、表情も口調もずいぶん違う。時々澤田さんが部屋の空気をかき回しに来て、その時にようやく破顔するという感じだ。澤田さんはというと、作業中も変わらず何か言っては笑わせたりと、常に明るい。そして口だけでなく手も休まず、風のように去ってゆくのだ。

 違うな、と思ったのは私で、一つの場所で一つの仕事を続けるという事が裏付けとしてある自信とか、確信とか、そういったものが彼らにはあって私にはないという事に気づかされた。

 そんな事を午後の休憩の時間にお茶をいれながら考えた。一定の時間に休憩をとるため、入力室には別に休憩室がある。緑茶かコーヒー以外の物を飲みたい人だけ、通路の休憩所で飲み物を買ったりするのだが、皆大抵緑茶を飲んでいる。私は『063の人』と名前を覚えた杉田さんと一緒にお茶を入れて部屋に戻った。

 テーブルにはクッキーの缶が開けられ、女性ばかりの賑やかなお茶の時間が始まった。もうすぐ異動の時期だという話から、あの部署へは行きたくないと言って笑いが起きたりしていた。

「泉さんは四月の締めの日までだっけ」と誰かが言った。「はい」と答えると「そういえばもう一人のいずみさんも」と、入力室に出入りが多いせいか、諒介の話題になった。

「三月いっぱいかもよ」

「あ、知ってる。人事の人から聞いた。本社に戻るって」

「出来るからね、和泉君のくせに」

 のび太のような言われようだ。

「面白いよね」

「うん、面白い」

 面白いという評価なのか。

 諒介がいなくなるとつまらない、というのが皆の意見だった。好かれてるんだな、と思った。また、私にないものを見つけてしまった、と考えていた時、休憩の終わりを知らせるブザーが鳴って、チーフが「まあまあ、まだ決まった訳じゃないって」と話を切り上げた。

 定時に終わって外に出ると、日が長くなっている事に気がついた。買い物でもして帰ろう、とその時は思った。そのつもりで池袋のデパートに寄り、ディスプレイの並ぶ通路を歩いているうちに、思い立ってそのままフロアを突っ切った。階段を降りて外に出る。私の足は、あの会社に向かっていた。途中で気づいて電話をかける。白井さんの名刺が役に立った。内線を繋いでもらう間、じっと眺める。白井正幸。こんな名前だったのか。

「お電話代わりました。飯島です」

「泉です。泉由加」

 先日駅で擦れ違った時の彼女の姿が思い出された。

 何か言いたげに大きな目を見開いて、私に視線を送っていた。私はそれを受けとめる事ができずに目をそらした。

「久しぶり」と私が言うと彼女は「うん」と答えた。

「今夜空いてる?」

「知ってるくせに」と笑いを洩らす。

「知らないよ。それで、空いてるなら夕飯一緒に食べない?」

「うん、いいよ。もう終わるところだったからすぐ出られる。下で待ってて」

「はい、じゃあ後で」

 電話ボックスの目の前のビルの入口の向こうには見覚えのある守衛さんが居た。私の事などもう覚えていないだろうけれど。

 エレベーターを降りて私を見つけると飯島里美は駆け寄って来た。「由加、」といきなり抱きついてきたので、少し泣きたくなった。




「痩せたね」と言うと里美は「最近あまり食べなくなって」と答えた。去年二人で何度も寄った店で一年ぶりに見る彼女は髪が伸びて、少し痩せて、それでも口調は変わらない。周囲の景色もまったく同じで、彼女だけ擦り代えた映像のように何かずれて見える。先刻涙を堪えた目がまだ赤かった。

「だめだよ。食事は健康の基本なんだから」

「由加がそんな事言うなんて意外だな」

「私もそう言われたばっかりなんだ、実は」

 里美は「なあんだ」と笑って「もしかして、この前一緒に居た人?そうそう、あの人、誰?」と訊いた。

「今行ってる会社の人で、あの時は休日出勤の後」

「なんだか恐そうな人だね」

「恐そう?」

 意外だった。昼間に入力室でさんざん面白いだの緊張感がないだの言われていたからだ。その通り言うと里美はラザニアを掬う手を止めた。

「そうなの?すごく緊張感の漂う人に見えたけど」

 私も手を止めて考え込んだ。言われてみれば諒介にはそういう一面もある。仕事中は間違いなくそうだし、その切り換えの速さに私は何度も救われている。

「うん、まあ、よく判らない人…」

 里美に白井さんの事をどう切り出そうか、ずっと迷っていた。彼女の涙が、白井さんとの事を語り尽くしているようにも思えた。

「…あの時、白井さんの送別会だって…」

 里美は頷いて、そのままテーブルに視線を落とした。

「一緒に…」

 行かないの?

 行こうって言われなかったの?

 訊けない。

「…別れた」

「…そう、だったんだ」

「うん。なんか、ずっとぎくしゃくしてて。擦れ違いっていうか、噛み合わないっていうか。それで彼が北海道行くなんて急に言い出して、それがきっかけかな」

「ふうん…」

 胸が軋む。

 どう思えばいいんだろう。

 目が上げられない。私はカルボナーラの巻き付いたフォークを皿の上でくるくると回し続けて里美の声を聞いていた。

「そんな心配しないでよ。もう、ふっきれたからさ」里美が明るい声を出した。

「飲も、ボトル頼んじゃえ。ピザも追加しよう。スモークサーモンの、あれおいしいよね」

「うん。とことんつきあいましょう」

 ピザとボトルワインを注文して、一年間の空白を埋めた。里美と白井さんの喧嘩の話や気に食わない上司の話、私の派遣先で起こった様々な出来事、新橋のガード下で親父達に紛れて食べたおでんの話なんかを、私達は笑いながら脈絡なく並べた。ボトルはあっという間に空になった。

「久しぶりに飲んだねえ」

と私は言った。里美は「また会って飲もうよねえ。絶対だよお」と呂律の回らない舌で言って私の肩に腕を回した。駅前の公園を横切り、噴水の辺りを通る時、里美がぽつりと呟いた。

「由加にしか話せない、こんなの」

 うん、と答えるので精一杯だった。私には他に言葉がないのだ。

「白井のバカ野郎」

「…言っちゃえ言っちゃえ」

「白井のバカヤロー!」

 里美が拾って投げた空き缶が、偶然ごみ箱に入った。「ストライクー。へへへ」

 もう一つ缶を拾って、見えない帽子のつばを軽く上げ下げした。

「投手飯島、第二球投げます。白井のバーカ」

 ひょい、と下手に投げた。これもごみ箱に上手く入った。

「いいですねー。酔っても善行を忘れません飯島」私が解説を務めた。「ピッチャー第三球、出るか消える魔球!」

「消えないってー」

 二人で肩を叩き合って笑った。酔っているからか笑い過ぎてしまう。涙が出てきた。そんなに簡単に好きな人をアウトにできる訳がないのを、私も里美も知っていた。




 部屋に戻っても明かりを点ける気になれなかった。私は何度も見たビデオをセットした。他の物も返却日までに見なければならないのに、同じ香港映画を見る。何となく音を消す。この前のようにベッドに寄り掛かって膝を抱えた。夜の車窓、網タイツの女、口の利けない青年、殺し屋の男、寂しい女、土砂降りの雨の中のキス。

 背中を丸めたまま横になる。別れの場面だ。

 いなくなる。

 私はひっそりと泣いた。

 里美と白井さんの関係に気づいたのは派遣されてひと月経ってからだった。同性から見ても里美は可愛い。さっぱりした気性と周囲に気を配る細やかさを兼ね備えて、誰とでも上手く話せる。人見知りの私が派遣先で仲良くなった数少ない一人だ。だからその時の残念な気持ちはそのまま消してしまおうと思った。私はすぐに居なくなるのだし、と軽く考えていた。派遣期間が少しずつ延びて、毎日顔を合わせて、惹かれてゆくのが辛かった。自分から辞める事もできたのにそれをしなかったのは、彼の鮮やかな存在感が目をひいて仕方なかったからだ。

 里美を連れて行ってくれればこんな思いはしないのに。

 ワインのせいか頭痛がしてきた。ああ、また吐くのか、と胸の辺りを押さえた。嫌だ、見たくない。

「…諒介」

 何を見ても驚かないような、諒介の眼鏡があればいいのに。

 白井さんがいなくなる。

 諒介もいなくなる。

 胃の底が熱い。私は起きあがる事もできずに、そのまま床に吐いた。何かまた紛れているのだけ判ったが、目をつぶって見ないようにした。酒臭い。吐くだけ吐いて、床の上を転がってそこから遠ざかった。

「諒介」

 私は世界から切り離された。


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