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第3章

 諒介が新富町の駅の階段を降りて行くので、後に続いた。私は定期を持っているが、彼は券売機の前で小銭を出す。

「由加はどこで降りるの」

「池袋で乗り換える」

 池袋まで切符を買った。

「どこ行くの」

「途中まで送ってく。ついでにどっか寄る」

 電車に乗ってドアが閉まると諒介はドアの方を向いて立った。服装のせいか会社で見るより背が高く見える。まるっきり休日仕様なのだ。ジーンズの足元は履き込んだコンバース。「由加、」と彼はガラス窓を指差した。

「寝癖ついてる」

「えっ」

 咄嗟に髪を押さえた。諒介は「そこじゃない」と言いながらクックッと笑って身体を折った。

「起きてそのまま出て来たって一目瞭然」

 恥ずかしいのとおかしいのとでつられて私も笑い出す。

「自分こそ、開発の和泉さんに見えない」

「あの人はマシンとセットで一台だから」

「何それ」

「あーあ、頼りねえ」

 互いにガラスに映る相手に話していた。まるで他人事のように、とはこういう感じなんだろう。私達は自分に向かって話し始めた。

「だいたい痩せ過ぎなんだよ」

「低血圧だし」

「顔に緊張感がないぞ」

「胸ないし」

「知らなかった」

「バカ」

 だんだん気が楽になってきた。そうだ、諒介は人をリラックスさせる。会話の押したり引いたりが上手いのだ。昨夜の澤田さんとの会話でも、速いテンポで喋る澤田さんの話に絶妙のタイミングで入ってすっと引き、時には彼を黙って頷くだけにしてしまう。私がやたらと話しかけられるのを嫌うのは、一方的に押されてしまうからで、その点諒介や澤田さんは上手く会話をリードしているのだろう。

「どうしようか、これ」

と諒介は掌に載せた青い石を見せた。

「気持ち悪いから捨てて」

「うん」

 そう答えながら電車の中ではどうしようもなく、彼はそれをまた上着のポケットに入れた。

 池袋で下車して改札を抜けた。本屋に寄るという諒介と一緒に地下道を歩く。

 人混みの中に見覚えのある人を見つけた気がして振り返る事はよくある、今日もそれかと思った。

「いずみさんじゃない?」という声に、諒介も振り返った。

 名前は思い出せないが、顔は覚えていた。という事は、その向こうにいるのは間違いなく本人なんだろう。この近くに、私が一年前に派遣された会社があった。

「久しぶりだねぇ。今どこ行ってるの?」

「築地」

 今まで気にならなかった寝起きのままの姿が恥ずかしく、俯きがちになる。「みんな揃ってるんですね」と彼女の後ろでこちらを見ている顔ぶれを目の端で見た。

「うん、白井君が退社するから」

 辞めるのか、と私は彼を見た。

「北海道に行くんだって」

「そうですか」

「泉さんも誘いたいところだけど、お連れがいるみたいだし」

と諒介を見て言った。諒介は唇をぎゅっと結んで軽く会釈した。それじゃ、と皆ぞろぞろと擦れ違って行く。彼は最後に歩き出し、すれ違う時ちらりと私を見た。私は目をそらした。

「知り合い?」と諒介が訊いた。

「去年行ってた会社の…」

 語尾が震えた。喉の奧に何かが、

 諒介が私の顔を覗き込んだ。すぐに悟ったのだろう、

「ここじゃまずい、その先までもつか」

「わか、ない」

 だめだ、吐くな、と自分に言い聞かせる。諒介に抱えられるようにして歩いた。近くのショッピング街に飛び込む。目の前で何か明滅した。転びそうになるのを諒介が支えた。さっき吐いたのに、もう何も出なくなるまで、と口をついて出ているのか、彼は「うん、判ったから」と答えている。意識が暗くなる瞬間、喉の奧からがさがさと何かが上がってきた。口の中がごろごろする。私は激しく咳き込んだ。

 ザーッという水音と、前髪にかかる水の冷たさで、少しずつ視界が戻ってきた。白い洗面台に散らばったそれらは奇妙な形をしていた。丸まっていたり、輪を作っていたり、形は様々だが一様に肌色で、諒介が流れる水の中からそれを一つ手に取った。

「…バンドエイド」

 私は名前を与えられたそれをあらためて見た。水の流れで踊るように蠢いている。

 洗面台に両手でつかまってやっと立っていた。「由加」と呼ばれた途端、膝の力が抜けて水のはねた床にへたり込んだ。洗面台の縁が額に水の冷たさを伝える。

「いや、いや」

 何が何だか判らない。

 どうしてこんな事になったのか。

 私は何者なのか。

 とてつもない恐怖だった。私自身が、吐き出したバンドエイドのような異物となって世界から切り離されるような、瞬間の暗闇だった。

 他の言葉が出てこない。「いや」とだけ言い続ける私の代わりに、諒介はバンドエイドを始末して、「行こう」と立ち上がらせた。

 部屋まで諒介に支えられて歩いた。切符を買う時にどこまでかを訊ねられた他は一言も口を利かず、ただ背中にまわされた腕と右肘を掴む手の力だけで、私は切り離されそうな世界にぶら下がっていた。

 部屋は出て来た時のまま、ビデオテープとカーディガンが転がっていて、片づけておけば良かったとぼんやり思った。

 部屋の真ん中で諒介はようやく手を放し、「眠る?」と短く訊いた。私は頷いて「灰皿」と棚の隅を差し、ベッドにもぐり込んだ。彼は灰皿を手にすると胡座をかいて座り、煙草をくわえた。私はそれを見届けて、頭まで布団を被って目を閉じた。




 目を覚ますとテレビはくるくると画面を変えていた。音だけ消された香港映画。部屋は数秒ごとに赤や青に塗り替えられた。薄暗い。夜だろうかと頭を起こして驚いた。

 ベッドの端に寄り掛かり脚を伸ばして座ったまま、諒介が眠っていた。眼鏡もかけたままだ。本当に、時々子供みたいな人だ。諒介、と何度か呼ぶと目を開けた。

「おー、大丈夫かー」

 寝惚けた声だ。このところの忙しさで疲れていたのだろう。寝覚めのだるさで動く気になれない、私は布団から顔だけ出して「うん」と答えた。

「本当は由加が眠ったら帰ろうと思ったんだけど」と彼も顔だけこちらに向けた。「何となく」

 私は軽く頷いてまた目を閉じた。「覚醒まで、あと10分」動くだけの気力がわくまで待って、のろのろと起きあがった。散らかっていたビデオテープはテレビの足元に積まれ、その横にカーディガンが畳んで置いてあった。その礼を言うと諒介は「暇だったから」と答えた。

 脚を伸ばした諒介と膝を抱えた私と、ベッドに寄り掛かって音のないテレビをただ眺めている。拳銃を構える主人公、スローモーションで飛び散る赤い血。隣でぽっと火が点ってすぐ消えた。煙が流れてくる。

「吐くのに、きっかけがあるんじゃないの」

 小声で諒介が訊いた。視線はテレビに注がれたままだ。

「例えば、さっきみたいに思いがけない人と話すとか」

 言われてみれば、セロハンテープを吐いた時も諒介に突然話しかけられたのだった。青い石の時は、そう、夢を見たからだった。

 白井さんの夢。

「でも、こんな事今までなかった」

「いつからの話?」鋭い質問だ。

「…生まれてから」

「そうだけど」諒介は苦笑する。「言い直そう、いつから吐くようになったの」

「セロハンテープが最初」

「お手上げだ」

 そう笑って彼は天井を仰いだ。私は同じ質問を再び投げた。

「気持ち悪くない?」

「別に」

「普通、関わりたくないんじゃないの、こういうの」

「逆に興味津々で近づく人もいるよ」

「諒介もそうなの?」

「いや、」と答えて首を傾げ、少し考えて「…最初は興味もあった。だけど」とそこまで言って眼鏡を外し、目をこすった。

「寝起きで飛んで来られたらもう他人事じゃなくなっちゃった」

「しつこい」

 私の右ストレートを笑いながら左手で止めて眼鏡をかけ直した。

「もう大丈夫そうだ、帰るよ」

「ありがとう」

「食えたら何か食いなさいよ」

 靴を履きながらそう言って、私と世界を繋ぐ人は出て行った。




 考えてみようとする。

 考えるのが怖いと思う。

 絡まったセロハンテープに縛られている。

 一つ思い出したのは、諒介が最初に言った「もう慣れましたか?」という言葉が、白井さんが私に初めて話しかけた時と同じ言葉だったという事だ。

 全然似ていない。顔も髪型も性格も背丈も。

 眠りたいのに、先刻眠ってしまったから目が冴えている。諒介が居る間は起きていれば良かったと思った。一人になると、どこかに落ちてしまいそうだ。私は音のない映像に溶け込もうと、床に転がってテレビを見つめた。




 月曜日、私はまた遅刻した。チーフは会議室のソファで休みなさいと言った。余程顔色が悪かったのだろう。入力室の何人かが膝掛けを貸してくれた。私はそれを抱えて三階まで降りた。

「由加、何やそれ」

 向こうから歩いてきた澤田さんが私の抱えた膝掛けを見て目を丸くした。

「朝、池袋で貧血起こしてホームでひっくり返った」

「大丈夫なんか?ほんま、顔が青白いで」

「コブできたけど」と私は顳かみを撫でた。「打ち合わせの時間まで一時間あるから、それまで休みなさいって」

「和泉が?」

「あ、諒介には内緒にして」

「もぉ遅いわ」

 え、と澤田さんの指差す方を見ると、「内緒って?」と諒介が笑っていた。

「由加、貧血やて」

「ふうん。で、ちゃんと飯は食ったのかな?」

 実はあれから何も食べていなかった。お腹は空いているが、吐きそうで怖かったのだ。「二日も食ってないんか」と澤田さんが目をむいた。彼は溜息を吐く諒介に「予定変更やな」と言った。

 まさか、私のせいで説明会の準備が遅れるのだろうか。

「ごめん、ほんとにごめん」

「よし、休んでいる間に覚悟しておけ」

 諒介に睨まれると怖かった。彼に見放されたら私は完全に異質な物として世界から吐き出されてしまうような気が、昨日からずっとしていたのだ。

 一時間後、諒介が会議室に入ってきた。「外へ出られる?」と訊かれて頷く。

「今日の打ち合わせは外でやるから」

 そば屋だった。

「うどんにしておけ。消化にいい。飯は健康の基本、健康は仕事の基本だ」

と諒介は言った。私が呆然としていると、それまでずっと怒った顔をしていたのがぷっと吹き出した。

「一昨日から頼りないな」

 すかさず繰り出した拳を諒介はひょいと避けた。


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