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第2章

 翌朝、あの憎らしい目覚まし時計をベッドから離れた棚に置いたおかげで寝坊はせずに済んだ。低血圧の辛さは同胞にしか判らないと思うが、歯磨粉の味でようやく意識がはっきりしてきた。歯ブラシをくわえたまま裸になって熱いシャワーを浴びる。ここまでいつも、地球の重力は2.5倍なのだ。

 奥歯をしみじみと磨いていると、吐き気がこみ上げて来るような気がした。何が出るか判らない。それが怖いと思って口の泡を吐き捨てた。足元を流れてゆく。

 床を濡らして部屋を横切る。身体を拭いて、下着を着けただけのまま、テレビを点けて床に座り込んだ。「朝の由加ってすごく変」と言ったのは誰だったか、面白がったり呆れたり、だけどすべてが面倒くさい瞬間が紛れもなく存在するのだ。




 ふと気づくと、もうどのくらい、タタタタタという音しか聞いていなかったのだろうと思う。それは大抵入力室の扉が開いて、誰かが入って来た時だ。

 諒介だった。チーフがキーを叩く手を止め、ファイルを開いて何か話し込んでいるのが原稿台の向こう、視界の端に見えていた。原稿を一枚めくると外字があった。手を止める。チーフが部屋の奥のホワイトボードを指さし、諒介はそちらへ向かった。私は席を立って中央のテーブルの外字一覧ファイルを手に取りながら、彼は何をやっているのだろうと盗み見た。昨日のストローク表?

 彼は私の後ろを通ってチーフの所へ戻った。チーフの席はすぐそこだ。

「063と112」

 諒介の声に思わず顔を上げた。112は私の番号だ。チーフが「来週はヤマなんだよね。杉田さん持ってかれちゃ困るわ」と苦笑した。「泉さん、ちょっと」

 はい、と二人に近づいた。

「来週末、展示会があるんですが」

 諒介は昨日とは別人のように仕事用の顔だ。

「説明会のオペレーターをやって欲しいんです」

「泉さんはタイプ速いし正確だからね。本当は彼女にも居て欲しいなあ、何で来週やるかね」

とチーフが口を挟み、「運命の悪戯でしょう」と真顔で答える諒介にアハハと笑った。

「入力デモもあるので、速く叩ける人が欲しい」

「いいかな、泉さん」

「説明会、ですか」

「説明は全部和泉君の仕事だから大丈夫」

「僕が言う通り操作するだけです」

「それなら…」

 余所者でもできるのだろう。頷くと彼は「よろしく」と軽く頭を下げた。

「月曜から2時間ずつ、打ち合わせやりますから。市川さん、彼女借ります」

「時間厳守で返してよね」

 はい、と諒介はようやく笑って出て行った。チーフが私に笑顔を向けた。

「私はあなたの事、派遣だと思ってないから。説明会、頑張ってよね」

「…はい」

 何かがちくりと刺した。

 奇妙な居心地の悪さ。

 彼女の言葉はそのまま私の仕事への評価として素直に受けとめるべきだろう。また、彼女の仕事に対する姿勢でもある。その真っ直ぐさを受け入れるには、私が歪んでいるのかもしれない、と思った。




 残業を終えて駅へ向かって一人で歩いていると、後ろから「いずみさーん」と呼ばれた。ずいぶん大きな声だ。やはり私の事だろう、諒介でもいない限り。立ち止まって振り返ると、諒介ともう一人、初めて見る人が居た。大声の主はその人らしい。諒介がひらひらと手を振った。私は二人が追いつくのを待った。

「どうも、開発の澤田です。今度の展示会でお世話になります」

「こちらこそよろしくお願いします」と答えながら彼のイントネーションに、関西の人かな、と思った。声だけでなく体も大きい。澤田さんはニコニコと私を見下ろして言った。

「お近づきに一杯、どうです」

「は?」

「これから飲みに行くんだよ」と諒介が笑う。

「和泉と飲んでもおもろないんで」

「澤田は帰るそうだ。行こう、由加」

「誰が帰るか」

 澤田さんは「行こか」と素早く決断して私を促した。何だか変だ。周囲の動くペースがこれまでと違う。

「どこ行く?」

「新橋でおでん」

「親父」

「おまえに言われたないな」

「少しは由加の意見を訊け」

 前を歩いていた二人が一緒に振り返った。私は「おでん」と答えた。

 銀座線で新橋に出て、有名なガード下のおでん屋の暖簾をくぐった。私を真ん中に挟んで二人が座った。熱いおでんと日本酒。澤田さんは今度の展示会をたった一言「文化祭で地味な展示やっとる教室みたいなもんや、気楽にな」と説明した。

 澤田さんは大阪の人だからなのか、それは私の勝手な認識なのか、とにかくよく喋った。諒介は一昨年、澤田さんは昨年、大阪の本社から異動してきたらしい。二人は長いつきあいなのだと話した。

「和泉、あの話どないなっとんねん」

「断ってるんだけど」

「勿体ないなあ」

 何の話だろう。きっと昨日の部長の話と同じだと思うが、「何の話?」と訊ねるのが苦手だ。

「澤田は大阪に戻りたいか」

「今はこっちの仕事もおもろいからええわ」

「そうか」

 諒介はちくわぶを箸で切って口に入れ、熱そうに顔をしかめた。「泉さんは、」と不意に澤田さんが私に話を向けた。

「生まれ、東京?」

「金沢」と諒介が箸を持つ手を挙げた。

「おまえやない。ほな、由加でええ?」私が頷くと、澤田さんは八重歯を見せて笑った。

「高校まで静岡」

「みんなバラバラやな」

「そんなもんだ」そう言って諒介は横目で私を見た。

「それがこうやって飲んだりしてるんだから、世の中判らないな。何が起こっても不思議はないくらいに」

 眼鏡の奧の目が遠くを見る。澤田さんが「よっしゃ、乾杯」とコップを突き出した。コンコンと安っぽい音を立てる。それが軽快で気楽だった。こんなふうに誰かと肩をくっつけるのは久しぶりだ。

 そう、どのくらいの時間が経ったのだろう。あれから。

「準備が長いくせに実質三時間くらいか」

「あっとゆーまの花火やな」

「ぽんって」

「ぷすって」

「やめてくれ、今回コケるとどうなるか」

「おまえ一人飛ばしゃええねん」

 二人とも明日は休日出勤だと言った。私が有楽町駅まで歩くと言うと、二人は新橋から銀座線に乗らずに銀座まで歩いて行くことにした。私は二人の後ろをついて歩いた。諒介が両手をコートのポケットに入れて上向き加減に歩き、澤田さんが歩調をゆるめて私の横に並んだ。

「あいつほんまは自信たっぷりあんねん。俺と組んでんのやから当然」

 そう言って肩を竦めて声を落とした。

「なんてな。和泉の仕事ぶり見とったら、自信持たな嘘やろて思う」

 澤田さんのニコニコ顔に、私は前を行く諒介の背中を見た。信頼されているのだ。判る気がする。

 有楽町で二人と別れ、地下鉄に乗る。ドアの横の手摺に凭れて、暗い窓ガラスに映る自分の顔をぼんやりと見ていた。あれから、何度こんなふうに、自分の影と肩を寄せ合った事だろう。つい先刻までの、時々ぶつかった二人の肩の感触がはっきり蘇る程、寂しさを呼ぶようだ。私はそこから人の気配を剥がすように目を閉じた。




 目覚ましの鳴らない朝。いや、もう昼だ。床に散らかったレンタルビデオ、テレビが点けっ放しだ。ベッドからの視界はブルーの画面に占領され、私は半眼のままじっとしていた。予定のない休日、私はこうして一日ベッドに居たり、あてもなく出かけたり、今日はどうしようと考えながら再びうとうとと眠る。先刻まで夢を見ていた。ここで、魚のように大海をぐんぐんと泳いだり、背を反らせて見る白い天井が波のように砕け散ったり、私の上に揺れる人影。目を開けると耳が濡れている。

 今までこんな夢を見ても、もう心が動く事はないと思っていた。

 胸が詰まる。私は起きあがり、ふらりと洗面所に向かった。この胸のつかえを吐き出してしまわなければ、息ができなくなってしまう。洗面台に手を突いて、口に指を突っ込んだ。セロハンテープでも何でも構わないから、私の中に居ないで。出て行って。

 カチン、と音がした。

 私はぎゅっとつぶっていた目を片方開けた。吐き出した昨夜のおでんの残骸に、一色だけ不自然な青があった。人差指で恐る恐る触れてみる。固い。私はそれを摘み上げて、蛇口をひねって水を勢いよく流した。汚れを落とし、しつこく擦って、更に石鹸で洗った。水を止め、目の前に翳す。

 それはいびつな青い石だった。

 がんもどきにでも入っていたのでなければ、これはあのセロハンテープと同じような物なのだろう。寒気がした。いや、と叫んで石を放り出し、ベッドに飛び込む。どうしよう。どうしよう。どうしよう。私の中に何があるというのだろう。気持ちが悪い、また吐きそうだ。けれど吐き出す物はもうない筈だ。これ以上何が出てくるというの。胃の中で何かが暴れている、まるで蛇か蛭のような動きで。

 私は再び洗面台に向かった。今度は水を流しながら、胃が空になるまで吐き出そうとしたが、もう胃液や唾液しか出ない。

 確実に何かがあるのに。

 急いで出かけよう。行き先は一つだ。パジャマのボタンを外す手が震える。箪笥を開けると青いカーディガンが目に入った。青は嫌だ、それを放り投げてグレーのセーターを被った。青い石をジーンズのポケットに入れると、スニーカーと綿のコートで、逃げるように部屋を後にした。




 エレベーターを降りると通路は暗く、休憩所の自販機がコーヒーの写真の明かりを独りきり寂しげに灯していた。私は暗い通路の奧に向かって歩いた。開発部には誰もいない。入力室とは逆の方に通路を曲がった。そちらにはまだ近づいた事のないマシン室がある。真っ暗だ…と小走りでドアに近づき、そっと細く開けた。明かりに目を瞬く。諒介がマシンと向き合ってこちらに背中を向けていた。青いシャツ。呼びかけるのを躊躇った。

「はい」

 誰か来たのが判っていたのだろう、一人で返事をして振り返った彼は驚いて、それからニッコリと笑って手招きした。彼のシャツの青は、中のTシャツのオレンジと喧嘩して動けなくなっている。そのコントラストの鮮やかさに虚を衝かれ、「何かあったの」と言われてようやく部屋に入った。

「これ」と私はポケットから青い石を取り出して見せた。諒介はそれを受け取って、しげしげと眺め回した。「吐いたの?」と問われて頷く。

「もうちょっとで終わりだから、待ってて」

 私は隣の席の椅子を回して腰掛け、澤田さんが言っていた『和泉の仕事ぶり』を眺めた。何をしているのか、私にはさっぱり判らない。「これが当日、由加にやってもらう所。今作ってます」とキーを叩きながら言った。モニタを覗き込んでもやっぱり意味不明だ。30分程して、彼は「よし終わり、はいお疲れさん」と伸びをして自分を労った。よく判らないけど拍手などしてみる。マシンの電源を落とし上着を手にして立ち上がる頃、「和泉」と澤田さんが飛び込んできた。

「まだおったか、良かった。あれ、由加、どないしたん」

「…近くまで来たから」

 澤田さんは「そーか」と受け流し、書類の内容が一部噛み合わないと言って、その箇所を諒介に見せた。「今、持ってくところだった」と諒介が新しい物を渡す。土曜日でも結構慌ただしいらしい。二人のやりとりを見ていると目が回りそうになった。

 ビルの外に出て諒介は「今日は暖かいな」と先に立って歩き出した。太陽は西に傾いている。築地川公園に沿った道を選んで、ゆっくりゆっくり歩きながら「そうだな」と話し始めた。

「この石やセロハンテープが口に入れた物でないなら、これらは由加の胃の中で生産されていると仮定して、それはいつ、なぜ起きるんだろう?」

「生産?私が?」

 そんな事は有り得ない。

「そんな、知らない間に入り込んだのかもしれないじゃない」

 言いながら自分で驚いた。知らない間っていつだろう?

「うん。最初はそう思った。由加が食べてないって言い張るから、知らない間に食べてるんじゃないかって、夢遊病みたいに」と言って苦笑する。

 自分の意識がない間に、私は何をやっているのか答えられない。朝の寝覚めの悪さも、私の眠りがひどく縺れている証明のように思えてきた。

「でも、それにはちょっと疑問がある」

「なあに」

「時間」

 諒介は胸ポケットから煙草を一本取り出してくわえた。火を点けてふーっと煙を吐き出し、考えながらのようにゆっくりと続けた。

「セロハンテープ。いつ食べたんだろう。眠っている間、ぎりぎり目覚める前だとして、目覚めてすぐ喉に異物感を感じなかった?呑み込むには結構固いよ、あれ。そこで深く眠っている頃だったとする。由加が吐き出したのは昼休み、6時間以上は経っていそうだ。しかしテープには消化されたような跡は見られなかった。だから『あんまりお腹が空いたんで』って言ったんだけど、由加には食べたという意識がない」

「……」

 もしかしたら、この人はとんでもなく怖い人なのかもしれない。非常識な事態を前にして冷静に観察していたのだ。

「呑み込んだと考えるには無理がある。角の丸い石はともかく、セロハンテープはね。魚の小骨一本でも喉につかえれば相当痛いんだし、ましてあの量だ。これは由加の中で作られていると考えると、答えは簡単なんだよ。その場ですぐに吐けばいい」

 諒介は私の目の前に回って、後ろ向きに歩き続けながら言った。

「何を吐き出したいのか、僕には訊く権利ないかもしれないけど」

 思わず立ち止まった。「訊きたいのは私の方よ。何があるのか判らない」

 そうか、と答えて足を止め、諒介は私の背中をぽんと一つ叩いた。促されてまた歩き始めた。


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