男装の文官と眠れない夜の話
※江本マシメサ様主催の『男装の麗人イラスト企画』で、コマ様(@watagashi4)が描かれたイラストに、私なりのストーリーを付けさせていただいたお話です。
歌声がきこえる。
朧月夜に溶けゆくような、胡琴の音色に似た伸びやかな歌声だ。
水辺に女が一人いて、水面を踏んでいた。跳ねた水が薄衣にかかるのもかまわずに、白いつま先は拍をとるように水音を奏でて、闇に飛沫を散らしている。
手には剣。月光を浴びた刃が、歌声に合わせて夜風を撫でていた。
花招早春歌 涙落我白頬
君在何処哉 復呼何処哉
剣舞だ。
女が身にまとった薄衣は水浸しで、色白の肌が透けている。胸のふくらみも、細い胴も、臍の窪みも、かたちが浮き上がっていた。
肢体は艶めかしく、男の目を惹きつけたが、女の顔を見てしまうと、男の目は瞬きを忘れた。
女は美しかった。月光を浴びた頬も、名馬のように凛と伸びた鼻筋も、無人の夜闇に笑いかける目元も、赤い唇も。
これは、「覗いてはいけないもの」だと思った。
目が合ってしまえば、石にされるかもしれない。今夜は平穏無事に眠りについたとしても、夢のなかにそれが迎えにきて、二度と目が醒めないかもしれない。
生きては帰れないかもしれないが、「それでもよい」とあきらめた。その女の虜になった。
ふいに歌声がやみ、女が振り返る。
女は、肌が透けた自分の身を隠すよりも先に、剣の切っ先を男へ向けた。
「無礼者」
そこで、男の意識は途切れてしまった。
死んでもいいと思ったせいか。気が遠くなって倒れていくのに、なんの疑いももたなかった。
◆ ◇ ◆ ◇
しまった。と、女――タールウは息を飲んだ。
沐浴を覗かれたのに腹が立って剣を突きつけてしまったが、いまそこで目が合った男の顔には、見覚えがあった。
「万象?」
駆け寄ろうとして、はっと胸元を隠す。
この姿では、あの男のそばにいけない。慌てて水で重さを増した薄衣を脱いで、草の上に畳んでおいた官服に着替えた。
足首まである深衣をまとって帯を結び、丈の長い褙子を羽織る。深衣は二枚重ねた。かなり着ぶくれるが、そうしないと身体の細さが目立って、女だとばれてしまう。
濡れた髪を手早く頭の上で結いあげて、黒の東坡巾で覆う。
ふと、草の上に転がった剣が目に入った。舌打ちをしつつそれを鞘にしまい、腰に結わえた。
(どうかしていたな。誰かに覗かれるかもしれない場所で舞ったりして)
これで、いつも通り。男の姿に戻ると、タールウは万象のそばへ駆け寄った。
「万象、万象」と肩を揺り動かしていると、その男の瞼がひらいていく。
「ああ、俺は――」
「こんなところで倒れて。どうしたんだ」
どうか、目が合ったことは忘れていてくれ。女の姿の私を見たことは、どうか。
胸で願いつつ芝居をしたが、万象は起き上がるなり左右に目をやった。万象の目が探すのは川辺で、ついさっきまでタールウが水浴びをしていた場所。
「――いない」
「いない? なにかいたのか」
「ああ。女に会ったんだ」
「女? 私を女と見間違いでもしたのか。そいつは私みたいな顔をしていなかったか」
ばれたか――。
かくなるうえは「頼む、誰にも言わないでくれ」と嘆願するしかないと、観念した。しかし。
「男のおまえと見間違えるわけないだろう。女だ。それも、とびきり美しい、いい女だった」
万象は、その女が、目の前にいる男装の女――タールウだとは気づいていないようだった。
よかった、ひとまず――と、タールウは胸をなでおろした。
◆ ◇ ◆ ◇
帝都にある国務院に仕える文官のもとには、三か月に一度、故郷からの手紙が届く。
しかし、タールウへの手紙はいつも遅れた。故郷が、ハン・トク県という北の果てだったからだ。
ほかの文官から遅れること十日、ようやく届いた手紙にはこうあった。
『姉の傷はまだ悪し。もう暫く養生する。次の休暇まで、御身大事に』
「姉」というのは、弟のムランのことだ。タールウはムランの双子の姉だった。
ムランは国務院に勤める官吏に任じられていたが、前に里帰りをした時に大変な怪我をした。
しかし、官吏の道は大変厳しく、ムランも苦労の末に見極めに受かった。
怪我のせいで一生を棒に振るわけにはいかないと、顔がそっくりなタールウが代わりに出仕することになったのだが、もちろん家族だけの秘密で、身代わりを立ててお上の目をごまかすなど、そんなことがばれてしまえば死罪になる。
弟の怪我が治るまで――と、タールウは恐る恐る弟になり変わって都にのぼり、男のふりを続けたのだが、面白いことに、意外にばれないものだ。
出仕してから十月が経ち、男所帯での暮らしにも慣れた。
しかし、心配の種が、はじめて一つできた。
それが、万象。水浴びを覗いた男だった。
万象は、毎日その女の話を宿舎の仲間にきかせた。
「またその女の話かよ。もう聞きあきたよ、万象」
諭されても、お構いなしだ。
「そういうなよ、俺は話し足りないんだ」
万象は、宿舎でタールウと同じ寝室を使う同居人で、戦盤(※チェスのようなもの)をするとすこぶる強く、仲間内からも一目置かれている。
その反面、どこか頭がおめでたい。なにしろ、同じ部屋で暮らす相手が入れ替わっているのに気づかないほどだ。女の姿を見られた後も、万象はタールウが女だと気づかなかった。
「すっかり虜だなぁ。もしかしたら本当に妖で、おまえを骨抜きにしにきたんじゃないのか? そのうち飯も喉を通らなくなって、ついに息の根が……とか」
「西方の月の女神かもな。その月の女神なら、水浴びを覗いた男に激怒してそいつを殺したらしいぞ」
同僚の官吏は「おまえも死ぬかもな」と脅したが、万象はかえってうなずいた。
「わかるなぁ。俺も、殺されてもいいって思ったもんなぁ」
「おいおい、本気か」
「なぜ笑うんだ。なら訊くが、こいつになら殺されてもいいって誓えるようないい女に出会ったことはあるか」
「――ないな」
「なら、一目惚れの経験はあるか」
「――ない」
「なら、おまえらは人生を半分損してるよ」
「おまえたちが笑うのは、本物の恋を知らないからだ」と万象はもっともらしくいって、ため息をついた。
「なんていうかなぁ、その女は、この世のものとも思えないほど美しかったんだ。こう――白い肌は月光のようで、胴は柳の枝のように細くて、腰もこう、えもいえぬ色っぽい丸みがあって、胸のふくらみは芒果のようで――」
ぶうっと、タールウは吹き出した。
百歩譲って、水浴びを覗かれたのは仕方がないとしよう。自分の落ち度でもある。
しかし、女の身体の話を、こう何人もの男相手に言いふらさないでほしいものだ。
(やめろ、やめろ)
心の叫びとは裏腹に、周りの男の目は興味深そうに万象を向いた。
「その女は裸だったのか」
「ああ、裸だった」
(うそだ。服は着ていた)
胸で反論するが、そいつらの耳に届くはずもない。
「へえ、いいものを見たな」
「ああ、すこぶるいいものを見た」
(うそつき! 薄衣は着ていた!)
腹が立った。
万象は頭がおかしいとも思った。「おめでたい」を通りこして、自分の好き勝手に記憶を塗り変えてしまう、とんでもない病の持ち主だ――と。
「どうした、ムラン。不機嫌だな」
「そりゃあ。どうしようもない夢物語をきかされていれば、腹も立つよ」
仏頂面でこたえると、同僚の男はにやりと笑った。
「たしかにな。おれも夢の女より生身の女のほうがいいよ。なら――どうだ、今夜?」
なぜ、こんなことになったのか。
夜の帳が落ちるのを待って、街の娼館へ繰り出すことになった。
「ここなら安い」
同僚が案内した店の前には、背の低い女が四人立っている。客引きだ。
痩せていたり、肉付きがよかったりと、服を着ていてもその女たちの裸体が思い浮かんでしまうのは、胸元を広くあけて衣を着崩しているせいか。それとも、女たちの男を誘う目が、情事を連想させる風に淫靡なせいか。
タールウは目を逸らした。
男のふりをしていても女だ。下品な女の安い色香にあてられるはずもない。
世の中にはこんな落ちぶれた女もいるのかと嫌気がさしたし、こんな女を相手に頬を緩ませる同僚にもうんざりした。
「先にいくぞ」
一緒にきていた二人が女を選んで店の中に入っていくと、娼館の前にはタールウと万象だけが取り残される。
「おまえは入らないのか」
「――好みの女がいない」
「俺もだ。あの女じゃなきゃ抱く気にならんよ。――あぁ、おまえはあの女の話が嫌いだったな」
万象は申し訳なさそうに苦笑する。でも、話をやめようとはしなかった。
「でもな、いくらおまえに笑われようが、いい女だったんだよ」
仕方ない。帰るか。という話になった。
せっかく街まで来たのだから旨いものでも食っていこうかと、店を探しつつ遠回りをする。
日が暮れて、夕飯にありつこうと人が街に溢れる時間だ。
赤や黄色、紫の布灯篭が古い煉瓦の軒先に連なり、炙られた鳥皮の脂や、大鍋に入った香辛料漬けの煮豚の香りが、白煙になって通りに立ち込めている。
脂とまざった食べ物の匂いは、石畳の通りを歩くたびに、誘いかけるように頬や肩にからみついた。
麺にしようか、肉飯にしようかと客の入りを覗きながら歩くが、万象はまだ「あの女がな」と、女の話を続けた。
「なあ、飯は――」
「店を探そう」といっても、目を離すたびにぼんやりとするので、タールウはだんだん腹が立った。
「いい加減にしろよ。だいたい、おまえが見た女は服を着てなかったんだろう。夜に裸で出歩くような女がいるか。どうせ鬼女か妖だよ」
万象が話すのは自分のことだが、「美しかった」とか「いい女だった」とか、万象が勝手につくった理想の女の話をしているとしか思えなくなっていた。
「そんなに都合のいい女はいない。もう忘れろよ」というと、万象がいい返してくる。
「違う。生身の女だった。服は着ていたよ。薄衣だった。たぶん水浴び中だったんだ」
「でも、さっきは裸だったって――」
「大事な女の話を誰にでもするわけないだろう? あの女は俺だけのいい女だ」
――勝手に「おまえだけのいい女」にするな。その女の正体は私なんだよ。
――それに、おまえはずれている。そんなに大事な女なら「裸を見た」などと吹聴するな。そうだ、おまえはずれているぞ!
と、腹がむず痒いが、口に出せるはずもない。
ほかのことも気になった。
「なら、どうして私にはその女の話をするんだ」
万象は小さく眉を動かした。
「どうしてだろう。――おまえは特別だからかな。同室だしな」
そういって、万象はにこっと笑う。
タールウはため息をついた。
「なあ、もしその女にもう一度会ったらどうする?」
「妻になってくれって頼むに決まってる」
「いやだっていわれたら?」
「『お願いだ』って土下座する」
「その女は性根が曲がってるかもしれないよ。男みたいな奴で、色気のかけらもないかも――」
「色気はあったよ。あんなに艶やかな美女に俺はこれまで出会ったことがないぞ」
「そ、そうか?」
――その女なら、隣にいるんだが。私なんだが。
と、いってやりたいが、できるはずもない。
ため息も止まらない。万象から「美女だった」「色気があった」といわれるたびに、胸が苦しくなった。
――その女は、色気があるどころか、十月も男として暮らしてるのに見破られもしない奴だよ。やっぱり、おまえの目は節穴だな。
タールウは暗く塞ぎ込んでいくが、万象の目はかえってうっとりと細められていった。
「心根も澄んでいるに決まってる。そうじゃなかったら、あんなに美しい剣舞は舞えないよ」
「剣舞?」
「ああ。水浴びをしながら剣舞を舞ってたんだ。美しかった。闇に向かって微笑んでいて――きっと、あの女は水浴びをしにきて、つい舞ってしまったんだろうな。あの女は剣舞が好きで、夜の川の清らかさにつられて、舞ってしまったんだ」
タールウは唇を結んだ。万象のいった通りだったからだ。
剣舞は、幼い頃からずっと続けている。身につけたのが女舞だったので、男のふりをして暮らす宿舎や院では、けっして披露してはいけなかった。
でも、舞いたかった。十月ものあいだ、死と背中合わせの窮屈な暮らしの気晴らしに、剣で闇を払いたかった。
(そうだ。私は、周りに誰もいないと思って。夜の静けさと水音が心地よくて――)
「歌声は、月の光のように優しかった。『無礼者』って叱られたんだが、その声もよかった。あの女は善悪の区別がよくわかっている人だ。かならずいい妻になるし、賢い母になる」
いや。だから、その女はおまえの隣にいて、いい妻や母どころか男のふりをして暮らしているんだが――。
けれど、タールウの腹の中の文句はいつのまにか小声になっていた。
「でもな、その女が本当にいるとして、おまえのことを好きにならなかったら――」
「好きになってくれって頼む。――そうだ」
万象はさっと足を止めて、タールウの手を握り締めた。
「なあ、同室のよしみだ。俺とおまえは永遠の友だ。そうだよな?」
突然両手を握られて、しかも、顔を近づけてくる。タールウは顔を引きつらせたが、万象の手の力は緩まない。
「頼む。教えてくれ。俺のいいところはなんだ。その女に会った時に、俺はおまえにいわれたことを伝えるから――」
「わかったから、そんなに顔を近づけるな」
懸命に顔をそむけた。
その女は自分なのだ。こんなに近い場所で顔を覗かれたら、さすがに女だとばれるじゃないか!
と、脅えたけれど、それ以上に、この男に近寄られていることに焦りはじめていた。
「万象のいいところ? えーと……真面目なところ」
逃げるように横を向いて、「もういいだろう?」と手を振り払おうとする。
万象は手を離さなかった。さらに顔を近づけて詰め寄ってくる。
「真面目だけか? それじゃ売りにならないよ。ほかには?」
「なら、正直なところ」
「正直か――まだ弱いな。ほかにはないか」
「――誠実なところ」
「ほかには」
「優しいところ?」
「ほかには」
万象は、十月ものあいだ同じ部屋で暮らした相手だ。
万象のことは、一緒に過ごすことが苦にならないほど気に入っていたし、その男のいいところなら、いくらでもいい連ねることができそうだった。
「ええとだな、ええと……」
その時。万象の視線が、ふっとタールウの手に落ちる。
「――おまえの手、やわらかいな」
「え?」
褒められた気がして、唇が弛む。けれど、我に返った。
いま、タールウは弟に化けているのだ。男のふりをしているのに、手が女のようにやわらかくては困るのだ。
「放せ」
女だとばれたらまずい。近寄るな。と、力づくで振り払う。
しかし、気を揉んだのはタールウだけだ。
万象は虚空を見つめて、寂しそうに目を細めていた。
「いい女だったんだ」
ちくっと胸が痛んだ。
(その女は私なんだが。いまおまえは、その女の手を握っていたんだが)
万象の目は、いもしない女に懸想するように恍惚としている。それに腹が立った。
(なんだよ。さっきは「本当の恋を知らないのか」って大きな顔をしたくせに。その、恋した女の正体にも気づかないんだから、おまえは本当に頭がおめでたいよ)
「不機嫌だな、ムラン」
「べつに」
万象はタールウを気にしたが、声をかけたのは一度だけだ。
通りの隅に物売りがいて、石畳の上に並べられた簪やら腕輪やらを見つけると、万象の興味はそっちへ移ってしまった。
「あの女に似合いそうだ」
結局、万象は銀色の腕輪を買いあげた。売り値は三十幣。まあまあいい値だ。
「呆れた奴だな。二度と会えないかもしれない女のために大金をはたくのか」
「もし次に会えた時に手ぶらだったほうが哀しいよ。それに、一晩しか会えない女に大金を払うより夢があるだろう? 妻へ贈るものかもしれないんだからさ」
一晩しか会えない女というのは娼館の女のことだ。と、それはわかったが。
(おまえが熱をあげてる女は私なんだぞ。私が名乗り出なかったら、おまえはその腕輪を一生持ち歩くのか?)
いい加減、万象が哀れになる。
「夢見がちな男は嫌いっていわれたらどうするんだ」
事実だ。タールウはどちらかといえばそういう男が苦手だった。
万象はくすっと笑った。
「あの女は、そんなことをいわない気がする」
「それが夢見がちっていうんだ。――その女はさ、おまえが思ってるような女じゃないよ。そう優しくもないし、色気もないし、おまえが、会えるつてもないのに高価な腕輪なんかを買ったって知ったら、馬鹿にするような女だよ」
「なんだと? あの女を悪くいうならおまえだって許さんぞ」
万象の目が睨むように変わっている。
(はあ?)
タールウは声を出したいのを必死にこらえた。
その女は私だよ。
私はここにいるのに、どうしてそんな夢の中の女を追ってるんだよ。
ここにいるんだから、さっさと見つけろよ。
万象を馬鹿にする言葉が胸底に沸々と湧くが、そこまで思ってから、はっと気づいた。
タールウは、自分に嫉妬していた。
(さっさと見つけろよ、だなんて。見つかったら困るくせに――)
「あっ、この歌――。なあ、ムラン、この歌を知ってるか」
ぼんやりしていたせいか、万象の呼び声に気づかなかった。
ゆっくり間を置いて、振り返る。
万象は通りの真ん中にいて、店の一軒からきこえてくる胡琴の音色と女の歌声に耳を澄ましていた。
しかし、タールウが振り向いて目が合うと、万象の目が丸くなる。それこそ妖に出くわしたように恍惚とした。
花招早春歌 涙落我白頬
君在何処哉 復呼何処哉
通りに響いていたのは、タールウもよく知っている歌だった。
◆ ◇ ◆ ◇
それから、万象はその女の話をぴたりとしなくなった。
好きだ、いい女だったと言われるのも癪だが、話題に出なくなると、それもまた癪だ。
「もう夢から醒めたのか。本当の恋とやらも口ほどではないな」
時々ふっかけるように尋ねると、万象は首を横に振った。
「そう簡単に忘れないよ。死んでもいいと思った女だ。これを渡せる日を待ってるんだ。いつかな――」
たしかに、街で買った銀の腕輪は、大切に仕舞っているようだった。
それからふた月が過ぎ、年に一度の休暇が訪れる。
遠方に故郷をもつタールウには、三十日の非番が命じられた。しかし、タールウにとっては、休暇の後で双子の弟と入れ替わるので、非番ではなく都との別れだ。
万象は都に近い里から出仕しているから、これから先、もう二度とこの男と会うことはないかもしれない。
「ありがとう、万象。世話になった」
旅立ちの日。荷づくりを終えた二人の寝室からは物が消えて、からっぽに近かった。
もう二度と会えない――そう思うと胸が苦しかったが、万象はにこやかに笑っている。
「大げさだな。三十日後にはまた戻ってくるんだろう」
「そうだが――」
戻ってくるのは双子の弟のムランで、タールウではない。
言葉に詰まっていると、万象は喉を詰まらせるようにして「うそだ。ごめん」といい、手を差し出した。
「これ、もらってくれないか」
手の上にあったものは何度も見たことがあったので、タールウはそれを知っていた。一目惚れをした女に渡すために街で買った、銀色の腕輪――それだ。
無言でいると、万象が腰をかがめていく。床に膝をついて、両の手のひらを床にぺたりとつけ、地べたに近いところから見上げた。
「おまえがそうなんだろう? あの剣舞の女なんだろう? 俺のことを好きになってください。俺の妻になってください。どうか、この通り――」
「待って、待って待って――」
膝が、石床に崩れ落ちた。ひざまずいた万象を立たせなければと、さまよわせた手のひらが、万象の肩に触れる。手のひらが包んだ肩は広かった。薄々気づいていたけれど、その肩は自分のものよりずっと大きく、頑丈だった。それに、温かい。
「待って、待って……」
声に涙が混じった。
はじめは、「そんなことをするのはやめてくれ」といいたくて「待って」と口にした。
けれど、目に涙が溜まってからは、意味がすり変わった。
「待ってたんだよ。いつ気づいてくれるかって、待って――」
肩を掴もうとした手のひらは、万象の手に包みこまれていた。あんなに「触れるな」と脅えていたのが嘘のようで、肌が触れ合う感覚にも、温もりも大きさも違う骨ばった男の手のひらに包まれる感覚にも、安堵した。
しばらくして、濡れた頬のそばにあった万象の頬が笑った。
「名残惜しいんだが、ひとまずここを出ようか。誰かに見られたら――」
「そうだな」
タールウも笑った。
二人とも、国務院に仕える男の姿をしている。運悪くこの部屋のそばを通りかかった誰かがいたら、「あの二人は男が好きだ」と噂を広めてしまうに違いなかった。
万象は、タールウの故郷まで一緒にいくといいだした。
「でも、遠いぞ。帰るだけで十日かかるから」
「十日もおまえと二人で旅ができるんだろう? 喜んでいくよ」
幸い俺の故郷は近いから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。と、万象は笑った。
「それに、話したいことがたくさんあるんだ。どれだけおまえに恋焦がれたか、おまえに話したくて仕方がないよ」
「さんざん聞いたよ」
苦笑すると、万象は「あれとは違う」といった。
「おまえがあの時の女かもしれないと気づいてから、俺がどう慌てたかはまだ話してないだろう? まさかと思った。おまえは凛々しいし、そこらの男より堂々として落ち着いているし、おまえが化けた双子の弟――ムランが間違いなく男だってことは知っていたし――。だから、夜になって、おまえが眠ってから、寝顔をじっと見た。毎晩だ。この顔は女だろうか。きっとあの女だと胸が鳴るたびに、怖かった。わかるか? おまえがムランの双子の姉じゃなくて本当にムランだったら、俺は男に惚れたことになるわけだ。俺は男色なのかもしれないと、何度焦ったことか」
男なのか、女なのかと万象が戸惑っている姿を想像すると、笑いが込み上げる。
「なんだ。うまく化かしてやった気がして楽しいな」
声を出して笑ったが、はっと気づいて、息を飲んだ。
「待て。おまえ、どうやって私が女だとたしかめたんだ。まさか、寝てるうちに――」
両腕が、万象を拒むように胸元を庇う。
万象は「誓って! 違う!」とくり返した。
「だから。それを話そうと思うんだ。ふた月分の、俺が眠れなかった夜の話だ」
「実は――」と万象は話しはじめたが、それはとても長い話だった。
一日目の夜。これはあの女かもしれないと、寝顔を見つめるだけで天頂の月が回っていったこと。
そうだ、ムランには双子の姉がいて、名はたしかタールウだった。「タールウ」と呼びかけたら寝ぼけて答えないか、と考えついたこと。
いつだ、いつ呼ぶ――と寝顔を眺めているうちに、いつのまにか鳥の声がきこえて、朝がきていたこと。
一晩の物語をきくだけで、もう二人は都の端にいきついていた。いちいちこの調子で進むなら、本当に長い話になる。
「このままじゃ十日かかるね。どうにか短くまとまらないのか」
「まとまらないな。どれも幸せな夜の話だ」
万象は笑っている。
タールウも笑った。
「冗談だ。私も全部ききたい。きかせてくれ、万象」
「ああ。――そうだ。なら、俺には歌をきかせてくれ」
「歌?」
「あの歌だよ。花招早春歌……」
万象は「こうだ」とばかりに歌ってみせるが、タールウはぷっと吹き出した。
「おまえ、音痴だな。――こうだよ」
旅の道に、伸びやかな歌声が響く。
胡琴の音色に似た、優しい歌声だった。
end