4話 喋らなければ可愛いのに
祐介は何かを懐かしむような声で、お腹を押さえてにこやかに言った。
「あー……腹の中の物が全部出たよ……病み上がりで昨日の分があんまり入ってないのが幸いだね」
「な、なぁ。もしかしてやけど、俺の右肩らへんがさっきから猛烈に酸っぱい匂いがするのは……」
「もしかしたらそうなのかもしれないし、そうじゃないかもしれないね。でも、人は根源的には見たいものしか見ず、知りたいものしか知ろうとせず、信じたいものしか信じようとしない。君もそういう人間の一人だ。かく言う僕もきっとそうなんだろう。だから、君はその酸っぱいにおいのことなんか忘れ、ついでにここの窓を開いて、少し外を散歩して来ると言い」
「長ぇよ! って言うか後半俺がくさいから窓開けてどっか行けって言ってるよな!」
さて、ここは朝の保健室。
そこにいるのは盛大に腹の中のものをリバースした祐介と、それをモロに食らった秋一、その付き添いのとして千春と、面白そ――もとい騒ぎを聞きつけて心配して来た奏の四人だ。
「でも、あんなに食らっといてそれでも気絶し続ける兄さんもどうかと思いますよ」
「そ、それについては反論のしようがない」
「秋一の体、血で真っ赤だぞ」
「ああ、血が足りない」
秋一は改めて自分の服装を見てため息をついた。
普段なら真っ白のはずの制服、今では赤一色……と肩のあたりだけ黄ばみ。黄ばみはともかく、赤いほうの原因は鼻血だ。
「やっぱまさか気付かないだろうね。日原 秋一が女性恐怖症だなんて」
そう、これが日原秋一にとって最も大事な秘密。女性恐怖症だ。
幸い家族は例外なのか妹には発動していないが、奏とはいまだに一定以上の距離を保っていないと鼻血が噴出してしまうと言う。どうしてこんな体質になってしまったのか……大体予想はつくけれど、祐介は決してその本質を探らない。世の中には知らない方がいいことなんて、山ほどあるのだ。おそらくこれもまたその一つ。さもなくば、妹的犯人に何をされるか分かったものでない。
ま、それはともかく。
今回のこれも、女性恐怖症の症状の一つだ。
きっと秋一はあの相撲とりみたいなやつではなく、もっときれいな人のパンツを見てしまい失神したのだろう。
そう考えると、もう一度こいつを血祭りにあげたくなる祐介だった。
「そろそろこの体質、どうにかしたいんやがな……」
一方、秋一の方は本当に困った様子でぽつりとこぼした。
すると、それを聞きつけた奏にある黒い作戦が浮かび上がる。
「……今の言葉……本当?」
「あ、ああ。本心や」
「……私に、いい考えがある」
瞬間、秋一の目が大きく見開かれ、その瞳に活力が生まれた。
「ほんまか!? 言っておくが、俺の女性恐怖症は筋金入りやぞ」
「……うん、大丈夫。きっと治る」
「聞かせてくれへんか。その方法とやらを」
「……いいの? 後戻りはできないわよ?」
「おう、そんくらいの覚悟が必要なんやな。やってやるで」
その時、なんとなく奏の口角が、つり上がっているような気がした。
◆
「なんで僕まで付き合うことに……」
「祐介、ここで裏切るのは万死に値するぞ!」
隣の更衣室から、秋一の脅しの声がかかる。けれど、どうせ殺せはしないんだしここで逃げてもいいような。
だって、女装とか…………女装とか……。
祐介は嘆きながら、さっきまでのことを少し思い出す。
奏が言った――
「……男子はもっと女子の苦労を知るべき」
「あ! 私もそれずっと前から思っていました」
さらに千春がそれに同調。
「女子の苦労って?」
「例えば、生理の痛みが最初に上がりますね。こっちが必死こいてこらえてるのに、『あれ? お腹痛いの?』とか言われた時にはぶち殺したくなります。でもでも、こんなのはまだまだ序の口ですよ。女子同士の人間関係に比べたらこんなのまだまだです。トイレについ行くのは当たり前、どんなにつまらない話にも程良く相づちを打ちながら笑って、だけどそれが媚びてるって思われない程度に空気を読むんです。1番大変なのは、同じグループ内の女子の好きな男に好かれた時のことですね。幸い私のところではありませんが、一つ上の先輩の間では――」
「……と、ともかく、これで分かってくれたかしら」
思った以上に不満が爆発した千春に対し、奏は珍しく大きめの声を出して強制的に中断させた。
けれど、その内容は男共にとっては十分に痛々しいものであり、流れにのまれた二人はつい顔を縦に振ってしまった――。あの時の自分殴りたい、メリケンサックで。
「もういいですかー」
回想を終えると同時に、カーテンの外から女性陣の声が。
嫌々ながらも、もうここまで来たらどうにもならないので祐介は素直に返事をする。ほぼ同時に、秋一の答える声も聞こえた。
「それじゃ~、楽しみは最後に取っておくとして、祐介さんから行っちゃいましょう」
「お、おう……」
楽しみにもされないのか……僕は。
「それではいきますね。3,2,1――」
「あ、あの……やっぱり決心というものが……」
「……えい」
《シャッ》
「ヒャー!」
最後の最後まで渋る祐介に対し、奏は先にカーテンを無理やり開けた。その後の情けない悲鳴に関しては本人の名誉のために言及しないでおこう。
「ど、どう……」
「……目に毒だわ」
「分かってたけど、それなら何でやらせたんだよ!」
実際にその通りなので、奏は何も反論できなかった。
祐介が来ているこの学校の女子の制服は可愛らしいとそこらで有名なのだが、それも最低限の素材があってから。当然ながら男に着られることを想定されているはずもない。
ボウボウに生え放題のすね毛。ガッシリと女子にあるまじき体格。あまりにも可愛くなさすぎる顔。
しかし、何か言ってあげなければならない。
そう判断した奏では数秒ほど粘った結果――
「……ごめんなさい」
「素直に謝るなぁあああっ!」
時に優しさは人を傷つける、この言葉の意味をはっきりと身にしみて知った裕一だった。
「くそ、こうなったら何が何でも秋一の姿をあざ笑ってやる」
「うわー、祐介さんが女子の格好になったせいか、頭の中まで真っ黒な女子に」
「おお、これが女子の悩みという奴か! だんだん分かってきたぞ」
「……多分、違う」
奏の言葉はもっともな気もしたが、今の彼はそんな正論など聞きたくない。
「兄さん、準備は大丈夫ですか~?」
「大丈夫だと……思うか……?」
「あの花の四話の女装がばれたときのユキアツみたいなセリフ言っても、そのネタわかるのは僕だけだぞ」
「やめろ、俺のあの花を汚すな」
あれはとても言いアニメだった。
祐介はあれを初めてみた時、人生で産声の次くらいに大泣きしたものだった。今の状況も微妙に近いか?
「男同士意気投合しているところ悪いですけど、いい加減開けていいですか?」
「な、ちょ、後15分!」
ちなみに今は8時13分なので、そんなに待つとHRに遅れてしまう。奏もいらついたのか、恐怖のカウントダウンを始めた。
「……あと10秒。9……8……7……310」
「ちょ待――!」
《シャッ》
責めて正しくカウントダウンしてやれよと突っ込みたかった祐介だったが、しかしそれも秋一の姿を見て忘れてしまう。
朝の登校の様子から分かってくれたと思うが、秋一はモテる。
いつでもどこでも妹が目を光らせているため(そのおかげで彼の女性恐怖症はバレずに済んでいるともいえるから、複雑な話だ)女子と話すことなどほとんどないがそれでもモテる。
本人はそれに気付いている様子もなく、「俺? 全然やわ。今年のバレンタインも0個やし……嫌なこと思い出させんなや!」とか言ってるが、実はモテモテ。チョコがもらえないのはもちろん、千春がその日中特にプレッシャーを放ち、さらには机の中から靴箱の中まですべて先回りしているからだ。
さて、なぜ秋一がモテるのか。
理由は簡単だ。顔が良いからである。
どちらかというと中性的なそれは整ったパーツの置き場とそれぞれの大きさ、やや鋭いながらも優しさがにじみ出る瞳も相まって、まるで神が手ずから想像したかのよう(千春談)。
よって、そんな美男子が女装をするとどうなるかというと……。
「……メイクさせて」
「兄さんも素敵ですけど、姉さん、いや、お姉さまも捨てがたいですね……」
「ちょっとさ、記念写真とか撮ってみない?」
「な……お前らちょっと冷静に――」
「……「「声男だからしゃべらないでっ!」」」
その騒動はそれから15分ほど続き、結局全員仲良く遅刻扱いとなってしまった。
◆
《キーン、コーン、カーン、コーン》
「はぁぁぁぁぁぁげぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
今は4時間目の授業であり、昼休憩でもある時間。
祐介は相変わらずチャイムを無視し続ける先生に対し、1秒ごとに髪の毛一本ずつ抜きとってやろうかと猟奇的な考えを頭に浮かべていた。
だが、今回は昼ごはん前なので先生もお腹が空いていたのだろう。
今回はチャイムが鳴って四分ほどで級長に終わりの旨を伝えた。
無事先生の数少ない毛根は、こうして守られたのである。……まぁ、いつかの日のために、ノートに二四〇とメモっておいたけれど。
そして、弁当タイム。
いつも通り外で食べようか、それとも教室にしておこうかと迷っていると、黒板の方から声がかかった。
「えっと、みなさんどこかに昼食に行くつもりなら今日のところは諦めてください。今から文化祭のクラスの出し物についての話し合いの続きを始めたいと思います」
説明よろしく、立っているのは千春だった。
実は、祐介が早退した金曜日の放課後に彼女は周りからめんどくさい役職を押しつけられたのである。
「文化祭か……」
祐介は一人呟いた。
彼にとって、文化祭はそんなに楽しみな行事ではない。
どこかの軽音楽を楽しむ部活のように前日に泊って作業することはこの学校では禁じられているし、青春ラブコメみたいにキャッキャウフフする相手もいない。
もちろん、奉仕部として数々の雑務を押しつけられながら役に立たない文化祭執行委員のしりぬぐいもこなし、最後には悪役としてつるし上げられる目が腐った主人公みたいなことになっているわけではないのだが……。
そんな思考の海を漂っていると、千春の声で釣り上げられる
「実はですね、文化祭の執行部からプレッシャーかけられてるんですよ。報告書を提出していないクラスはどうやらここを含めて学校で3つしかないらしいんです。そこで、今からこの先のこと全部話しあいます。意見がある人は、ちゃんと考えてから言うようにしましょうね。時間が無いので(ニッコリ)」
途端、クラスの間に緊張が走った。
暗に最後の3文で「何が何でもこの時間に全部決めるぞ。反論言う奴は面倒な役職に就けるぞこの野郎!」と言っているのを察したのだろう。数カ月もあいつのクラスメイトを続けた祐介らにとって、この程度は必須スキルであるし。
必然、この中にそんな勇者(手を挙げる人)がいる訳もない。
しかし、おかげで仕事もサクサク決まっていく。地味に、千春がそれぞれその人に合った役職を勧めて行ってるのだ。
例えば、人前が苦手だったり、手先が器用な人は大道具・小道具係に、パソコンなどに強い人はCD(音楽の切り貼りをする)係に、高校生にして生え際前線が上がってきている男子には照明係に……などなど。
いや、最後のはおそらく偶然だろう。
何の根拠もないし、千春ならやりそうなものだが、クラスの男子達は祐介を含め、気付いていないフリをし続けた。それこそ、『不毛』というものだ。
それはともかく、どうやら今年にうちのクラスの出し物は劇らしい。
というのも、男子達は頑として猫耳メイド耳かき喫茶を譲らず、女子は女子で秋一が燕尾服を着て奉仕をするお菓子屋を主張。
そして、クラスの男女比はちょうど半分だったのが災いし、議論は泥沼化。
そのうちお互いこのままではらちが明かないと悟り、『日原秋一メイドが迎える耳かき喫茶』とか言うわけのわからない妥協案になりそうなところでようやく担任がストップをかけ、無理矢理劇――演目は先生の好きな美女と野獣だ――ということになったのだ。
だが、そのうち祐介は一つの違和感に気付く。
周りの人がスパスパ決められていく中、彼だけが呼ばれない。
いや、まだそれはいい。千春のことだし、最後の最後に「ああ、祐介さんは雑用係ですよ」とか言うのが目に見える。
それとは別にもう一つ気になることがあった。
だが、それを口にするのはあまりにもリスクがありすぎる。祐介はゆとりの申し子なのだ。面倒なことには関わりたくないし、出来ることなら一生働きたくない。
と、そんなことを考えていると――
「ふぅ、やっとこれで全部ですねぇ」
「…………え?」
何と千春が終わりを宣言した。
もちろん、これには彼も驚きを隠せない。
多少思考の海に入っていた祐介だったが、それでも名前を呼ばれれば気付くもの。
仕事しないで済むのは好ましい展開だが、流石にそういうわけにはいかないのでついに口をはさんだ。
「あの……僕の仕事は?」
「あっ、あ、あ……すみません言い忘れてました」
途端、これまでビシビシとみんなの仕事を決めていた千春の歯切れが悪くなる。
また、なんとなく周りを見渡すと一斉に目をそらされた。
なんか、嫌な予感がする。
「そのなんというか……祐介さんはケダモノ役です」
ははっ、何だケダモノ役かー、舞台の上で女の子を辱めるのかー。恥ずかしいけど、頑張っちゃうぞ☆
そう楽観的に捉えようとした祐介だったが、黒板のはじっこに大きく書かれた文字から目が離せないでいた。
《2年C組 劇 美女と野獣》
「……ボク、シュヤク?」