31話 強くなる義務
人生で初めて魔物を殺した少年は、基本的に歓喜に満ち溢れるものだ。
今までの訓練の成果が出たと。これでようやく一人前になれたと。やった、これからはもっとたくさん敵を殺して見せると。
けれど、それは幼いころからそういうものだと教えられてきた人たちについての話だ。魔物は絶対に悪である、その観念が備わっていることが前提である。
では、現代日本で十七年間生きていたアノレットはどうなるであろうか。答えは簡単だ。
「気持ち悪……」
あの世界では人が死ぬ瞬間に遭遇することなど、滅多にない。上谷祐介自身に特定して言うのなら、一度もないのだ。
身近に感じた死と言えば……それこそ、小説や漫画の中だけ。
強いて言うのなら、御葬式には一度だけ参加したことがある程度。それも、年に数週間だけ泊らせてもらう祖母が亡くなっただけだ。葬式に参加しても涙の一つも出ず、場の空気に合わせてどうにかこうにか絞りだそうとしたのを覚えている。結局、これっぽっちも出なかったけれど。
良く考えると、一度だけとはいえ死んだことがある彼ではあるが、あれは雷に打たれての即死だったために、全く『痛い』とか言う記憶はない。
そして、初めての死を目の当たりにした結果。
両足の震えが止まらない。唇の震えが止まらない。手に付着した血が気持ち悪い。近くにあった木に拭いつける。何度も、何度も、何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
「アノン……?」
――それなりに、理解していたつもりだった。
訓練した夜、いつかはこう言う日が来ると、布団の中で想像していた。多少怖いとは思っていても、どうとでもなると思っていた。
ゲームと一緒だ。マリオがクリボーを踏みつぶすのと。ドラクエで『こうげき』コマンドを選択して敵を倒すのと。無双ゲーで雑魚を300人くらい機械的に切り殺すのと。いつも手に握っているナイフで、敵の息の根を止めるのは。
「一緒……じゃ、ない」
全然違う。
全然違う全然違う全然違う。
何一つ同じことなんかない。
手に残った感触が違う。ゲームじゃそんなのはなかった。どれだけ木に擦りつけても、どうしても拭い切れる気がしない。なんというか、ぬらりとした感触。
鼻につく匂いが違う。ラノベじゃそんなのなかった。辺りに充満する血臭。目を閉じても、スルスルと体の中に入り込んでくる。
何より、目が違う。アニメの描写と全然違う。ハイライトとか、色を濃くすればどうとか、そういう問題じゃない。目から『生』が抜け落ちて、がらんどうとなっていく。
「アノン!」
だからアノレットは何度も木に手を擦りつけ続ける。ささくれ立った木のとげが刺さって、血が出て、ゴブリンのそれと混ざり合う。そして、血をぬぐうためにまた気に擦りつける。
何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度ももももモモモモモモモ――。
『ンガァアア』
すると、ゴブリンが奇声を上げながら、こちらに向かって襲いかかってきた。上手く急所を刺せなかったらしい。まだギリギリのところで生きていたようだ。
アノレットは半狂乱になりながらも、咄嗟に体をそらそうとする。それは生存本能のなせる技か、ミルノとの特訓によって無意識化にまで染み付いたものか。
不意に、また眼があった。
声が聞こえた気がした。
――ヨクモヤッタナ。ユルサナイ。オマエダケデモミチヅレニシテヤル。
「っ!」
瞬間、アノレットは動けなくなってしまった。
蛇に睨まれた蛙、と言ったように。
否、相手はただのゴブリンだ。しかも手負いで、普通に対処すればアノレットの方が確実に強い。100戦っても、100回とも勝てるだろう。
けれど、アノレットには確かに蛇を超える、圧倒的な何かに見えた。
身体は指一本動かず、代わりにしっかりと目だけは奴の姿をとらえ続ける。
ゴブリンの口が開いた。
あの汚らしい、それでいてしっかりと殺傷能力を秘めている牙で自分を殺そうとしているらしい。
そこまで分かっていても、やはり彼の体は動こうとせず――
(あ、死ぬ)
「アノンっ!」
誰かの声が聞こえた。
それからまた何かが目の前に現れて。
ゴブリンの牙が突き刺さって。
真っ赤な液体が飛び散る。
――血。
理性が戻った。
「なっ……ちょ……待っ」
「……」
ゴブリンの牙は、ティアの左腕を捕えていた。太い血管に刺さったのか、血が滴っている。
が、ティアは何も言わず、冷静に右手のナイフでゴブリンの首筋を刺した。
今度こそしっかりと殺しきるために軽くグズグズ(・・・・)してから、ナイフごと奴の体を捨てる。
首が完全にあらぬ方向を向いている。それは、もう安全だと言う証明なのだが……しかし、アノレットにはその光景がまた気持ち悪くてたまらない。
一方、彼女はその様子に目もくれず、こちらに振り向き。
「アンタ、何やってんのよ!」
パシンと。
頬を思いっきりはたかれた。
アノレットは意味が分からず困惑する。茫然と立っていると、今度はがばっと。
なんだかあったかいような、柑橘系のいい匂いがきて。
――抱きしめられてた。
「えっ……」
「バカ」
「あの……ごめん」
「ごめんじゃないわよ、バカ」
背に回された腕が、強くなる。
「死んじゃうかと思ったんだよ。さっきから妙に様子が変だなと思ってたら、あいつ倒した瞬間に本当に変になっちゃって。何回呼びかけても全然反応ないし。ゴブリンに襲われても全然動こうとしないし。本当に……本当に死んじゃうかと……思ったん、だから……」
「ごめん」
後半の、ティアの声はそのまま消えてしまいそうなくらいに弱々しいものになっていた。だが、彼は何と言えばいいか分からずに、そんな言葉しか出ない。
「だから、ごめんじゃないって――」
「ごめん。本当に、ごめん。俺が、全部悪かった。お前にこんな怪我させちまって……」
アノレットは、背中が湿っているのを感じる。
ティアの血だ。
それが、自分の行いの結果をはっきりと認識させて。
涙が、出る。
「ごめん……ごめん。俺がしっかりしていれば、こんな怪我させずに済んだのに」
「怪我のことはいいの! 大した事ないから」
「いいわけないだろ。その傷。絶対痛いだろ。早く母さんに――」
「言われるまでもねぇよ、ったく」
アノレットにかぶせるように、いつの間にかすぐ近くにいたミルノがぶっきらぼうに言った。
きゅっと彼女の袖をまくりあげて、適当な布で止血。軽く状態を見てから回復魔法をかける。いつもと同じ詠唱。が、普段より何倍か明るい光がティアの血に濡れた左腕を包み、ゆっくりと傷が小さくなって行く。
「ま、この位なら傷も残ったりしないだろ。良かったな」
「ありがとうございます」
魔法を終えてミルノがそう告げると、ティアは丁寧に頭を下げた。
「さてと、これで一件落着ってんなら話が早いんだが……」
「ちょっと待って下さい」
「だよな」
ティアの言葉に、ミルノが軽く顎をしゃくって先を促した。お前から言え、という意味だろう。
「ねぇ、アノレット。さっきは何でああなっちゃったの? さっきも言ったけど、本当に変だったのよ」
「あぁ……んと……」
話を振られて、彼は少し困惑する。
なんて説明すればいいのか分からないし……そもそもこれは言っていいのか? とか。
だが、ここで適当なことを言うのはあまりにも不誠実だ。アノレットは頭を整理しながら、どうにか言葉を絞り出す。
「多分……俺、生き物を殺すのが、恐いんだ」
「恐い?」
「うん……相手が魔物なのは分かってるんだけどさ。けど……あいつらにも知性はあるだろ?」
「それは、まぁ……?」
ティアは語尾を上げながら、曖昧な返事を返した。彼はやっぱりそういうものなのか、と思いながら続ける。
「うん、多分。それで、殺すときとか、どうしても敵のこととか考えちまってさ…………。眼があったりしたら道連れにしてやるって言ってるような……気がして、さ。えと、それで……取り返しがつかないことをしているような気分? ……そんな感じになった」
かなり途切れ途切れだが、どうにか彼は自分の思いを言葉にする。そして同時に、自分のアホさ加減にも嫌気がさす。
ここは異世界なのだ。日本で言う『国によって文化が違う』なんてもんじゃない。
アノレットの、否、その元である上谷祐介の現代日本の考え方と、この世界のそれとは根本から違うのだ。ここではこれが普通。当たり前。郷によっては郷にしたがえだ。
やらなきゃ、やられる。
それがこの世界の常識だ。実際、彼の言葉を聞いたティアは、よく分からないと言ったようにで首をかしげている。
そんな彼女を見て、アノレットが苦笑していると。
「分からないでもねぇ、かな。その考え方」
「え?」
「全生物平等主義。何十人に一人っていうそこそこの確率で、そういう考え方する奴がいるんだとさ。アタシはそこまでじゃねぇが、知り合いにふた……あ、一人か。いる」
ミルノが記憶を訂正する。それを聞いてティアが「あの……」と質問した。
「もしかして、その人達も冒険者ですか」
「いや、商人をやってる。だからこれといって困ることはねぇみたいだぞ」
「でも、魔物の素材を売り買いしたりとかは……?」
「お前、肉食う時に鳥や豚に思いを馳せたりするのか? それと一緒だ」
言われて、納得する。
けれど、彼はその道を通るわけにはいかない。
アノレットは将来、この世界のどこかにいる奏を探さなければならないのだ。どこにいるのか分からないので、それなりの旅をすることになるだろう。であるならば、途中で魔物や、ましてや盗賊なんかに襲われる場面もあるはずだ。その時にビビって動けなくなる、なんて事態は絶対に避けたい。
だから、戦わなければいけない。
戦わなければ、行けないのに……。
「冒険者の中にも俺と同じ考え方をする人はいるんだよね?」
「もちろんだ」
「……なら、大丈夫」
何が大丈夫なんだ、と言う心の声をねじ伏せて。
その人たちに出来て、自分に出来ないはずがない。そう自分に言い聞かせて。
「うん、大丈夫。……それとティア、ありがと。俺は大丈夫だから」
「……あ、うん……」
ティアの肩に手を置いて、アノレットはしっかりと言った。彼女は不安そうに頷く。
それに気付かないふりをした彼は。
「俺は、大丈夫」
自分に言い聞かせた。




