第3話 「作業開始」
土手を真っ直ぐ歩くと、すぐに戸瀬橋が見えました。橋を渡って向かいの土手へ踏み入ると、闇に埋もれて寝静まった住宅街が目の前に広がりました。以前友人に無理やりさせられたゾンビゲームの舞台と雰囲気が似ていたので私は少しためらいましたが、察した松本さんが隣で「大丈夫だ」と言ってくれて勇気が湧きました。松本さんの声は低く澄んでいて、穏やかな余韻が心に残るようです。
土手を降りて、住宅街の中を息を潜めて徘徊し、並木道を少しだけ歩くと、鳥居が姿を現しました。近寄ってみると『豊清水八幡宮』と筆で書かれた表札があります。
どうやら神社のようで、敷地内を覗いてみると、石畳が奥まで続き、左右には竹藪が生え揃えてあります。
松本さんと竹に囲まれた道を進むと、やがて広間に出ました。私達が歩いている石畳はさらに奥へと続き、その先には拝殿と本殿が夜の闇に潜むようにたたずんでいます。石畳以外の敷地は砂利で埋め尽くされていて、広間の中央には笹が一本だけ固定されていました。笹の葉には夜風になびく短冊が見て取れます。私の緊張感はそれを見た途端に跳ね上がりました。
「ここで身を清めてから行きたまえ」
松本さんは石畳の脇にある手水舎を指差しました。私はそそくさと手を洗って身を清めましたが、松本さんは私の隣りで水面に顔を浸けるとごくごくと水を飲みだしました。私は神社における作法を心得ていませんでしたので、松本さんの行動には驚かされました。恐る恐る私も水面に顔を近づけましたが、松本さんは「私は喉が渇いていただけだよ」と澄ました顔をしました。水面に私の赤面が映ります。
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笹の前に立つと、その短冊の多さに改めて驚きました。大きさも色も多種多様な短冊が「俺の願い見てみろよ!」と主張するかのように揺れています。松本さんはあごを撫でながら「ふむ」と笹を一通り見回してうなずきました。
「よし、それでは仕事をしよう」
松本さんはそう言うと、急に口をもぐもぐさせました。口いっぱいにガムを噛んでいるような顎の上下が繰り返されます。私が何事かと首を傾げていると、松本さんは時期尚早なしたり顔を見せ、やがて口の中でもぐもぐしていた物を手の平に吐き出しました。
驚くことに、それは毛先に墨汁を滴らせた筆だったのです。よだれでベトベトということもなく、まるで中国山間部に腰を据える仙人が持ち合わせそうな凄みを帯びた筆でした。
「この筆で短冊の上にマルを描けば願いは有効、バツを描けば無効となる」
やや早口でそう説明した松本さんは、手始めに眼前で揺れていたオレンジ色の短冊へ掬うように手を添えました。松本さんは数秒で短冊の内容を確認すると「ん」と短い声を上げて「これは、無効だ」と続けました。気になったので横から覗いてみると、そこには「世界一の金持ち」と子どもの字で書かれているのが見えました。
「……そう、ですね」
さすがに、叶えてあげることはできないのでしょうが、それでも一所懸命に鉛筆を握る少年を想起すると、ちょっと不憫な気持ちになりました。
私が雑念に耐えかねているうちに、松本さんはサッサッと短冊へバツを記しました。すると驚いたことに、バツの文字は吸い取られるようにして短冊の上から消えていきます。
「これで、この短冊はただの紙切れだ」
松本さんは短冊から手を離して普段通りの口調でそう告げました。