StageUp!
地平線上に何が見えるか。
いや、何も見えない。
真っ黒な地面は自分を中心として同心円状に広がっている。
辺りはただただ闇であり、自分の足元だけが、自分が進んだ足跡だけが薄く光を放っていた。
僕は誰かに連れて来られたのか、はたまたここは夢の中なのかも解らなかった。だから僕はここに超自然的にそれが元からそうあるように初めから存在した、とも仮定することはできた。
もしかしたらそのようにずっとここで立ち竦んでいたかもしれない。けれど、ついさっき、自然現象的に発生したのかもしれない。
いずれにせよ意識した時点は今であった。
つまり僕は今漸くここに生まれたのである。
《今生まれた》この事が意味するところは、それ以前は僕の脳内には塵程度にも情報はないということであり、要するに僕には未来しかない、可能性しかない状態だと解釈するしかないということであった。
さてこの闇の空間で僕は一体何をすればいいのか。
この問いは提示した時点ですでに答えを手にしていた。
進めばいいのである。
◆
私は歩いた。闇はどんどん薄れていき、目の前に広がる光景は砂漠になり、一瞬のうちに私はマンションにいた。
彼は死んだのだ。
私はどうしようもなく、というよりどうしたらいいか分からなかった。
そんなほどに私は彼のことが好きだったのである。
彼はよく私に言った。
「闇を含んだ時点でそれは希望じゃない」
彼は希望を探していた。
彼は好んで小説をしょっちゅう書いていた。
むしろ私が彼の部屋を訪れた時にはいつも彼は机に向かっていた。床にも机にも筆圧の強い、ボールペンで書かれた原稿が散乱していた。
私が「もう少し片づけたら」と冗談交じりに言うと彼は「ここから何かが生まれるかもしれないじゃないか」と微笑んだ。
彼は作品をいくつも書きあげていて出版社の賞に応募していたが、なかなかいい評価は得られていないようだった。書きあげた作品は私にも見せてくれたが、世間に認められるには難しそうに思えた。出来が悪かったのではない、内容的には共感も理解もできたし、彼の伝えたい、知ってほしいという意志はひしひしと伝わってきた。しかしいかんせん概念が一般向けではないのである。考えが原石のままで噛み砕かれていない、という印象だった。
彼の作風は付き合っていく中で、徐々に変化していった。
出会って初めの頃は、社会に認められない鬱屈した若者の話が多かった。そこに恋愛の要素が多くなっていったのである。「社会に不満を持つ男が恋愛によって自分を変えていく」、単純にいえばそんな話が多くなった。恋人同士が別れる話もたびたびあったので、自己投影しているのか心配になったが、彼はやんわりと否定した。私は彼を信用していた。
彼の作品の主人公は総じて彼に似ていた。あまりに影が重なるため、不意に彼が主人公の言ったことを引用しているという気になることさえ多かった。
私が部屋にいても、彼は小説に取り込み、私はそれを眺めているケースもあった。基本的に会話は殆どなく、たまに彼が「これはどうか」と聞きそれに答えるだけである。それだけであったが、妙な安心感が私たちを繋いでいた。
彼は構想を練るために煙草を吸いながら独り言を言うことが多かった。それは私が部屋にいる時も変わりなく行われた。外に出るときはそんなことはなかったが、彼がワンルームマンションの自室で集中する時は基本的にそうだった。ぼそぼそと呟く時もあれば熱がこもっている時もあった。そして何かをつかんだ瞬間、近くの紙にそのアイデアを書き記していた。それは彼の脳内そのものをさらけ出しているようにも思え、それが聞ける環境に自分がいる幸福を噛み締めた。内容は彼の書く小説と同じで哲学的であり、観念的であり、聞いているのは楽しかった。しかし理解できなかったことが少なくないのも同様に事実であった。
――生は浮遊している。死はそれを包み込む。自分は死から逃げようとしていても泡の中で走るようなことで少しずつ動くことしかできない。希望と絶望は染料である。両者はもがいてる自分を確認も取らずにいきなり染め上げる。自分の意志はそこから発生する。初めに生と死があって次に希望と絶望があり、意志はその後である。つまり意志はコンテクストあってのものであって、状況に左右されてでしか意志は存在しえないのである。では純粋に意志することはできないのか――
――あの少女は「私は私」と言った。それに対して僕は何と言えばいいのか分からなかった。なぜ答えられなかったのか。「そうだね、僕は君じゃないしここは宇宙だよね」となぜ言えなかったのか――
――彼は僕を拒んだ。社会という幻想は僕が立ち入ることを拒んだのである。なぜか、運命である。僕の世界、つまり自分のための社会が僕を弾くということは僕がその空間に足を踏み入れない方がいいということである。啓示である。要するに別のステージでの活躍を待たれているのである。拒絶は彼が唯一持った優しさなのだ――
それが逃避なのではないか、と疑わしく感じる時もあった。時が経つにつれその傾向は徐々に大きくなっていった気がする。それについては尋ねなかったが、私には彼が疲れてきているようには見えた。
――この世界は僕の世界であり誰も干渉することは許されない。僕の世界であるのだから全ては自分の反響である。他人の干渉は自分の深層心理である。全ては世界であり、自分の感情であり、自分の身体であった。換言すると僕の指先に人々の思惑が詰まっているのである――
彼の生活は相当追いつめられているに違いなかった。彼は大学を休学していたが、親からの仕送りはとうに止められていたのである。彼が実際社会に拒絶されたのかは知らなかったが、働いている様子もなかった。でも彼は決して困窮している態度は示さなかった。
彼が概念に殺されたのか、経済的に殺されたのかは不明である。しかし殺されたのは不思議に納得がいった。私の中では、彼はこの世界に合わなかった、それだけである。
現実は流れ、必然の作業・処理は行われた。つまり葬儀屋が来て両親が泣いているところを目の当たりにした。彼の身体性が残るこの部屋もあと数日で片づけられてしまう。
彼は死んだが、彼はこの部屋にいまだ生きている。
彼が見たものも、吐いた言葉の先も、歩いた足跡もここにある。
私はここで何をすべきなのか。
論理立てて考えてみる。
彼が言うには世界には確かに流れが存在し、ある方向に向かっているらしい。それは最早一つの真実であり、もう一つの真実として彼が世界なのであれば私も世界である、ということがある。これよりしたがって私にも何かが求められているはずであり、私はそれを行うべきなのであった。そこに彼が望んだ世界は達成し、そうすれば彼は救われるのである。私は彼が指示さえしてくれれば何でもする覚悟はあった。 それほどまでに彼のことを愛おしく思い、求めていた。
何を彼に求められているのか。
彼は私に何を求めているのか。
それは短い私の人生で一番の疑問になり、彼の願いを聞き届けられると思うと、身体の中は嬉しさでいっぱいになった。
彼がよく使っていた机上には書きかけの小説が残されていた。その小説の構想は以前、彼が電球の下を歩きまわりながら呟いていたので知っていたが、その原稿の空いたスペースには走り書きがしてあり、それは小説の内容とは関係なく別のものらしかった。それは整った彼の字とは思えないほど酷く乱雑に記してある。いつものように突然思いついて書き殴っただけなのかもしれないが、彼の本心が込められた手記の可能性もあり、そもそも今の私にはもうこれしかなかった。
彼の最後のメッセージを聞く心持ちで黙読する。それは私の中で、言い聞かせるような訴えかけるような静かな彼の声で再生された。
――光と闇は果たして本当に共存できないのか。闇と光は本来的には同じ本質のものであるはずだ。なぜ対になるのか。これは生死の問題でもあり、アイの発生源でもある――
考える段階になって私は気づいた。受け身ではあったが、彼の考えをずっと聞いてきた私だ。彼が見えなくなった今、考える実体は私であるべきだ。否、私でしかあり得ない。つまり彼の代わりに彼の考えを考え続けることこそが私に残された道であり、彼の願いであった。今思うと彼が一人で言葉を弄んでいたのもこの瞬間のためであったかもしれない。彼は自分で思想を巡らしながらも自分の存在ではこの世界では永らくいられないことを知っており、そうなった時にそれを引き継いでくれる私をつくっていたのである。つまり彼は私を彼の身体として形成してきたのであり、彼は私との同一化を望んでいた、それこそが彼なりの愛に違いなかった。
そして今まさに精神的に私と彼は重なる。
今まで身体的に重なることはあっても心の距離が埋められる感じはしなかった。それは二人の、一人一人違う自己満足でしかなかったが、彼は敢えてそれを疑わしい言葉で繕おうともしなかった。私がいくら好きだ、愛してると訴えても彼は「ありがとう」としか答えなかった。
その彼の想いが、願いが叶うのである。今なら彼はこの瞬間のために飛んだとしても矛盾はなさそうに思える。
私は彼のなくなった重さを身体で精神で感じ、彼の思想を私の脳で育んだ。
彼はよく私に言った。
「闇を含んだ時点でそれは希望じゃない」
彼は希望を探していた。
その彼が光と闇の共存を主張した。希望は光と同じニュアンスだろう。その共存、生と死の共存は、きっと要するに生と死の狭間で揺れ動くこの人間を意味するのだ。彼は耳元でささやく。僕たち人間は常に希望と絶望を分けて考えたがるが、僕たちが実際に感じるのは希望のみでも絶望のみでもなく、両者を含んだ《なにものか》である。それは希望と思いきやいつ失うかもしれない底しれない不安を孕み、また絶望かと思うものはそこから脱する未来的な光を備えている。純粋な希望、絶望など存在しないが、それに惑わされるのが僕らなのだ。私も思う。だから最も重要なことは、この混沌とした現在――望みと失意のるつぼ――から抜け出すには、それを信じて惑わされないように努力する人間になることなんだ。そしてその時、確固たる自己、アイが生まれる。そしてそこから彼と私の愛が生まれる。
私は彼の真理に到達した気がして悦に浸った。私の身体中を軽い電流が走り、心地よい分泌液に満たされた。
漸く彼と重なることができた。
漸く彼の愛を感じることができたと思うと、私が生きて来た意味はもう果たされたかのようにさえ思えた。
私は彼の寝ていたベッドに横になってその日を過ごした。彼の寝ていた場所で彼の目線の先を見つめる。彼の過ごしていたこの空間を一人で終わる時まで堪能できるというだけで大変な幸福であった。この幸福があれば彼がしたように飛ぶことも軽々とできる気がした。
具体的な事柄はいつだって突発性を以て発生する。
三日がすぐに経過し、彼の部屋を業者の方に引き渡すため両親によって片付けが行われ始めた。身内でない私はもう立ち入ることはできない。
私は下宿先のベッドに寝っ転がりながら天井を見た。
彼の家の天井と重なる。
思考の再現。
この間は全くもって完全な真理だと思っていたのだが、彼の部屋を離れてから妙に引っかかってしまっていた。
……彼の死んだ理由は本当にここには記されていないのだろうか。このフレーズが彼の死の直前に書かれたものであるのは確かだ、でもここにはその要素がない。死の苦悩も葛藤も無い、あるのはその逆の生きる意志だ。
これに引っ掛かってからは不安が心の中で渦を巻いていた。
そしてとうとう私は気づいてしまった。
二重に気づいてしまったのである。私は忘却した挙げ句、欲望に捉われていたことに。
気づきたくなかった。しかし考えれば考えるほどにそれは私の中で黒々とした正当性を増し私を責め立てていった。つまりこうである。
まずあの論理では、生から追いやられ死にとらわれていた彼がいない。
そして私は無意識に愛を求めすぎた。
この二つの要因があの解釈を私の中で粉々に壊し、それにとどまらず私の心臓にナイフの切っ先を当てた。
不安は彼のいない私のベッドの上で、脳髄をその全貌で満たした。
彼が死にとらわれていたとしたら光と闇の同質化は、生きることに死が介入してくるということである。いやそれ以上に価値が逆転し闇の中に光を探し出し、死の中にこそ生を見出す。
現にそういうことは何回も彼は言っていたじゃないか。
――意志はコンテクストに染められてでしか存在できないのか――
彼は純粋な意志を求めていた。
――拒絶は社会が持った唯一の優しさなのだ――
社会は彼にその厳しさを与えることなくそっと彼を後押しした。
彼は死にこそ無限の夢を、空想を、理想を求め、なぜ死が生に嫌われているかを説いたのだ。死は生ほどに重要であり、生きるくらいに清々しく死を選べばいいのだと。
彼は死を希っていたのである。
なぜ私はこの心理が見えなかったのか。私を導いた誤解の根元は、彼に愛されていたいと思った過剰な欲望のためであった。彼が私との同一化を望んでいるなんてのは体の良いただの妄想である。彼から愛して欲しかった、愛した証拠を見せて欲しかった、という私の薄汚い願いだった。彼のではなく私一人の願いであった。
しかし頭を冷やした私はここでまた一つの仮定を立てる。彼は愛について言及することが滅多になかったから、ここからは全くの仮定である。彼についての最後の仮定になるかもしれない。彼の死から遠ざかることで見えることは確かにあった。
彼はここまでの私の誤読を見抜いていたのだと思う。あの文章は私に宛てたものではなく単純な予測であった。「死は愛の発生源である」、というのは死によって愛が作られるという意味である。彼の死は私が愛をつくる契機として現出し意味化した。つまり彼の死によって私が彼の愛を望み捏造することを許される、という先日の行動、その意味である。
彼は死を選ぶことで私にも心からの愛を与えたのだ。
生前私に何も言わなかった、言えなかった彼なりの、彼だけが為し得た愛情。
愛を捏造してもよいという純粋な愛を。
私が冷めずに彼への愛にもっと心酔していたらずっと彼の愛に抱かれ、幸福な気持ちでいられただろう。その点では私の愛情は彼のそれに劣っていると言わざるを得ない。そう考えると単純に悔しくもあったが、同時にまた私を幸福が包んでくれた。
いわば彼は永遠の幸福を手にして私は永遠の欠けることのない愛を手に入れたのである。
これも私が彼の意向を無視した捏造かもしれない。
真偽の程は全く定かでない、が、愛する彼が私の概念上にしかいない今となっては、それは間違いなく彼の心理であり私の真理であった。
◆
砂漠を歩く。
ざくざく歩いた。
砂に足をとられないよう気をつけながら歩くのは、体力のいるものであったが余力は残されていた。まだまだ大丈夫だ。
けれど僕はいまだにこの旅の意味をつかみ損ねていた。
砂漠は僕にとって抽象的過ぎる。
なぜこんなにも、というほど砂漠は深く分かり難い。
終わりはまだ見えない。
砂漠も、この旅も。
終わりとは何なのかさえ、その有り無しさえも彼方だった。
それこそ死なのか、生の果てなのか。
砂漠の峠は越えたはずだ。
今は歩くしかない。
暫くすると前方に何かが見えて来た。
視界の先、ずっと地平線上だったからすぐに分かる。
瑞々しい緑、滔々と流れる水流、これは世に言うオアシスか。
砂ばかりの無味な世界に現れた天国である。
僕はたまらず駆け出していた。
◆
砂は何事もなかったかのように無くなり僕はここにいた。
人生最大の転機が訪れようとしている。
生きてきた中で一番の勇気、それもありったけの勇気を振り絞らなくてはならない気がした。十三年の真価が試されているんだ。
簡単に言うと僕はあの子が好きで仕方がない。
いつも話しかけてくるのはあの子からだった。
僕は滅多に自分から話しかけることができない。そもそも僕は他人と話すことが苦手だ。この性格がいつからなのか、生まれつきなのかは分からない。過去のトラウマにも心当たりはなかった。だけどとにかく他人に話しかけるのは苦手だ。いつも僕は聞き役だったし、それでいいと僕も思っていた。
僕が小学生の頃は彼女と積極的に話すことはあまりなかったけど、同じクラスになったことは何回かあった。楽しそうにころころと笑うのが印象的だった。
小学生の彼女はそんな楽観的な印象だけだったのに、進学して同じ教室でこの一年を過ごす間に彼女の確かな成長を感じた。僕と違って彼女は確かに大人に近づいている。振る舞い的にも、雰囲気も、……あともちろん、身体的にも。もうすぐ春休みに入って中学はじめての一年が終わる。春はすぐ迫っていた。
時間はあまり残されていない。ここで気持ちを打ち明けないと、春休みが始まり、終わり、クラス替え、さよなら、になるのは目に見えている。縁がストップしてしまう。若干の焦りが心を覆っている。僕はいつだってそうなんだ、ギリギリになって事の大きさに気づいて必死になる。僕は子どものままで何も成長してない。けど、行動に移そうとする僕の前にそれなりの等価を持った事実が立ちはだかっていて、行動を急ぐ僕の歩みを遅くしている、ということも知っていた。
言うのも憚られる本当のこと。
それは、あれだ。ちょっとやっぱり恥ずかしいな。
それは――。
――僕はいまだに恋愛、というものをしたことがない。
忌まわしい事実。
やっぱりそういうことがあると、どうしても引け目を感じてしまう。頼りにすべき経験が全くないゼロ地点からのスタート。行く先には最早不安しか見えない。記憶の糸を引っ張っても、付き合うとか恋愛というものに全くの心当たりがないんだ。まあ逆にいえば、それは付き合ったことがないということだから、ふられたこともないわけだけど。生まれてから一度もふられたことがない、といえば聞こえはいいね。 ああ悲しい!
こんな僕でも時々想像することはある。
愛って何? 恋って何?
でも、好きとか嫌いとかなら分かるけど、愛とか恋とかってなるとまるでさっぱりダメ。こういうのこそ授業でやるべきだよね。先生が席替えを指定するように「はーい。そことそこ恋愛して―。来週までに二人で何かをして、その感想を書いておくように」ってやればいいんだよ。そうすれば僕みたいにこんな大縄跳びの八の字にいつまでも入れないなんてことはなくなる。そうだよ! そうしたら少子高齢化だってきっとなくなる! って思ったけど、それが恋愛でないことは僕にも分かった。ああ悲しい!
おそらく、そもそもなんであの子を好きなのか、そこが一番恋愛の本質に近い気がする。
なぜ好きか? うーん、難しい。好きなものは好き、としか……。だけど、この「好き」の感情の向こうが恋とか愛なんだよな、多分。
彼女を頭に思い浮かべてみる。これならいつもしてるから容易にできる。
肩にかからないくらいショートカットの髪。ぱっちりした二重の瞳。ちょこんとした薄い口元。普段は真面目そうな表情をしてるんだけど、笑うとそれが崩れてすっごく可愛い。いや普段の冷めた感じの彼女だって、それはそれで好きだよ。えへへ。
気がつくと、口角が上がってだらしなく笑ってる僕がいる。救いようがないほど気持ち悪い。でも、好き、って思うと自然とにやけてしまう。自然現象だ、仕方ない。えへへ。
彼女は背がほんの少し僕より少し低くて、体も細い。僕も小さいんだけど、彼女も他の女子に比べて背が低い。だから、すらっとして、とはいかないんだろうけど、すっとしていた。ちょうど抱きしめたくなるくらい。休み時間に、頬杖をつきながら彼女をぼーっと見てると、抱きしめたら気持ちいいだろうなって夢想する。
僕が彼女を抱きしめる……彼女の髪のにおいがして、背中にまわした両手には彼女の柔らかな体の中に堅い骨を感じる。ぎゅーって抱きしめるんだ。ぎゅーって。身体と身体がくっつく。僕の中には底知れない安心感と幸せが湧き上がるんだ。そ、そしたらやっぱり僕の胸には、彼女の小さな、む、胸の、ふくらみの感触が……。ああもう最低だ! 何が恋愛だバカヤロウ、死ね!
……とにかく。こんな妄想に耽ってる場合じゃない。時間がないんだよ、時間が。
なんで僕はあの子が好きなんだ?
――抱きしめてさえいないのに。
――今年一年で漸く話すようになっただけなのに。
考えて、考えた。
結果はまだない。
くるくる回る。くるくるくるくる。
「結果は必要なのか、とも思う。要するに、付き合う前からそんな好きな理由が必要なのかってことだ。本当に好きなら、告白して付き合いだしてからもうまくいくだろうし、その中で『好き』って気持ちももっと膨らんで大きくなっていくだろう。それが本来の恋愛ってもんじゃないのか。そうやって『好き』をどんどん二人で深めていくのが愛情ってことじゃないのか。こんな、一人でああだこうだと言って自問自答して果てには妄想をするよりも先に行動をして、それで自分の気持ちを確かめるのが正解なんじゃないのか」
回る回る。主張と懐疑。回る。回る。
「しかし……。そんな軽い想いで告白をしていいのか。今から確かめるというのでは、今の気持ちはまだはっきりしていないってことじゃないか。間違った心で彼女を傷つけることになってみろ、どう責任を取るつもりなんだ。僕はそんな自分を絶対許せないぞ。そういうことになったら僕は彼女も自分も嫌いになってしまいそうだ。それは最も避けたい状況だろ?」
「そんな主張ばっかりしてきたからこんなに生きて来たのに今まで付き合った経験も無いじゃないか。今こそ革命の狼煙を上げる時なんだ。さっさと行動しろよ。ぐずぐず考えるな。出したいのは成果だろ、結果だろ、あの子と付き合いたい気持ちは本物なんだろ。だったら今すぐ動き出せよ」
「いやでもこれは人生の中でも重要な事柄だ。失敗はどうしてもしたくない。あの子にもしふられるようなら、そのあと僕はずっと彼女と話すこともできなくなってしまう。それこそ避けたい。避けたい避けたい避けたい」
主張と主張。
壊れ、創り、崩れ、建てる。
――「これは、高尚な対話ですか?」
――「いいえ、卑しい妄想です」
うがあああああああああああああああああ。
ちょっと待て。もうやめろ。もういいだろ。
こんなことに終わりはない。こんなことに意味はない。
僕は一つの手段を選択したのかもしれない、でももうそれしかないんだ。
そう、僕はこれしかないんだ!
僕の手にはもう行動しか残されてない。
他の手段はもう奪われてしまった。
過去の誰かに。
僕は見逃してきたのだ。僕はそれを悠々と許してしまったのだ。責めるなら以前の僕を責めろ。今の僕は悪くない。でもだからこそ、
今の僕は成功するしかない。今の僕のために、未来の僕のために。そして過去の僕のため、果ては彼女のためにも。全員のために僕はやるしかない。
世界のために告白するしかないんだ。
今の気持ちを告白して、
それで……、
そして……、
――僕と彼女が付き合うしか残されていないんだ。
決めた。
決めたぞ!
チャンスなんてものは窺ってれば、いくらでも舞い込んできそうだった。
美術の時間、掃除の時間、体育の授業後、放課後の階段。
意識すると彼女はよく僕の近くにいた。今更、余計に意識してしまう。
彼女を見てるだけで、あっという間に放課後になって夕暮れになった。
今日もチャンスをつかめなかった。
決意してから何日も経った。
いまだ決意はある……。
ある……はずだった。
僕は今日も肩を落として誰もいない教室を後にした。白い息を吐き、マフラーを巻く。こんなに寒いのにトラックを走ってる陸上部を横目に僕はそそくさと校門を抜けた。
二月の夜は早い。五時にはもう太陽が住宅に埋もれてしまう。
微かな太陽の残り香を感じながら川沿いの土手を歩いた。
いつもの通学路であるが、土手を歩くのは気持ちがいい。
騒然とした朝はとにかく太陽と夜の気配が混在しているこの時間は格別である。
すーっと息を吸い、昼の喧騒と夜の静寂を身体に入れる。
心地いい、うん。
って、そんなことしてるのはどうなんだ自分。今日だって昨日だって失敗しているのに。
でもこんな気持ちのいい時間帯には、自然と心もいつもの喧騒を捨てて穏やかになってしまうのも事実だった。
リフレッシュだ、リフレッシュ。自分に言い聞かせる。
夕暮れだからか人通りは激しくない。僕は両手をあげて伸びをして歩いた。
明日、頑張ればいいかあ……。
「あっ」
つい声をあげてしまう。
気の緩んだ間抜けな声が空気中に放り出された。
つまり土手上の休憩用ベンチに彼女が座っていたのである。
通り過ぎるところだった。というか若干通り過ぎた。彼女は俯いていて顔は見えない。しかし、この制服、この肩幅、この髪、この体形、絶対に彼女だ、間違いない。ずっと見てきた僕が言うんだから限りなく真実だ。中学で初めての座席がたまたま近くて、なんか可愛くって好きになって、それ以来ずっと見てきた僕が言うんだから間違いない。
……どうしよう……。
……どうしよう、どうしょう、どうしよう!
鼓動が転調してクライマックススピードで加速する。
どうしたらいい? どうしたらいいの僕?
えっ、何したらいいんだ? 本当に分からない。何この状況? 誰かにバトンタッチしたいくらい投げ 出したい。いや投げ出したくない、この風景ごと独り占めしたい。でもどうしたらいいんだ、ねえ!
「あっ」
目前の挙動不審な僕を、結局何もできずにおろおろしていただけの情けない僕を、彼女の視線がとらえた、とらえられてしまった。
顔をあげた彼女は、瞳も頬も濡らしていた。
静かに見つめあう。僕は彼女の瞳に釘付けになってしまった。まただらしなく口が開いていたかもしれない。でも今はどうでもいい。周りに人がいなくて、僕と彼女だけの夕暮れがここにある気がして、僕は彼女の何もかもを目に焼き付けたかった。
目にかかるくらいの前髪、濡れて驚きと切なさが入り混じった瞳、赤くなった頬、涙の跡は空に反射して綺麗に、まさに綺麗に口元へと流れていた。
「あっ」
彼女は我に返ったみたいで、慌てて目をごしごしと袖でこすった。
僕と彼女の世界は消えて、現実に戻る。彼女とずっといたくて、離れたくないのに、一刻も早くこの場から立ち去りたい、きまりの悪い世界に戻る。
でも決めたんだ!
なけなしの勇気も今出会った運命も生きてきた意味も全部ここに繋がっていたんだ。
そうに決まってるんだ!
僕は逃げたくなる邪心を振り払って、彼女の隣に腰かけた。
僕の脳はハイスピートでガンガン回っていて一つの完全なロジックを導き出した。
彼女の悩んでることを聞く → 僕がそれを解決する → 彼女との親密度も上がる → 解決した時に告白 → 一発オッケー!
それは一見、妄想に見えるかもしれないけど、ちょっと考えれば、これがいかにシンプルで矛盾のない論理だということが分かる。つまり彼女と僕はうまくいく、ということだ。
まずは彼女がなぜ泣いているかを聞き出さなくてはならない。でもどうせなんでもないことだきっと、いつも一緒にいる友達とケンカしたか、親にテストの点数がばれて怒られたとかそんなあたりだろう。
僕が声をかけると彼女は顔を上げてこっちを見た。
「どうしたの?」
「…………」
近くで見ると輪郭の線、一線一線が愛おしい。彼女は、繊細な彫刻のようで、傷つけたらすぐに壊れてしまいそうな脆さを含んでいた。
「なにがあったの?」
「…………」
彼女はこっちを向くだけでなかなか口を開かない。仕方ないから、僕は心のままを彼女にぶつけることにした。押してダメなら引いてみろってやつ。ちょっと違うな。当たって……まあどうでもいい。とにかく彼女を救えるのは僕しかいない。
「……友達になりたい」
…………。
言ってしまった。
ちょっと場違い感、でもまあ彼女が拾ってくれるだろ。
沈黙。
あれ?
沈黙。
おいなんとかしてくれ。
沈黙。
え? これ何とかしないとだめなの? 僕が?
沈黙。
「友達じゃん」
くすっと彼女が笑った。
笑った気がした。
気がしたときには既に悲しい表情に戻っていた。
「あ、ありがとう。で、それでどうしたのさ」
僕は答えて欲しかった。彼女の悩みをさっさと解決して、さっさとお幸せになりたかったのだ。それで僕はハッピーになる。彼女もそれでハッピーになったらいい。
彼女は途切れ途切れに口から言葉を漏らした。
「私が悪かったの……。」
「……それでも聞いてくれるの…?」
「う、うん。もちろん」
澱んでしまう。僕はこんな時でも口下手だ。だけど厭になってる暇はない。
彼女はまた俯いて言葉を選んでるようだった。
そして辛いことを思い出したのか肩を震わせてしゃくりあげ始めた。
僕はドラマで見たように肩をさすってあげた。よしよし。
彼女は自分で一々言葉を確かめるようにゆっくりと独り言みたいに呟き始めた。それを何も言わずに、 彼女の口から出る言霊を頭の中で噛みしめる。
――私は他人の気持ちを考えてあげられない。
――知らないうちにあの人を傷つけてしまった。
僕はすぐに理解した。なんてことのない友達とのケンカだ。あのいつも一緒にいる二人、背が僕と同じくらいの吹奏楽部の子と、活発そうな演劇部の子。彼女らとなにかあったんだろう。
――私はだんだん疑うようになってしまったの。
――好きすぎたのに、その結果がこれなんて笑っちゃうよね。
好き? 女子の「好き」は友達にも有効なのか、男子の「好き」とは全然違うんだなあ。まあとにかくどうしたら彼女を喜ばせられるんだろうか。その子たちと仲直りすれば彼女の悲しみはなくなるのか。でもなあ、僕はその子達と親しくはないからなあ。と、いうよりもその二人は僕を快く思っていない印象がある。滅多に喋らない僕に対して冷たい視線を向けてくる感じ。彼女だけが、この目の前の彼女だけが、僕に近くで視線を合わせて話しかけてきてくれたんだ。僕が中学校で倦怠感に飲み込まれて動けない状態にならなかったのも彼女の影響が大きかった。
彼女には仲直りして欲しいけど、でも現実はイコール僕が彼女と二人の間の仲介をして縁を取り持つことは難しい、と示していた。
――もう会えないのかな。
――私がこんなにダメじゃなかったら良かったのに。
好きだ!
だから君は大丈夫だ全然ダメじゃない! と叫びたかった。
泣いている彼女、普段とは違う弱ってる彼女を見ているのが辛かった。無性に、下心とかなく、単純に、「前にも後ろにも過去にも未来も君には幸せしかないよ!」と根拠のない適当なことを言って褒めて褒めて肯定して、安心させて普段の彼女に戻って欲しかった。
でも思いとどまる。抱きしめて告白するのは彼女の悩みを解決してからだ。そう自分に言い聞かせて彼女の言葉に冷静になろうとした。言い訳をして逃げたのかもしれないとも思った。
――前に戻れたらいいのに。
――私がダメだから。……もう楽しくなれないんだよ。
――もう……。
彼女は再度泣き崩れた。
僕はそれを聞きながら薄い藍色に染まり行く空を眺めていた。染まった上空の空気はやがて、僕の足元に渦巻き、彼女の呼吸へ浸食していく。
僕の脳内はいまだハイスピードでうるさいほどにギュンギュン回っている。
でもそれはおそらく逆回転しているのかベクトルが逆方向なのか全然解決策を提示してくれない。今のこの現状がありのままに脳に投射されているだけだった。
思ってもないことを言って励ませばいいのか?
言葉じゃなくて抱きしめるのが正しいのか?
このどちらがあってるのかも分からなかったし、どちらかが正しいという保障もなかった。でもとにかく仲直りの方法を示したり、今の気分が上がるようなことを言えばいい気もした。僕の頭は回るだけだった。
でも彼女を支えなくちゃいけない、それは確かだ。
僕は漸く口を開いた。
「…………そのままで、」
彼女は俯いたまま制服のシャツにぽろぽろと涙を落としている。
僕は深く息を吸って、冷たくなった大気を肺に押し込んで、続けた。
「…………君はそのままでいいんじゃないかな」
意外そうに彼女は顔を上げて僕を見た。
わかってる、僕の言葉がなんの原状回復に繋がらないことも、君の望んでる答えじゃないことも。わかってる。
でもこれが僕の最終的な結論だった。
「傷つけたのも、好きだと思ったのも君だ。ならいいじゃん、そのままで。君は全然ダメじゃないし間違ってもない。君の想いが相手に受け入れられなかったからといって自分を変えることはないよ」
「それは……、そんなの綺麗事だよ」
吐き捨てるように彼女は言った。それは現実から目を背けてるようで全く彼女らしくなかった。
本当に綺麗事かもしれない。でも僕は言うしかない。それしかできなかった。
「好きすぎて疑うようにまでなってしまったなら、好きって想いでそれを乗り越えればいいんだよ。疑わしい行為さえも愛おしく思えばいい」
自分のことだ。頭を回した挙げ句、彼女に自分を投影して話すことしかできなかった。全く厭になる。
「……だってそんなのわがままだよ」
彼女は一息置いて続ける。
「私が一人でそんな勝手なことやってたって他人が振り向いて私を見てくれるとは限らない。そんなのわがままだし、寂しいじゃん! やっぱり……やっぱり、他人とは分かりあいたいじゃん…………分かりたいし、分かって欲しくなるよ……」
最後は消え入るような、宙に溶けるような声だった。
「でも、そしたら、諦めちゃダメでしょ? 伝えなくちゃ、分かりたいって人に知らせないと見てもらえないよ。君はそれが得意なんだから……」
教室の片隅、ただ座っている僕に、他人に触れ合うことが苦手な僕に、話しかけてくれた彼女。「ねえ、君、何て名前?」小学校でも一緒だったのにそりゃあねえぜ、と最初思ったけど、嬉しかった。たまにしかなかったけど、彼女と話すのは大したことない内容でも、キラキラしてて、暖かくて、幸せだった。笑った彼女はいつも僕の中にいる。
彼女はまた自分モードに入ってしまったようだった。顔を下に向けて黙ってしまった。
辺りはもう真っ暗で、電灯が僕らを照らしている。
緊張の汗が冷えて、寒くなった。風は吹いてないが手先がとにかく冷たい。僕は両手をさすって川の方に目を向けた。
不安があった。
さっきの言葉で彼女が僕のことを嫌いにならないか心配だった。たかが僕の分際で彼女の交友関係にまで口出しするなんて、勘違いもいいとこだったかもしれない。
これで嫌われたら元も子もないよな。
暫く彼女は何も言わなかった。僕も口を閉じていた。とても寒い夜だった。僕の言葉が彼女を傷つけなかったかどうかは、不安だったけど、それ以上に彼女の隣に座っていられる時間が幸せで、だから僕は席を立たなかった。永い時間が経った気がした。
彼女が立ちあがる頃には月も高い位置まで出ていた。静かだった。
「さあ、帰ろう」
僕も立ち上がった。
彼女はもう涙は流していなかった。でも充血した目が痛々しかった。
「ありがと。おかげで少しは立ち直れたかも」
彼女が手を差し出したから、おそるおそる握った。彼女に触れたことはなかったから吃驚した。
こんな寒いというのに温かい手だった。
彼女の温度が腕を伝って僕の心臓を温めるようだった。
そして彼女は握った手を離すと勢いよく両手を僕の背中にまわした。
何が起こったか一瞬分からなかった僕も、両手で彼女の背中をつかむ。
僕らは抱き締め合った。
不意打ちだった。告白の文句も用意してない。何も言えなかった。
永い瞬間だった。
無言の抱擁だった。
彼女はそれをやめるとちょっと恥ずかしそうに言った。
「ありがとね」
僕らは歩きだした。
向こうの橋を彼女は右に曲がる。僕は左だ。
その分かれ道の前で彼女は本当のことを打ち明けてくれた。それは希望に満ち溢れていて、僕も嬉しくなるはずだった。
「もう一回直接会ってちゃんと話してみる。相手の気持ちを深読みするよりも自分の想いをぶつけてみるよ」
うんうん、そうした方がいい。その仲が直ったら、僕も彼女に会って「好きだ」と言おう、告白しよう、と思ってた僕は次の言葉に驚愕した。
「彼のことを一番想ってるのは私しかいない。よし、がんばるよ!」
その後、僕は彼女と隣のクラスの男子が付き合ってることを知った。僕にとっては寝耳に水だったが、教室ではだいぶ前から知らない者がいないくらい大きな噂だったらしい。
そりゃあねぇぜ、と僕は思った。
折れた希望はまだ直らない。
でも。
でも、彼女の笑顔が一層輝くようになったから……まあ、いいか。
僕は溜息を吐きながら教室を過ごす。
頬杖をつきながら一日を過ごす。
やっぱり。
転機は無くしても。
付き合える希望が失われても。
僕は彼女が好きで好きでたまらない。
◆
目の前に見えた深緑にはいつまでも辿りつかなかった。
歩けど走れど砂。
しかし豊潤なオアシスを求めているのになぜこんなにも切ないのか。
この切なさは異常だ。
増えていく希望がぱっとなくなる喪失感。
神は私を殺す気か?
この直射日光の下、走り続けて足も疲れてしまった。
へたりこんで、遠くを見つめた。
あれ?
既にオアシスは見えなくなっていた。
僕は何を追いかけて、走ってきたのだろう。
徒労、徒労、疲労。
疲労、疲労、徒労。
僕が追いかけていたのは切なさであり蜃気楼だったとでも言うのか。
全く……。
しかし、じっと目を凝らすと遠く地平線の彼方に霞んでなにかが見えた。
手を砂について立ち上がる。
もう日が暮れそうだ。
手についた砂を払って僕は進み始めた。
進む、進む。
しっかりと足を踏み込んで歩く。
だんだんと何かが見えてくる。
あれは、街だ。
ところどころ灯りが見える。
太陽はもう沈んでしまった。星が、月が、僕を迎える。
知りもしない街に踏み入る。
僕は振り返ったが、砂漠は既に闇に埋もれてしまい何も視界には映らなかった。
永かった砂漠ともお別れだ。
サヨナラ、抽象の砂漠。
サヨナラ、切なさの蜃気楼。
街を歩く。
もう夜だからか外に出歩いてる人は誰もいない。
その街は、レンガ造りの高い建物が多かった。教会も遠くにいくつかあるようだ。
少し行くと幅の広い運河が街の中に走っていた。そこには何艘か、ゴンドラが停めてある。運河には家々から零れる灯りが反射して幻想的な光を放っていた。
僕はそんなことを横目にしながら石畳が敷き詰められた夜の街を歩いた。
夜はさっぱりだが明るい時間は賑わっているに違いない。
前も見ずにふらふらと街の中を進んだ。
お洒落な街だった。
その光景は長く続き、見ているのも楽しかった。
そろそろこの旅が終わりを迎えることも分かっていた。
僕はただ歩いた。
終わりに向かって進んだ。
◆
「運命って信じる?」
小さい頃に誰かが訊いた。
僕はまだ知らなかった。
運命というものがなんなのか、見たことがなかったし触れたこともなかった。だから幼い僕は、信じることもなかったし思い浮かべることもできなかった。
僕は知らなかったけど頷いた。
そしたらその人は嬉しそうに笑った。
だから僕は思った、運命は信じた方がいいんだと、運命は信じるべきものなんだと。
その後、僕にそんなことを尋ねてくる人はいなかったから忘れていた。
あの人は誰だったんだろう。
近所のお姉さんか、幼稚園の同い年の子か。
いずれにせよ誰かは忘れてしまった。
今ではその言葉だけが、仕草だけが、脳内に浮かんで思い出せる。
あの頃から随分時が経って、僕も色々あってなんとなく大人になった。
子どもの時に想像する「なんでもできる大人」ではない、ただ中身が空っぽな大人になった。出会いも別れも何度も経験して、でもその癖何も本当のことを分かってない形だけの大人になった。
中身がないからたまに昔の記憶を弄る。もう無い記憶を頭の中に探す。
育っていく中で皆それぞれ不満や不安を漏らした。
「もう追い込まれている、僕らには逃げ場がない」誰かが言った。
「未来には希望はない。過去の光は失われていく」誰かが言った。
僕はそれを聞きながらも、そうは思わなかった。なんとかなるんじゃないかと思っていた。僕の未来は、そりゃあ辛いことも待っているだろうけど、明るいに決まっていると思っていた。
周りのたくさんの人たちは、希望が見えないと言って、ありもしない現実に潰されていった。見えもしない暗闇に連れていかれてしまった。
でも僕だって例外じゃなかった。
徐々に、想像さえできない未来が近づいてきていた。
気づかないうちに、僕だけは特別だと思っている間に、何者かにしっかりと追い詰められていた。
夕日が燃える。
沈んでいく運命を背負って輝いている。
彼女がいる。
夕日を眺めて屋上にいる。
僕は突然、選ばれてしまった。
僕はその時、深夜のアルバイトで疲れた身体を休めるために寝ていた。日中であったから、家には僕一人しかいなかった。両親は二人とも働きに出かけ、姉は専門学校へと出かけていた。なんとも現実的な家族である。僕は高校を卒業してからは適当にフリーターをしていた。将来の展望とか夢もなかったし、学業に対する執拗な愛着もなかった。そしてうちにはお金もなかった。だからしっかりとした職にもつかず、大学へも進学せず、ただ働いた。日々をやりすごすように、日雇いの仕事で深夜働いては日中寝るというライフサイクルを続けた。夢なんかは依然として生まれなかったが、家族に世話をされてばっかりも悪かったので、この生活は正しいとはいえないまでも悪くはないはずだった。なんにも考えずに、起きて、出かけて、働いて、疲れて眠り、また起きて。延延とその繰り返し。飽きもせず、無感情に、アクセントもなく、ただ終わりを待つだけの時間がそこにはあった。
……ピーンポーン。
日中に鳴った間抜けな感じの呼び鈴は、誰もいない居間に響き、それは僕の部屋にも届いた。
僕は意識の彼方に聞こえてはいたが疲れていたから、気にせず布団をかぶった。新聞の集金とかそんなとこだろうと思っていた。こういうのは出たら負けなんだ。
ピンポーン、ピンポーン。
しかしその音は鳴りやまなかった。一定間隔をあけて鳴り続けた。意識は布団の中で朦朧としていたから、夢かもしれなかったけど、近所迷惑にもなるんじゃないかと思うほど酷かった。
ピンポーン。
僕はあっけなく敗退を告げてのろのろと階段を下りて顔も洗わずに玄関に出た。
「セールスならお断りっすよぉ……。あ……。」
眠い目を擦りながら答えたが、その途中から僕は驚いて目を見開いていた。
目の前には屈強そうな男とすらっとした男がいて無言で立っていた。二人ともこちらに向けて、警察のように手帳を開いて見せていた。
証明写真と国家機関のマーク、そして FTN の文字。
《FTN》だった。
僕はいつの間にか冷や汗をかいて、足も震えていた。この先どうなるかが自然と予想されたからだ。
僕が確認し頷くと、二人は手帳をしまい、痩せた方の男が封筒を差し出してきた。
心臓の鼓動は大きくなり、目眩がしてきた。
この封筒を取ったら僕の将来は決定される。いやこの人らが来た時点でこうなることは決まっていたのだ。僕にはもう断る権利はない、僕の命は国家に委ねられてしまった。
僕はそれを悟って封筒を受け取った。
二人は正確にお辞儀をして家の前に停めた黒い高級そうな車に乗って行った。
僕は暫く立ち竦んで金魚のように口をパクパクさせ空気を肺に取り込もうとした。
選ばれてしまったのだ。
その後、選ばれてしまった後も、僕は何食わぬ顔で日常を続けた。何食わぬ顔でいつも通りのことをするのが義務でもあった。
《FTN》 for the nation 国家対策機関。
仕事は国や地球に対して奉仕すること。
封筒の中には手紙が細く折りたたまれて入っていた。
そこには、僕がFTNに抜擢されたこと、始動日時までに覚悟をしておくこと、この手紙は誰にも見せないように処分すること、などが書かれていた。最後には、この情報は国家機密であり漏らした場合はそれ相応の処分を要する、と締められていた。
始動日時は手紙をもらった時から二ヶ月後。
家族は僕が旅立った後に莫大な金額と知らせを受けることになっている。
FTNはよくニュースでも取り上げられているため知っていた。立候補者があんまりでないから大規模な募集をかけていて、新聞や電車の広告でも見かけることはあった。そして最近、二三ヶ月前から強制的な増員が実行された。たしか二十歳以上の男子が抽選で選ばれて問答無用に連れてかれるってシステムだったと思う、僕みたいに。
あと二カ月か。これが最後の生活になるかもしれない、と思うと今までの生活が違って見えて、それはもう卒業までの切ないカウントダウンみたいにキラキラと輝くはずだった。
そしてここに二カ月間をなんとなく過ごした僕がいる。
眩しい夕日に目を細めながらも僕は屋上にいる。
誘ったのは僕だった。
彼女はいつも忙しそうで会う暇は滅多にない。
けど、彼女は僕にとって最後の拠り所であり、唯一の安らぎであった。
彼女にだけFTNのために行かなくてはいけないことを告げた。情報機密に反するけど一人くらいならいいだろう。
僕らは二人並んで手すりに寄りかかって夕日を眺めた。
「明日だよね……」
「うん」
「本当にアレなんだよね」
「うん」
FTNの業務は十年間。それで生き残れたら無事に解放され帰宅できる。しかしこの前インターネットで調べた国家機関のホームページでの円グラフは八割の人が行方不明になっていることを示していた。
生きて帰れる確立二十パーセント。なまじゼロでない分、リアリティがあって怖い。
僕は今の生活に潤いがないことを感じてはいたが、死にたくはなかった。
「こわいですか?」
僕はどちらでもよかったが、彼女は一つ年下だからたまに敬語を使った。僕は口数が少ない方だったけど、なぜがよく喋る彼女とは気があった。楽しかった。
「ここよりやりがいのある世界だったら楽しいかもな」
僕は煙草に火をつけながら答えた。
FTNの業務は具体的に言うと「違う次元に行って調査を行う」ことだ。その「違う次元」についてはまだ殆どのことが明らかにされていない。でも帰ってこれない人たちが多いということは、次元超越の瞬間に事故が起きたり、あっちの世界で何らかの戦闘があったりするんだろう。帰ってきた人は国家機関によって異次元での記憶の一切が消されてしまうため想定もおぼつかなかった。いわば暗闇に足を踏み入れるようなものである。それは将来が見えない僕が時間を歩くことと似ていた。
もうなんとなく過ごす時期は終わってしまい、人生に意味をつけなくてはいけないのだ。
無意識に目を逸らしてしまうくらいに厭な現実だった。
「そう……」
彼女は悲しそうな顔をしていた。
吐いた煙は夕日に向かって飛んでいったが、あっけなく溶けてしまった。
「もっと遊びに行けばよかったね」
僕は彼女の呟きに反応せずに、いきなり気になっていたことを訊いた。
「君は僕のことを好きだった?」
遠くで蝉が鳴いているのが聞こえた。
涼しい風が吹いて、僕の前髪を、彼女のスカートを揺らしていった。
いい気分だった。
「……飛びますか?」
彼女はにこりと微笑んで手を差し出した。意外だった。
「一緒に飛んだら永遠に私たちは一緒ですよ。もう一生離れることはないです」
一生も何もないだろう。
でもそれも一つの道かもしれない。恋愛の完成した形の一つなのかもしれない。
深く考えることもなく、僕は彼女と手すりの向こうへ出てみることにした。手すりは少し高いくらいだったが、どうということはない。彼女も持ち前の運動神経の良さでなんなく乗り越えた。
手すりはくぐれないようになっておりフェンスの役目も担わされているようだったが、果たして役割を全うしているのかは怪しいところだ。まあ、来年にはこのビルも取り壊されるみたいだし僕がどうこう言う話ではない。
手すりの二三歩程先には段差があって、その先に地面はない。
真っ直ぐ前には他の廃屋ビルが見える。ここら一帯は今は使われていないビル群になっているのだ。過疎化の進行の影響らしい。誰も使っていない建物が一斉に夕日を浴びている様子はとても寂しくて、でも 同じくらいに美しかった。
僕と彼女は手を握って立っている。
眼下には立派な樹が一つ見える。他は果てないコンクリート。大きな駐車場もあるが線はもう消えかかってよく見ないと分からない。
十三階建ては実際体感してみるとなかなかに高かった。普段の僕ならまず震えていただろう。でも右手から伝わる温かさが僕を救った。
ここから飛び降りるのも正解だと思った。
あっちに行って死ぬくらいなら彼女と愛を分かち合う方がいいかもしれない。
暫く僕たちはそこに立っていた。無言で太陽と向かい合っていた。
でもやっぱりそんなのダメだと思った。
彼女を巻き込むことにはなんの意味もない。それは傲慢だ。
優秀な彼女には輝かしい未来がある。
……では僕には?
僕には、得も言われぬ恐怖が待ち受けている。
それは確かに彼女のように輝かしい未来かもしれない。
でも同様にドロドロした這いつくばるような未来かもしれなかった。
そんな不安定な僕の人生が彼女を束ねていいはずがない。
戻ろう、と僕は言った。
彼女は頷いた。
頷いた彼女は涙を頬に伝わせていた。
引き返した僕らは手すりの前の小さな階段に座った。
「夕日って綺麗だね」
「うん」
「でも沈んじゃうんだね」
「……うん」
そこで彼女は黙った。僕はありきたりな返答しかできない。
「世界って不条理だと思う?」
「えっ」
自分は何度も質問してくるのに僕の質問は予期していなかったのだろうか。彼女はちょっと考えてから答えた。
「そりゃあ、思うよ。君はそう思わないの? いきなり次元超越しなくちゃいけないって言われて。なんで自分が? ってなるでしょ」
「……まあそうだね」
若干の嘘だった。僕も、なぜ僕が選ばれてしまったのかと、神を恨みたい気持ちもないわけではなかった。けど、今までちゃんと立派に目標をもって生きてきて、さあ次へ! って人が選ばれちゃうよりかは僕なんかがやる方がよっぽど適切に思えた。生きるのに意味はあったほうがいい。意味を見出してない人は見つけるべきだとも思ってはいるから。
僕なら次元超越を経験して、訓練して、その中で生きていくことを知って、意味を身につけていくかもしれない。だからそれに対してあんまり文句は言えなかった。死の可能性があるとしても。
「十年かぁ……永いね」
彼女は遠くを眺めながら言った。
「そうだね」
「私のこと忘れちゃうかな」
「まさか」
「でも……」
彼女は言い淀んだ。僕は手を空に向けて大きく伸ばしながら言ってやった。
「戻ってこなかったら君は新たな出会いをすればいい。それまでだ」
「……………」
返答はなかった。
彼女は肩を震わせて静かに泣いていた。
僕はそんなつもりじゃなかったのだが。
「そうだね」っていつもの返事を待っていたんだが。
頭もいいし、なかなか可愛いんだから他の立派な男と結婚でもして楽しく暮らせばいいのに。こんなにふらふらと生きている僕に構っている場合じゃないだろ。
彼女の嗚咽が聞こえてきて僕も泣きたくなってきてしまう。
でも僕は明日から行かなくちゃいけない。
彼女と飛べなかった僕は明日からFTNのメンバーになってこことは違う世界の、彼女が知ることも触ることもないような世界で戦ったりしなくちゃいけない。
だから今日は彼女を元気づかせて別れるんだ。
心配しないように、僕のことなんか忘れて、しっかり生きていくんだ、って言ってやりたかった。
夕日はもう瓦礫の地平線に沈んだ。
余白の橙色が蔓延している。
「……約束しましょう」
彼女は俯きながら呟いた。空白に飲み込まれそうなか細い声だった。
「約束?」
僕が訊くと彼女はゆっくり顔を上げてこっちを向いた。
「そう約束。あなたが十年後戻ってくるっていう」
それは突拍子もない注文だった。僕が「無理だ」って言いたいのに「頑張れ」と言われてしまった感じだ。
僕は悩んだ。
第一に彼女を傷つけたくないという気持ちがあった。そして次に、僕は戻ってこれないという自信があったからだ。完全に矛盾している。これはどうやったら解決する?
彼女は小指を出してきた。
ここで約束したら、彼女は不安を感じながら僕を待ち続けその後、絶望することになる。何かいい方法はないか。でも約束をしなければ今の彼女を傷つけることになってしまう。それもダメだ。
彼女は僕の戸惑いを察して言った。
「何悩んでるの? 簡単よ。今約束して、あなたはそれでそれを果たせばいいの」
「…………」
明るい声を出しながらも涙は落ちて地面に黒い染みをつくっていた。
だけど彼女の言ったことは論理的に妥当で完璧だった。
それに約束をここでしなかったら僕はあっちの世界で簡単に生を諦めてしまうかもしれない。
生きればいい。ただそれだけだ。十年間生きて生きて生きればいい。
毎日、生きることだけを考え、毎晩彼女のことを思えばいい。
単純で簡単で当たり前のことだ。
答えは僕の中で既に出ていた。
指切りをするのはいつ以来だろう。
小指と小指で子どもみたいに約束を掲げた。
綺麗な夕日にぽっと一つの約束が浮かぶ。
彼女は訊いた。
「ねえ、運命って信じる?」
空っぽだった僕の人生に今、意味が注ぎ込まれていく。
明日からは、生き続けることが目標であり僕の生きる意味となる。
もう僕は大丈夫だ。何となく時間を浪費していた僕はもう過去に消えた。
追い詰められた未来で、希望も霞んでしまった未来で、僕はしっかり生き抜いてやる。
大人になった僕はしっかりと「運命」の意味を理解して言った。
彼女を抱きしめながら言った。
「うん、信じる」
夏はもうすぐ終わりを迎える。
◆
街灯に丸く照らされた石畳は愉快だった。
この街はそんなに大きくはなく、小ぢんまりとしていて逆に趣を感じさせた。
僕もここで育ったのなら、さぞ楽しかったことだろう。
運河は続く。
街を運河に沿って歩いて行くと結構早く抜けてしまった。
ぱっと広がる光景。
青、青、青。
どこまでも平坦な水平線。
海、であった。
母なる海。
生命の神秘の根元である海。
進み続けて来た僕の旅はここで終わる。
この広大な海こそが目的地であり終着点であったのだ。
僕は今、旅を終える最後の関門として決断を迫られている。
大きな、僕自身を揺るがす決断。
これを決めるまでがこの旅であり、この決断の瞬間のためにこれまでの旅は存在したのである。つまりこの旅の目的はこの決断である。
ここに来るまでの間、僕は色んな生を体感した。
――先に死んでしまった彼の愛を確かめる彼女
――おそるおそる自分の愛を確かめて伝えようとする少年
――彼女の愛を信じて不安な未来へ進んでいく彼
どれも魅力的でどの人も僕は好きだった。更に言うなら、彼女も彼も自分であった。つまり、どれもが僕自身であり僕の記憶であったのである。
僕には、目の前の生なる海に飛び込むか否かが問われていた。
飛び込まなければ、僕は永遠の解放へと誘われる。もう砂漠を歩いたり蜃気楼を追いかけたりしなくてもいい。何もない、無の世界、夢の境地へと僕は行ける。
飛び込んだとしたら、僕は力を得てまた繰り返すことになる。
有限な楽園と地獄を経験することになる。
それは自ら込み上げる生か、もしくは解放を求める生か。
けれどここにはある。
僕が望む全て、大きな可能性が澎湃としている。
この海には僕が想像することもできないような生が漂っていて、それを繋ぐように愛もしっかりと存在しているのである。
意識があった。
今ここに漸く《意志》が生まれた。
もう葛藤も迷いもない。
「ジャブン!」
夜の空気に明確な意識が、意志が、僕が、静かに溶けていった。