おぼろ月夜の猫
どこまでも続く川堤の一本道を、途方に暮れながらも足に任せるまま、のろのろと歩いているときでした。
「おねいさん、ここでナニをしているのニャ?」
影が幾重にも重なっているように見えるほどの濃い闇の中から、やけに幼い、ささやき声がハッキリと聞こえてきたのです。
――え?
誰かに呼び止められたことに気づいて、わたしは足を止めました。月の光がほのかに差すおぼろ月夜とはいえ、すでに夜半過ぎです。子供が起きて遊んでいる時刻ではありません。空耳でしょうか。
――どこから聞こえてきたの?
わたしは、声の主を探して周囲を見渡しました。
頭上では、ぼんやりかすんだ月の光が、川堤の桜の花びらを白くぽっかりと浮かびあがらせておりました。
一方で地上から半分までの高さは、月の光が届かない暗い闇の世界に包まれています。川堤の道に沿って茂っている草むらは、影絵のようです。
川向うに見える光は、家の明かりなのでしょう。点々とした小さな明かりがまばらに並んでいる背景を、わたしは背負っておりました。
「おねいさん、おねいさん、こっちニャア」
チリンと一つ、鈴の音が鳴りました。風がないのに、影絵の草むらがガサガサ音を立てて揺れています。声の主は、草むらの中に潜んでいるようです。
「ニャア!」
草の間から、軽やかな鈴の音とともに一匹の子猫が、勢いよく道に飛び出してまいりました。
わたしを通せんぼするかのようにグルグルと円を描きます。それから、大人しくわたしの足元にちょこんと座ると、わたしを見上げました。
「あら、あら」
三角の耳の端っこがピンと尖った、小さな可愛らしい黒猫でした。胸をそらして真っ直ぐ背を伸ばしている姿が、大人っぽく見えるように無理をしているようで。
ツンと鼻先を上げている様子があまりにも可笑しかったので、つい、わたしは笑みをこぼしてしまいました。
「しつれいなおねいさんだニャ。ボクのどこがおかしいのニャア」
子猫は、顔をわたしに向けて「ニャア、ニャア」としきりに鳴きました。金色の大きな二つの瞳が、じっとわたしを見つめます。まるで睨まれているようです。
「フフ、ゴメンなさい。猫なのに猫背じゃないんだなあ、と思ってしまったので」
もっと子猫のそばに近寄ろうと、わたしはスカートの裾を手で押さえつつ膝を曲げました。
「子猫チャン、どうしたの? 迷子になって困っているのかしら。お家の人が、きっと心配しているわよ」
鈴がついた赤い首輪をしておりましたので、ノラ猫ではなく、どこかの家で飼われている猫であることは一目でわかりました。柔らかそうな黒い毛が、淡い月の光を受けて、つややかに輝いております。妖精の粉を頭から振り掛けたようです。
「おねいさんこそ、まよいニンゲンなんだニャ。こんなところでウロウロしているのは、おかしいんだニャン」
子猫は、すました顔で答えると、しっぽをゆったりと横に振りながら片方の前足をペロペロ舐めました。
「まあ、なんて意地悪なことを言う子猫チャンなの。わたしが行くべき正しい場所がわかるって言うの、あなたには?」
猫が人間の言葉を話せるわけがありません。普通なら真っ先に気づくはずでした。ところが、そのときのわたしは、子猫が人の言葉を解し話をすることを何故か不思議に思わなかったのです。
それどころか当たり前のように子猫と会話ができているので、動物と話をしているようには思えませんでした。
「そんなのボクにわかるわけがないニャ。だけど、シカタないからサービスしてやるニャ。おねいさんといっしょにアソんであげてもいいニャア」
子猫は、つまらなさそうに薄目を開けて欠伸をしました。
「でも、どこに行ったらいいのか、わたしにもわからないのよ。ただブラブラ歩いているばっかりで、何も覚えていないの」
子猫に言ったことは、真実でした。わたしは、行くべき所か帰るべき場所まで思い出せなかったのです。ふと気づいたら川堤のこの一本道に立っていて、ぼんやりと桜の木を見上げておりました。
いったい、わたしは今まで、どこで何をしていたのでしょうか?
「だいじょうぶニャ。おねいさんはフリーパスだから、どこへでも好きな所へ行くといいニャ」
「フリーパス?」
わたしは、首を傾げました。これから遊園地のアトラクションに乗りに行こうと、誘っているような口ぶりです。ますます意味が分かりません。
「お金なんかいらないのニャ。カラオケにだって行けるし、ボーリングにだって行けるし、映画にだって行けるのニャ」
どうやら、この子猫チャンは遊園地よりアミューズメント施設の方がお好きなようです。子猫チャンの飼い主さんのご趣味なのかしら。
「まっ、おませな子猫チャンね。今は真夜中なのよ。子供は、お家に帰らなくっちゃダメよ!」
「ニャ、ニャニするニャ!」
ジタバタと手足を動かして暴れる子猫を、わたしは有無を言わさずに抱き上げました。両腕を高々と上げて子猫を夜空にかざします。
思った通りです。わたしの手の中にいる子猫は、一見普通の黒猫ですが、普通の猫とは大きく違っているところがありました。
子猫の体が羽根のように軽かったのです。空気をつかんでいるようで、まるっきり手ごたえがなく、ほとんど腕に重みを感じません。
「おねいさんのエッチ! どこをミているニャン」
「あら、ゴメンなさい」
子猫の抗議により、自分が失礼なことをしていることに、わたしはやっと気づきました。あわてて腕を下ろして子猫を胸に抱えます。
「さあ、このまま抱っこで帰りましょうか? 子猫チャンのお家はどっちにあるの?」
顔を覗き込んで尋ねたら、子猫は不服そうに「ニャア」と一声鳴きました。
どのような事情があるのかわかりませんが、何度尋ねてみても子猫がお家の場所を教えてくれなかったので、わたしは行く宛もなく街をさ迷い歩きました。
どこかわたしの好きな所へ遊びに行こうと誘ったのは子猫の方なのに、当の本人(?)はわたしの腕の中でヒゲのお手入れに夢中になっておりました。しきりに前足を動かして顔を洗うような仕草をしています。
カラオケ店のネオンの明かりが差す明るい場所を通っても耳をピクピクさせるばかりで、お手入れに余念がありません。本当に目的地を選ぶ権利を放棄して、わたしに委ねているようです。
「あっ……!」
歩道橋がある交差点を通り過ぎて茶色のマンションの前を通りかかったときに、異変が起こりました。引力のように見えない強力な力によって意識が引っ張られてしまうような恐ろしい感覚に、わたしは襲われてしまったのです。
「ああっ」
思わず恐怖を覚え、その場にしゃがみ込んで頭を押さえました。それでも体が引っ張り上げられてしまいそうになる感覚は収まりそうにありません。
上に持って行かれそうになっている部分と、地上に留まろうとしている部分との二つに、体が引き裂かれてしまいそうで。
「いやっ」
どうしたら良いのかわからず、わたしは頭から手を離して助けを求めるように子猫を強く胸に抱きしめました。
「おねいさん、だいじょうぶニャ。コワくニャいから、チカラにサカらわニャイでイイのニャ」
どうしたことでしょう。不思議なことに子猫は、わたしが今感じている恐怖も、正体がわからない強い力さえも、すべて把握しておりました。
落ち着き払った子猫の声が聞こえたと思ったら、ザラザラした温かい物を頬に感じました。子猫がわたしの頬をなめて励ましてくれたのです。
「子猫チャン……」
地面に丸まるように曲げていた体を恐る恐る起こして、わたしは子猫を見つめました。
子猫の丸い金の瞳の輪郭の淵をなぞるように、優しげな光が映っています。まるでお月様の光のようです。
子猫の目の光は、先程わたしが川堤の桜の木の下で見上げたおぼろ月と同じ、淡い輝きを放っておりました。
「おねいさん。おねいさんには、イかニャくてはニャらニャいダイジなところがあるのニャ。でも、おねいさんは、それをワスれているのニャ」
子猫の声が静かに染み渡り、わたしの心の奥底に深い揺らぎの波を起こしました。
「行かなくてはならない大事なところ……? わたしが忘れている……?」
「そうなのニャ。だから、こわがらニャイで。ボクもおねいさんといっしょにイッてあげるのニャ!」
とても不思議な感覚でした。子猫はわたし以上にわたしのことを知っているようであり、わたし以上に世の中のあり方を知っているようでありました。
こんなに小さな子が励ましてくれているというのに、わたしは何を怖がっているのでしょうか。
「わかったわ、子猫チャン」
わたしが子猫の言葉に頷いて、小さな体を抱きしめ直した直後でありました。固い歩道のアスファルトから足が離れ、ふわりと体が宙に浮いたのです。
そして、一瞬のうちに白い光に包まれると、わたしと子猫は飛ぶように上に向かって昇って行きました。
オレンジ色の豆電球がついた八畳間の和室に、二組の布団が並べてありました。布団の上には川の字になって寝ている者たちがおります。
向かって左側には、四十代のちょっと生え際がさびしい背の高い男性が、大きなイビキをかきながら仰向けになって気持ちよさそうに寝ていました。
布団の右側には、わたしよりも十歳ほど年上の女性が、真ん中を向いて片手を伸ばし横向きになっております。
そして二人の間には、生後間もない可愛らしい男の赤ちゃんが、すうすうと寝息を立てておりました。
丸い額、長いまつ毛、低めの団子鼻に、少し開かれた薄い唇。何か楽しい夢を見ているのでしょう。時々むにゃむにゃと唇が動いて、赤ちゃんは目を閉じたまま笑顔を浮かべました。
目を開けたらきっと、彼と同じつぶらな瞳でわたしを見るに違いありません。そうです、赤ちゃんの笑顔は、わたしが愛した人にそっくりだったのです。
「やっぱり……やっぱり、そうだったんですね、先生……」
わたしは、よろよろと布団のそばに近寄ると、がくっと崩れ落ちるように膝をつきました。
滝のように涙が溢れでて、彼らが寝ている敷布団の上に雫となって落ちました。でも、わたしの涙は布団を濡らすことができません。涙が落ちた後の布団は、乾いたままです。
それも無理はありません。わたしは実体がないのですから、大きな声でわめいても布団を引きはがそうとしても、物理的に彼らに影響を与えることなど、わたしにはできないのです。
「嘘つき、嘘ばっかり言って。わたしがいなくなったら寂しいと言っていたくせに、先生の嘘つき……!」
今このとき、この瞬間。わたしは自分の身の上に起こった出来事のすべてを思い出していました。
わたしが二十一歳の地方の大学生で、わたしの目の前で寝ている、この男性を愛していたことを。ただの学生として見てほしくなくて、女として意識して欲しいばかりに、差し入れを持って彼の研究室に足繁く通っていたことを。
『わたしが死んだら、先生泣いてくれますか?』
夏の夕暮れの研究室で二人っきりになったとき、わたしはたった一度だけ彼に尋ねたことがありました。
すると彼は、話半分でしかわたしの話に耳を傾けていなかったのに、それまで読んでいた資料を机に置いて、いきなり顔を上げたのです。
『もちろん、君がいなくなったら寂しいよ』
ちょっと困ったように眉根を寄せて悲しそうに笑いながら、彼はやさしく答えてくれました。
わたしと彼以外、誰もいない研究室には蝉の鳴き声だけが響いておりました。
その蝉の鳴き声と夕暮れに染まった彼の笑顔だけは、あれから半年以上たった今でも胸を離れることはありません――
「おねいさん、オモいだしたのニャ?」
子猫がすり寄るようにして近づき、わたしの太ももの辺りに顔を擦り付けてまいりましたので、わたしは子猫の脇の下に手を入れて抱き上げました。
「ええ、子猫チャン。全部思い出したわ。わたし、事故で死んだの」
子猫の鼻先を頬にくっつけて、湿り気を帯びたぬくもりを肌に感じました。実体のないわたしの声を聞き、こうして触れ合うことができるのですから、やはりこの子は特別な子猫なのでしょう。
頬から離して膝の上に下ろしましたら、子猫はおぼろ月のような淡い光をたたえた目でわたしを見返しました。
「横断歩道を渡っている最中に、左折してきたトラックに巻き込まれて死んだのだわ。その後すぐにお迎えが来たのだけれど、わたし拒んでしまったの。どうしても確かめたいことがあったから……。だけど、だけど……」
死んだ後のわたしは、冷たい雨が降るなか彼が来るのを待ち続けておりました。ですが、最後まで彼が現れることはなかったのです。
「わかっていたの。わたしが死んだ日、先生の赤ちゃんが生まれる日だったことを。赤ちゃんも奥様も難産で大変だったのよ。だけど、もしかしたら……。ほんのちょっとでも、わたしのために泣いてくださったらと……」
叶わぬ願いでありました。翌日わたしは、両親と共に自分の体を見送るしかありませんでした。雨上がりの青い空に細い煙となって吸い込まれて行くのを、わたしはずっと眺めました。
けれど、あまりにも悲しすぎて。彼と遠くに隔てられてしまったことが、あまりにも悲しすぎて。
わたしは、自分の体が天に上る間にすべてを忘れることにしたのです。
「シカエしするといいニャ」
子猫が、真顔で「ニャアニャア」と鳴きました。
「イマのおねいさんはフリーパスだから、ニャンだってできるニャ。あのオトコにカナシバリしかけてやるニャ? ユメマクラにタッってやるニャ? それとも、タタッってやるニャア~?」
言い終えると同時に、子猫はニタリと口を大きく広げました。鋭く尖った歯と生々しい赤い舌が、暗がりの中に浮かび上がります。生きている人間ならば薄気味悪くて、子猫を放り投げてしまうことでしょう。
しかし、わたしは死んでいるのです。怖くはありません。子猫の頭を、ぺちんと一つ叩いてやりました。
「ニャ、ニャニするニャン!」
子猫は、わたしのとった行動に驚いたようでした。人間がするように前足で叩かれた頭を押さえて、恨めしそうな目でわたしを見上げます。
「まだ子供のクセに、後ろ向きな発言をするからよ」
彼を失うこと以外、わたしには怖いモノはありません。そのため、いくら薄気味悪い表情を浮かべても、わたしにとって子猫は相変わらず子猫のままでした。
いいえ、そもそも独りよがりな片恋であったのですから、言い方が間違っております。けれど、彼と同じ場所で生きていけなくなったことは、まさしく彼を失ってしまったことを意味するのです。
「ボクは、おねいさんのことをオモって……」
「いいのよ、子猫チャン。ありがとう」
わたしは、感謝をこめて子猫の背中を掌で撫でました。小さくて、可愛らしくて、ちょっぴりおませだけど、とてもいい猫です。
「だって、わたしはもう生きていないのよ。それにね、先生のことはキライになったから、いいの。わたし、嘘つきな人はキライなのよ」
子猫に語りかけながら、わたしは彼の寝顔をのぞき見ました。
しばらく見ないうちに、彼の髪の毛の分け目が薄くなって目じりのシワが深くなったように思えます。年のせいなのでしょう。
これ以上彼が老いるのを見なくてすみそうなので、わたしはホッといたしました。
子猫は何も言わずに、わたしの掌に背中を擦り付けてまいりました。この子は、わたしが消えてしまったら、どうするのでしょうか。どこか帰る処があるのでしょうか。それだけが唯一の気がかりです。
窓から差す月の光の色が変わったような気がして、わたしは目を閉じました。子猫が「ニャア」と鳴いて、わたしを呼びました。
「サヨナラ、おねいさん」
それが、わたしの最後の記憶であります。
(END)
読んでくださってありがとうございました。