「『お前は本物の妹の替えだった』——十八年隠された遺言状を、わたくしは父の前で開いて見せた」
父が手紙を読み終えたとき、あの大きな手が震えた。
わたくしはそれを、落ち着いた目で見ていた。胸の奥は凪いでいた——波ひとつなく、ただ底が透けて見えるような、深く重い水面だった。十八年間のすべてが、ようやく定まった重さで沈んでいく。
「替えのほうが、本物でしたのよ」
その言葉は、自分の口から出たとは思えないほど、澄んでいた。声は震えなかった。指先も、膝も。父の顔から、みるみる血の気が引いていくのを見ながら——わたくしは初めて、自分が何かを終わらせたのだと知った。
時間を少し遡らなければならない。
十八年前の冬、わたくしの母エリナは産婆の腕の中で息を引き取った。わたくしを産んだその夜のことだ。父アルベルトは不在だった——急ぎの公務があると言って、前日に邸を出ていた。
父が戻ってきたのは、翌朝のことだという。
わたくしはその記憶を持たない。赤子には記憶がないものだから。けれど執事のドレンが、ずっとあとになってから、こっそり教えてくれた。
「旦那様がお戻りになったのは、奥様が亡くなった翌朝でした。そしてしばらく書斎に籠もられた後、ヴィオラ様をご覧になって——」
ドレンはそこで言葉を切った。
「——なんと仰ったのですか」
「……お顔を見て、背を向けられました」
そういう男だった。父は。
十八年間、わたくしは「替え」だった。
正確に言えば、そう告げられたのは十八歳になった春のことだ。それまでは何も言われなかった。ただ、感じていた。
七歳の誕生日に感じた。
毎年、誕生日には家族で食卓を囲む習わしがあった。母がいた頃はそうだったと、侍女のリューナが教えてくれた。父は頑固な人だったが、一年に一度のこの日だけは顔を揃えるのが、エリナが生前に作った習わしだったのだと。
その年、わたくしの誕生日に、テーブルには四人分の席が並んでいた。父と、イザベラと、継母のコルデリアと——そしてわたくし。
ケーキが運ばれてきた。白薔薇の砂糖細工を飾った、美しいケーキだった。
「イザベラの好きな白薔薇にしてもらったのよ」
継母コルデリアがそう言いながら、イザベラの肩を抱いた。
イザベラは満面の笑みで頷いた。わたくしと同じ歳だった。いや、正確にはひとつ下だ。けれど、父はイザベラを「娘」と呼び、わたくしを「お前」と呼んだ。
「ヴィオラ」
父がはじめてわたくしの名を呼んだのは、ケーキの二切れ目を取ろうとしたときだった。
「それはイザベラの分だ」
一切れしかないわけではなかった。ケーキはたっぷりあった。それでも父はそう言った。まるで、わたくしがイザベラの場所を侵しているとでも言いたいように。
わたくしは手を引いた。笑顔を作った。
フォークを持ち直した。その手が、微かに震えていた。七歳は、震えを隠す訓練を、そうして積んでいった。
その夜、部屋に戻ってから、母の形見の銀の指輪をひとり眺めた。細い輪の内側に、何かが刻まれていた。文字のように見えたが、幼いわたくしには読めなかった。
指輪はいつもそこにあった。小さな宝石箱の中に、ひとつだけ。「お母様の形見です」と、侍女頭のエルケが教えてくれた以外、何もわからなかった。
七歳のわたくしには、ただ冷たくて美しいものだった。握ると少しだけ、泣かないでいられた。
十二歳になった年の春、同年代の令嬢たちを集めたお茶会があった。
継母コルデリアが主催したものだ。王都の貴族の娘たちが七、八人。令嬢として社交を学ぶ場だという名目で、新しいドレスが仕立てられた。
採寸の日、仕立て師が邸を訪れた。イザベラはコルデリアと並んで生地の色を選んでいた。淡い金色、桜色、深い紺——いくつもの布地が広げられていた。
わたくしが採寸室に入ると、仕立て師は困った顔をした。
「ヴィオラ様は……昨年のドレスを手直しするということでよろしいでしょうか。コルデリア様よりそのように」
昨年のドレス。一年前のもの。丈を直せばまだ着られる——その言葉は事実だった。でも採寸室の隣では、イザベラが新しい生地の色を選んでいた。淡い金色、桜色、深い紺。そういうことだった。
わたくしは頷いた。
「はい。それで構いません」
声は平静だった。だがその夜、母の指輪をぎゅっと握りしめた。内側の刻印が、掌に跡を残した。
翌日、初めてまじめに刻印を読もうとした。小さな文字。ラテン語のようにも見えた。
「ALF——」
それしかわからなかった。
十八歳の春。桃花木の花が王都の並木道に咲き乱れる季節。
わたくしは初めて、自分の誕生日に父から呼ばれた。
書斎の重いドアを開けると、父は机の前に立っていた。背を向けたまま、窓の外の庭を見ていた。中庭の白薔薇が咲き始めていた。
「ヴィオラ」
父が呼んだ。ドアを閉め、わたくしは近づいた。父はこちらを見なかった。庭の白薔薇を見ながら話した——最後まで。
「はい、父上」
「今年のデビュタント——お前は出なくていい」
デビュタント。令嬢が社交界に正式に顔を出す、十八歳の儀式。
わたくしはもちろん知っていた。ずっと楽しみにしていたわけではない。でも、準備はしていた。礼儀作法も、ダンスも、微笑み方も。
「……理由をお聞きしても」
「イザベラが出る。二人は必要ない」
それだけだった。父はまだ白薔薇を見ていた。
その日の夜、わたくしは部屋で荷物を少し整理した。多くを持ち出すつもりはなかった。ただ、万が一の日のために。侍女のリューナが泣きながら手伝ってくれた。リューナは何も言わなかったが、手が震えていた。
三日後に、万が一の日は来た。
朝食の席で、父はわたくしを見た。珍しいことだった。
「ヴィオラ」
「はい」
「お前に話がある」
食堂には継母コルデリアとイザベラもいた。二人とも食器を持ったまま、静止していた。
「お前は——本物の妹の替えだった」
父の言葉を、わたくしはゆっくり飲み込んだ。
「十八年前の冬、ローゼンハイム家には二人の女の子が生まれた。一人はエリナが産んだ子。一人は——わたしの、別の女性が産んだ子だ」
別の女性。愛人。わたくしはその言葉の意味を理解した。
「エリナが産んだ子は、産まれてすぐに死んだ。ヴィオラという名を付けた、わたしの娘は、死んだ。お前は——その替えだ」
嘘だと思った。朝食の皿の上で、フォークが少し揺れた。
でも父の目は、嘘をついている目ではなかった。信じきっている目だった。十八年間、自分が正しいと信じ続けてきた男の目だった。その確信は、もはや揺るがせない——そうわたくしに教えていた。
わたくしは息を整えた。指が震えそうになったが、膝の上で——音もなく——指輪を握り直した。銀の輪が掌に食い込んだ。
「……それで、わたくしを追放されると」
「ローゼンハイム家の令嬢はイザベラだ。これ以上ここにいる理由はない。生活の費用は三ヶ月分出す。縁者でも頼れ」
縁者。わたくしに縁者はいない。父はそれを知っていた。
「わかりました」
声は震えなかった。
部屋に戻り、用意していた荷物を持った。母の指輪を手に取った。細い銀の輪。内側の刻印。
十八年間、読めなかった文字。
ALF-ROSENHM-3RD-SANCTUM。
わたくしは窓から差し込む朝の光の中で、その刻印をじっくりと見つめた。
ALF——アルフレッド?
ROSENHM——ローゼンハイム。
3RD——第三。
SANCTUM——聖域、聖堂。
鼓動が速くなった。
王立教会まで馬車で半刻ほどだった。
公爵邸を出るとき、リューナが涙をこらえて見送ってくれた。ドレンが音もなく頭を下げた。ほかの使用人たちも廊下に並んでいた。誰も何も言わなかった。ただ頭を垂れた。それだけだった。
わたくしはその一人ひとりに小さく礼をした。
馬車の窓から、白薔薇がまだ咲いている中庭が見えた。
ああ、来年もあの花は咲くのだろうな、と思った。ただそれだけを思った。泣くのは後でいい。今は頭を使うときだった。
王立教会の正門は高く、重かった。
石畳を歩き、案内の修道女に「枢機卿アルフレッドさまにお目にかかりたい」と告げると、修道女はわずかに目を見開いた。
「お名前を伺えますか」
「ヴィオラ・フォン・ローゼンハイムと申します。母の形見の指輪に、このお名前が」
指輪を見せた。
修道女は指輪をじっと見た。そして深く一礼した。
「……少々、お待ちください」
それから長い廊下を歩いた。石畳の廊下。燃えるロウソクが両側に並んでいた。突き当たりに鉄の扉があった。
修道女が扉を開けた。
そこは——地下へと続く石段だった。
第三聖堂は小さかった。
四方を石の壁に囲まれた、空間だった。ロウソクが一本だけ燃えていた。中央に一つの祭壇。その横に、白髪の老人が立っていた。
わたくしを見た瞬間、その老人の目が細まった。
「……やっと、来られましたか」
声は穏やかで、重かった。
「十八年、お待ちしておりました」
その言葉を聞いた瞬間、息が出た。自分でも気づかなかったほど深く、長く、溜めていた息が。
「——枢機卿、アルフレッド様でいらっしゃいますか」
「左様です。そして、あなたはエリナ様の娘御」
老人は祭壇の脇に歩み寄り、鍵を取り出した。
「この金庫は、十八年前に預かったものです。エリナ様から。『わたしの娘が来たら渡してほしい。指輪を持っている娘が、本物だ』と」
鍵が回る音がした。
金庫の中には、一通の封書があった。
封蝋は白薔薇の紋章——ローゼンハイム家の紋章だった。
「開封する権利はあなたにあります」
アルフレッド枢機卿が言った。
わたくしは封書を受け取った。指が震えた。今度は堪えなかった。震えてもいいと思った。だって——これは母の手紙だ。十八年間、わたくしを待っていた。
蝋を割った。
紙を広げた。
ヴィオラへ。
わたしはあなたの母、エリナ・フォン・ローゼンハイム。
あなたが生まれた夜、わたしはすでに弱っていました。産婆が首を振っていたから、わたしにも分かっていた。
でも、それよりも怖いことがあった。
アルベルトのことが怖かった。
あの人は不在でした。急ぎの公務と言っていたが、わたしには本当のことが分かっていた。彼に愛人がいて、その女性も同じ夜に子を産む予定だということ。
わたしが死んだ後、あの人が何をするか——想像できた。
だから、この手紙を書きました。
わたしが産んだ娘はヴィオラ。ローゼンハイム家の正統な後継者。証人は十二人おります。産婆、修道女二名、侍女長エルケを含む邸の使用人四名、王立教会の執事三名、そして近隣の男爵ふたり。全員が署名した証言書を、この封書とともにアルフレッド様に預けています。
指輪の銘を確認してください。その指輪を持つ娘が、わたしの娘です。
あなたに会えなくてごめんなさい。でも、あなたのことを信じています。
あなたは生き延びるはずだから。
母より
わたくしは手紙を読み終えた後、しばらく動けなかった。
石畳の冷たさが足裏から這い上がってくる。ロウソクが一本、ゆらりと揺れた。手紙の紙が少し震えていた——わたくしの指が震えていた。今は堪えなかった。震えてもいいと思った。これは母の字だ。
アルフレッド枢機卿は黙って立っていた。急かしも慰めもしなかった。
十八年間、ずっとここで待っていてくれた。
この人も、この手紙も、この十二人の名前も——ずっとここにあった。
「……証人の方々は、今もご存命ですか」
「八名がご存命です。全員、証言を求められれば応じると言っております。残り四名のうち三名は文書を残しております。御一人だけが、十年前にお亡くなりになりました」
「十分です」
「証言書の写しをいただけますか」
「こちらに」
枢機卿がもう一枚の文書を差し出した。
わたくしは受け取った。両手が冷たかったが、指は震えていなかった。
「アルフレッド様」
「はい」
「一つお願いがあります。この後、父のところへ戻ります。もし——何かあったとき、立会人として証人のうちのお一人に、同席をお願いできますか」
枢機卿は、ゆっくりと一度頷いた。
「それのために、十八年待っておりました」
公爵邸に戻ったのは、その日の夕方だった。
門番が驚いた顔をした。当然だ。朝に追放した娘が、夕方に戻ってきたのだから。
「父上にお取り次ぎを」
声は穏やかだった。門番は困惑しながらも、通してくれた。
廊下を歩きながら、腹の底が灼けていた。燃えさかるのではなく、鉄を熱したときのような——赤くなるまで加熱された、冷えることのない熱だった。十八年分の重さが、今、わたくしの足を前へ進めている。
書斎のドアをノックした。
「ヴィオラ?」
継母コルデリアの声が廊下に漏れた。
「父上にお話があります」
ドアが開いた。書斎の中には父と継母、そしてイザベラがいた。三人ともが、わたくしを見て固まった。
「なぜ戻った」
父が言った。声に苛立ちが混じっていた。
「朝に申し上げることを忘れておりました」
わたくしは机に近づいた。母の手紙と、証言書の写しを、父の目の前に並べた。
「——これは何だ」
「亡き母エリナが、十八年前に王立教会に預けた遺言状です。今日、受け取ってまいりました」
父の目が、封書の白薔薇の封蝋に向いた。
そして——顔色が変わった。
その変化は見ていてわかった。最初は怒り。次に疑念。そして何かが崩れる瞬間——父は確かに見知っていた。あの白薔薇の封蝋を。エリナの手紙を。
「開いてみてください。全文お読みになれます。証言書もあわせて」
父の手が伸びた。そして止まった。
「……なぜ、こんなものが」
「母が預けていたからです。十八年前の夜、父上が不在のうちに。産婆さまや、侍女頭エルケさまや、修道女の方々に証言していただきながら」
エルケという名が出た瞬間、父の顔が一層青くなった。エルケはまだ生きている。この邸に、今も仕えている。
「——エルケ」
父が名を呼んだ。
しばらくして、廊下に足音があった。ドアが開いた。白髪の侍女頭が入ってきた。わたくしと目が合った。彼女の目には、涙があった。
「エルケ。お前は——知っていたのか」
「はい、旦那様」
エルケは震えながら、真っ直ぐに立っていた。
「奥様が産まれた赤子は、この目で確かめました。ヴィオラお嬢様です。奥様が亡くなる前に、この手で指輪をはめてあげました。奥様が——ヴィオラ様に渡すようにと仰って」
誰も口を開かなかった。ロウソクだけが燃えていた。
継母コルデリアが口を開いた。
「わたくしは何も知らなかったのです。アルベルトからは——イザベラが本物の娘だと聞いていました。わたくしを責めないでください」
知らなかった、という言葉に、わたくしは目を向けた。
「そうでしょうか」
声は平らだった。一枚の紙を読み上げるように。
「証言書の最後に、証言を求めたが断った方の名前も記されています。コルデリア様——現在の夫人。旦那様の新しい奥方に、証言をお願いしたが、断られたと」
コルデリアの顔が固まった。
「それは——わたくしはただ、アルベルトに従っただけで」
「知っていながら黙っておられたのですね」
わたくしは言った。ただ、事実を述べた。責める気力は、もうなかった。
イザベラが、声を上げた。
「……わたくしも」
全員が振り向いた。
イザベラは両手を膝の上で組み、下を向いていた。
「薄々、知っていました。自分が——本物ではないかもしれないと」
声が震えていた。
「七歳のとき、侍女に聞こえてはいけない話を聞いてしまいました。『旦那様があの晩に愛人のもとへ行っていた』『本物の娘は奥様が産んだほう』という話を。でも……言えなかった」
「なぜ」
イザベラはようやく顔を上げた。目が赤かった。
「言えば、自分がここにいられなくなるから」
その言葉を聞いたとき、肩の力が抜けた。怒りではなかった——怒りはもっと熱いものだ。これは冷えていく感覚だった。体の中心から、じわじわと。
十一年間。イザベラは七歳から、ずっと知っていた。
わたくしが十二歳のとき、仕立て師が困った顔をしたあの日。昨年のドレスを手直しすると告げられて、わたくしが「はい、それで構いません」と答えた、あの日——イザベラはもう知っていた。
隣の席に座って、新しいドレスの色を選びながら。
何も言わなかった。
「……そうですか」
それだけ言った。
イザベラに対して何を言うべきか、もうわからなかった。恨んでいるかと言えば、恨んでいる。でもその恨みを吐き出す場所が、今はここではないと思った。
父が手紙を手に取った。
あの大きな手が、震えていた。封を破る指が、紙の端を歪めた。
音のなくなった部屋の中で、父は一行ずつ、ゆっくりと読んだ。読み終えると、紙を机の上に置いた。指先が白かった。そのまま離せないでいるような、力の抜け方だった。
わたくしの手は、震えなかった。
七歳の誕生日から、十八年かけて覚えた手だった。
「アルベルト様」
アルフレッド枢機卿の声が響いた。
いつの間にか、書斎の入口に枢機卿が立っていた。ドアを開けたまま、ただそこに。いつからいたのかわからなかった。
「証言書の写しには、存命の証人八名の氏名と連絡先が記されております。王国法上、公爵家の継承に関わる問題は、三名以上の証人証言をもって確定する規定です。ただちに王宮に申し立てることが可能です」
父は何も言わなかった。
ただ、紙を見ていた。
エリナの字で書かれた手紙を。十八年前に死んだ妻の字を。
決着がついたのは、それから半月後だった。
証人三名が王宮の審問に出席し、証言した。エルケも証言した。産婆は存命で、産室の記録——ヴィオラという名を書いた書類——も保管されていた。
王室証人審査官は、ローゼンハイム公爵家の正統後継者はヴィオラ・フォン・ローゼンハイムであると裁定した。
アルベルトは公爵位の返上を迫られた。十八年間の偽りの継承に対する処罰だった。
継母コルデリアは証言拒否の共犯として、公爵夫人の地位を失った。
イザベラは愛人の娘という事実が戸籍に記され、ローゼンハイム家の令嬢の地位を剥奪された。処刑や追放ではなかった。ただ、なかったことにはならない。十八年間のすべての特権を、返上した。
審査の翌日、わたくしは王立教会に行った。
第三聖堂。ロウソクの明かりの中、アルフレッド枢機卿が待っていた。
「ヴィオラ様」
「一つ、お願いがあります」
わたくしは両手を組んだ。
「公爵家の継承は、どなたかふさわしい方に。わたくしは——公爵家には戻りたくありません」
枢機卿は頷いた。
「分かっておりました」
「教会領の管理に、関わらせていただけますか。枢機卿様の養女として。あの土地の人々の役に立てるなら、それで構いません」
枢機卿は、柔らかく笑った。
「エリナ様に、よく似ていらっしゃる」
その言葉が、胸の奥で刺さった。痛みなのか温かさなのか、区別がつかなかった。会ったことのない母が、枢機卿の言葉の中に、そこにいた。
「母を、御存知だったのですか」
「幼い頃から。あの方も——公爵家の重さより、人の役に立つことを好む方でしたよ」
わたくしは俯いた。
泣かなかった。でも、目が熱くなった。
十八年間会えなかった。でも、母はわたくしのことを知っていた。指輪を渡してくれた。証人を集めてくれた。「あなたは生き延びるはずだから」と書いてくれた。
生き延びた。
だから、ここにいる。
一ヶ月後、わたくしは教会領に入った。
王都から二日かけて馬車で向かう、小さな村が三つある土地。石畳の道が続き、農地と森が広がっている。
馬車の窓から外を見ると、畑仕事をしていた老人が手を振った。わたくしは手を振り返した。
これからここで生きていく。誰かの替えではなく、わたくし自身として。
形見の指輪を左手にはめた。細い銀の輪が、朝の光に光った。
ヴィオラ・フォン・ローゼンハイムではなく——ヴィオラ、でいい。母が名付けた名前。それだけで十分だ。
後に、父アルベルトが一通の手紙を寄越した。
侍女が持ってきた、封のない手紙だった。一行しか書かれていなかった。
「——すまなかった」
わたくしはその手紙を、しばらく眺めた。
十八年間、謝ってほしかった言葉だった。でも、それを受け取ったとき、思ったよりも胸に何かがこなかった。
謝られたからといって、七歳の誕生日が変わるわけではない。十二歳の仕立て師のあの日が消えるわけではない。十八年間の「替え」という重さが、一行の手紙で軽くなるわけでもない。
でも——捨てなかった。
小さな宝石箱に、母の指輪と一緒に入れた。
それで十分だと思った。
春の朝、教会領の農地を歩いていた。
麦の若芽が、やわらかく揺れていた。土の匂いがした。遠くで鳥が鳴いていた。
ふと、立ち止まった。
足元に、白い花が一輪咲いていた。白薔薇ではない。野に咲く、名も知らぬ小さな花。
でも白かった。
しゃがんで、指先で触れた。冷たく、しっとりとした花びら。朝露が一滴、掌に落ちた。
ローゼンハイム家の紋章も、白薔薇だった。
公爵邸の中庭の白薔薇が、今年も咲いているかどうか、わたくしには分からない。あの屋敷に、もう戻るつもりはなかった。
でも——花は、どこにでも咲く。替えの土にも、本物の土にも。名前など、花には関係がない。
わたくしは立ち上がった。
左手の薬指に、銀の指輪が光った。「ALF-ROSENHM-3RD-SANCTUM」——十八年間かけて読んだ文字が、朝の光の中で細く輝いた。
「替えのほうが、本物でしたのよ」
声には出さなかった。ただ、口の中でひとつ転がして、それから飲み込んだ。
風が吹いた。麦の穂が一斉に揺れた。遠くの山が霞んで見えた。
悪くない朝だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「替え」として十八年生きてきた令嬢が、母の遺言状によって「本物」であると証明される話を書きました。逆転の瞬間よりも、十八年間の積み重ねを書きたかった。七歳の誕生日、十二歳の仕立て師の日、十八歳の追放——小さな傷が重なる時間を。
母エリナがヴィオラに残したのは、遺言状だけではないと思っています。「あなたは生き延びるはずだから」という信頼が、十八年間ヴィオラを支えていた。指輪はそのことの証。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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