月光に照らされる過去
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セレスティーヌ屋敷の裏庭から続く小道は、満月の光を浴びて銀色に輝いていた。秋の夜気は冷たく澄み、二人の足音だけが静寂の中に響いている。
アルテミスは暫く無言で歩いていたが、やがて足を止めた。月光が彼の銀髪を照らし、深い藍色の瞳に複雑な感情を映し出している。
「ルナ」
彼女の名を呼ぶ声は、いつもの冷徹さとは異なる響きを帯びていた。
「私がなぜ、これほど『月光のショコラティエ』に執着していたか——話しておきたい」
「……お聞かせください、アルテミス様」
ルナは静かに彼を見上げた。淡い紫の瞳に、月明かりが銀の光点となって揺れている。
「十年前のことだ。私の母——先代王妃は、原因不明の病に倒れた」
「先代王妃様が……」
「どんな薬も、どんな魔術師も、母を救うことはできなかった。日に日に衰えていく母を、私はただ……見ていることしかできなかった」
彼の声は淡々としていたが、その奥には押し殺した痛みが潜んでいた。冷徹と評される銀月の君主が、こうして過去の傷を明かすのは初めてのことだろう。ルナはその信頼の重さを感じながら、黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「そんな折、旅の菓子職人が王宮を訪れた。母のために何か作りたいと申し出たその職人が作ったのが——月光を閉じ込めたショコラだった」
「月光を……閉じ込めた」
「あのショコラを口にした時、母は——病に伏せてから初めて、本当の笑顔を見せてくれた」
アルテミスの瞳が、懐かしさと切なさで微かに揺れた。
「唯一彼女を笑顔にしたのが、あのショコラだった。どんな名医よりも、どんな高価な薬よりも……あの小さな菓子が、母の心を救った」
「……その職人は、どうなさったのですか」
「職人は……名も告げずに去った」
夜風が二人の間を通り抜け、木々の葉が囁くように揺れた。アルテミスの拳が、知らず知らずのうちに握りしめられる。
「母は何度もあのショコラを求めた。あの味をもう一度、と。だが、私には見つけることができなかった」
ルナは言葉を失い、ただ彼を見つめていた。
「どれだけ人を遣わしても、手がかりすら掴めなかった。そして母は——数ヶ月後に、亡くなった」
沈黙が落ちた。月光だけが変わらず二人を照らしている。
「母が最後に食べたがったのが、あのショコラだった」
アルテミスの声が掠れた。普段は完璧に感情を制御している彼が、今この瞬間、長年抱えてきた痛みを露わにしていた。
「だから私は探し続けた。十年間……あの味を、もう一度」
「アルテミス様……」
ルナの胸が締め付けられた。彼が三年前から自分のショコラを取り寄せていた理由、「月光のショコラティエ」を執拗なまでに探し求めた理由。その全てが、今、繋がった。
「十年前……私はまだ幼く、月光魔法を覚えたばかりでした」
「……何だと」
「一度だけ、母に連れられて隣国を旅したことがあります。記憶は断片的でしたが……美しい王宮の、静かな一室。そこに横たわる、儚げな貴婦人」
「……まさか」
「母が言いました。『この方に、あなたのショコラを作って差し上げなさい』と。私は覚えたての月光魔法で、懸命にショコラを作りました」
ルナの淡い紫の瞳が潤む。
「まさか、あの時の……あの方が、アルテミス様のお母様……?」
アルテミスは静かに頷いた。その瞳には、長年探し求めてきた答えを得た者の、深い感慨が宿っていた。
「貴女だったのか。やはり」
「私は……覚えています。あの貴婦人が、とても優しい笑顔で『美味しい』と言ってくださったこと」
「初めて貴女のショコラを口にした時から、気づいていた。あの日、母を笑顔にしたショコラと同じ——いや、それ以上に磨き上げられた、月光の魔法」
運命の糸が、十年の時を超えて、今この瞬間に結び合わさった。
「もっと早くお会いできていれば……もし私が名を告げていれば、もう一度あのショコラを届けられたかもしれない」
「貴女のせいではない」
アルテミスの声は穏やかだったが、揺るぎない強さがあった。
「貴女のおかげで、母は最後に笑顔を見せてくれた。それがどれほど私を救ったか、貴女には分からないだろう。感謝している……心から」
彼はルナに向き直り、そっとその手を取った。月光が二人の影を地面に落とす。
「私はずっと探していた。あのショコラを作った人を。母の笑顔を取り戻してくれた人を。そして見つけたのは——才能だけでなく、静かな強さと優しさを持つ、一人の女性だった」
「アルテミス様……」
「私は貴女を離したくない。才能だけではない。貴女という人間を、私は——」
「師匠!」
黒い影が木立の間から現れた。いつもは無表情なノワールの顔に、珍しく緊迫した色が浮かんでいる。
「大変です」
「……何があった」
「ショコラ嬢が、王太子と共に何かを企んでいるようです」
アルテミスの表情が瞬時に引き締まった。先ほどまでの感傷的な空気は消え去り、一国の君主としての鋭さが戻る。
「詳しく話せ」
「王宮内の協力者から入った情報です。今夜遅く、ショコラ嬢が王太子の私室を訪れ、長時間の密談を行ったと」
「密談……」
「内容までは掴めませんでしたが、『魔女』『禁術』という言葉が聞こえたと」
「……魔女、だと」
「私の月光魔法を、禁術として告発するつもりですのね」
彼女の声は平静だった。まるでこうなることを予期していたかのように。
「追い詰められた獣は、予想外の動きをする。ショコラも王太子も、もはや失うものがない」
「陛下の仰る通りです。最も危険な状態かと」
——時は少し遡る。同じ夜、王宮の一角にて。
「殿下、お願いです……私を見捨てないでください」
ショコラは床に膝をつき、クロードの足にすがりついていた。蜂蜜色の巻き毛は乱れ、琥珀色の瞳には狂気じみた光が宿っている。社交界の華ともてはやされた姿は、もはや影も形もない。
「ショコラ……立て。みっともない」
「でも、このままでは私……社交界から追放されてしまいます! 殿下だって、継承権が……」
「黙れ」
クロードは苦々しい顔で彼女を見下ろしていた。今ショコラを見捨てれば、自分もまた愚か者として笑われ続けることになる。二人は今や、運命共同体だった。
「……でも、方法がないわけではありませんの」
「……何だと」
ショコラはゆっくりと顔を上げた。涙に濡れた顔は、しかし計算高い笑みを浮かべている。
「ルナに復讐する方法を考えましたの。いえ——ルナを、破滅させる方法を」
「破滅……?」
「ルナの月光魔法……あれは、この国では正式に認められた魔法ではありませんわ」
「……続けろ」
「月光魔法は危険な禁術だと告発すれば、彼女は魔女として裁かれる。そうすれば、収穫祭での全ての証言は無効になりますわ」
「魔女……告発か」
「私は証人として、ルナに魔法で脅されていたと証言いたしますわ。可哀想な被害者を演じるのは得意ですもの」
ショコラの唇が、残酷な弧を描く。
「……危険な賭けだ。失敗すれば、我々の立場はさらに悪くなる」
「このままでも破滅ですわ、殿下。ならば——」
「……最後の賭けだ」
王太子は、ゆっくりと頷いた。
——セレスティーヌ屋敷に戻ったのは、夜明け前のことだった。東の空がわずかに白み始めた頃、屋敷の門前に王宮からの使者が現れた。
「ルナ・セレスティーヌ嬢」
使者は羊皮紙の巻物を開いた。王家の紋章が押された公式文書。
「禁術使用の疑いにより、明日の審問会への出頭を命ずる」
屋敷の使用人たちが息を呑んだ。禁術——魔女——審問会。それがどれほど重大な事態を意味するか、誰もが理解していた。しかし、ルナは微動だにしなかった。
「承りました」
銀灰色の髪が朝風に揺れる中、彼女は静かに審問状を受け取った。淡い紫の瞳は、動揺の色を一切見せない。使者が去った後、アルテミスとノワールがルナの傍に歩み寄った。
「ルナ……これは明らかに不当な告発だ。私が隣国の国王として正式に抗議を——」
「アルテミス様」
ルナは穏やかに彼を遮った。そして、唇の端にかすかな笑みを浮かべる。
「丁度いい機会ですわ」
「……何だと」
「師匠……?」
「ショコラと殿下が自ら表舞台に出てきてくださった。これで、全てに決着をつけることができます」
「……貴女は、最初から」
「追い詰められた者は必ず最後の悪あがきをする——アルテミス様、以前そう仰っていたではありませんか」
「では師匠は、この展開を予測していたと」
「予測というより……待っていたのですわ。彼女たちが自滅する機会を」
「……だが、審問会は危険だ。この国の法では——」
「ご心配には及びません。月光魔法が禁術でないことは、古い文献にも記されています。そして……ノワール」
「はい、師匠」
「ショコラの密書と、侍女の証言は準備できていますね」
「もちろんです。全て揃えてあります」
月光を背にしたルナの微笑みは、不敵で、美しく——そして、静かな覚悟に満ちていた。
「明日の審問会、楽しみにしていますわ」
「……貴女は、本当に」
「はい?」
「いや……改めて思い知らされた。私が惹かれた女性は、やはり只者ではない」
「お褒めの言葉として受け取っておきますわ、陛下」
夜明けの光が、彼女の銀灰色の髪を淡く染める。婚約破棄から始まったこの物語は、いよいよ終幕へ向かおうとしていた。




