第29話 教えるという選択 ――七歳から九歳――
七つを過ぎた頃から、重綱の一日は明確なリズムを持ち始めた。
朝、城下の動きを見る。
昼、館で学ぶ。
夕、もう一度城下を歩く。
遊びのように見えるが、本人の中ではすべてが「確認」だった。昨日より良くなったか。悪くなった場所はないか。人の顔色、声の張り、歩く速さ。小さな変化は、必ず理由を持っている。
――良くなった理由は、残す。
――悪くなった理由は、消す。
この二つを繰り返すだけで、領は静かに強くなる。
◆
最初に限界が見えたのは、「人」だった。
どれだけ道を整えても、井戸を守っても、運用する人間が理解していなければ元に戻る。煮沸の意味を知らない者は、面倒になると手を抜く。排水の理由を知らない者は、近くに捨てる。
重綱は、それを責めなかった。
――知らないのは、罪じゃない。
問題は、「教える場」がないことだ。
父の許しを得て、重綱は家臣たちを集めた。といっても、大仰な評定ではない。年の近い若手の役人、大工、鍛冶、そして読み書きができる者たちだ。
重綱は、床に木炭で簡単な図を描いた。
「みず、ここから、くる」
線を引く。
「ここ、すてると……まざる」
子供の言葉だが、図は明確だった。
家臣の一人が、はっと息を呑む。
「……なるほど。だから井戸の周りは避けろ、と」
「うん。さける。
でも、さけるだけだと、わすれる」
重綱は、そこで一拍置いた。
「だから、きめる」
父が、静かに頷いた。
「決まりにする、ということか」
「うん」
決まりは、人を守る。
守られた人は、続ける。
◆
こうして、小さな「教えの場」が生まれた。
名前はついていない。ただ、週に一度、集まって話す。水の話。火の話。病の話。道の話。難しい理屈は言わない。理由と結果だけを繋げる。
重綱は、決して自分の力の話はしない。
代わりに、**誰でも再現できる範囲**だけを渡す。
「かわいた、き、つかう」
「おゆ、わかす」
「かぜ、とおす」
それだけで、現場は変わる。
やがて家臣の一人が言った。
「若様、これは……学びの場では?」
父は即断した。
「そうだな。河越には、そういう場が要る」
こうして、後に「学所」と呼ばれるものの原型が、静かに動き出す。徒弟ではない。家の中だけでもない。**領のための学び**だ。
重綱は、その決断を聞きながら内心で頷いた。
――人は、育てないと増えない。
◆
八つになった年、別の問題が浮上する。
物流だ。
道が良くなり、人の往来が増えると、物も動く。動けば、必ず「滞る場所」が出る。荷が溜まり、喧嘩が起き、盗みが増える。
重綱は、倉の前で立ち止まった。荷の積み方。番人の配置。出入りの時間。
――ここは、人が足りない。
いや、正確には「見る目」が足りない。
重綱は、その夜、地下の静かな空間で考えた。
もし、人で見切れないなら――
**人以外に、見せればいい。**
それは、突飛な発想ではなかった。自分には、土も水も、空間も扱える。ならば、観測する存在を作ることも理屈の上では可能だ。
だが、ここで重綱は一度、踏みとどまる。
――まだ、早い。
作れる。
使える。
だが、今出せば説明がつかない。
重綱は、構想を「奥」にしまった。
◆
九つになる頃、河越領には一つの特徴が生まれていた。
「困ったら、まず聞く」
それは役人に対しても、学所に対しても同じだ。分からないまま進めない。聞いて、直す。それが当たり前になる。
母は、それを見て静かに言った。
「この領は、安心して子を産めるようになりましたね」
重綱は、その言葉に強く頷いた。
――それが、一番大事だ。
未来への不安が減れば、人は前を見る。前を見れば、努力が続く。努力が続けば、領は強くなる。
剣を振らずとも、勝てる道はある。
だが、もし剣が必要なら――
その時は、迷わない。
重綱は、夕暮れの学所を見つめた。灯りの下で、子供と大人が一緒に文字を書いている。教える者、学ぶ者、そのどちらもが誇らしげだ。
――この光景を、壊させない。
九歳の少年は、静かに決意を新たにする。
次に必要なのは、「見えないところ」を把握する力だ。
人の目が届かない場所。
夜。
地下。
境。
そのための手段を、彼はもう、考え始めていた。
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