第27話 河越の子として ――三歳から五歳――
三つになった重綱は、館の庭を歩くたびに「匂いの違い」を覚えるようになっていた。
朝、井戸端に近づけば、冷えた鉄の匂いと湿った土の匂いが混ざる。炊事場のほうへ行けば、薪の樹脂と米の甘さ、それに魚の生臭さが風に乗る。厩の近くは獣の汗と藁。厠の方角は、わずかな腐臭が必ず漂う。
大人たちは「慣れ」と呼ぶのだろうが、重綱にとっては慣れではなかった。世界が、層になって見える。空気が運ぶものが、場所ごとに違う。違うということは――理由がある。
その理由が、重綱には分かってしまう。
◆
春の終わり、城下で熱の出る子が増えた。
最初は一軒。次に二軒。三日も経つと、井戸端で女たちが声を落として囁き合うようになった。
「また、うちの子も腹を下して」
「水が悪いのかねえ」
「でも井戸は昔からだよ。変わるわけが……」
重綱は母に手を引かれて城下の小路を歩いていた。母は本来、こんな場所へ幼子を連れては来ない。だが「実際の暮らしを見せたい」と言ったのは母の方だった。河越の主の家に生まれた以上、館の内側だけで育ててはならない、と。
母は優しいが、甘やかすだけの人ではない。
「怖かったら、すぐに言いなさい。すぐに戻りましょう」
「うん」
重綱はそう答えながら、すでに別のものを見ていた。
井戸の周囲の地面が、他より黒い。
水桶の底に、微かなぬめりが残っている。
井戸の縁に触れた縄が、いつも湿っている。
――水そのものではない。井戸の周りだ。
重綱の意識が、地下へ沈む。見えない水の流れが、薄い線として頭の中に浮かび上がる。流れは止まっていない。だが、ある一点で淀み、腐り、広がっている。
そこに、家の排水が染み込んでいる。
この時代、排水は「地面に捨てる」のが当たり前だ。だから、井戸の近くに捨てれば、いつか混じる。大人でも知っている者はいる。だが多くは「何となく避ける」程度で、決まりとして徹底はされない。
徹底されないものは、必ず破綻する。
重綱は母の手を強く握り返した。
「母さま。……井戸、ここ、ちがう」
「違う?」
母は屈んで、重綱の顔を覗き込む。幼子の言葉を笑わない。真面目に聞く。
「うん。おみず、よごれる」
母の眉がわずかに寄った。戸惑いより先に、危機管理が立ち上がる顔だ。
「誰か、こちらへ。井戸の周りを見なさい」
付き従う女房が走り、家臣が呼ばれる。
重綱は、母の判断の速さに安心しながら、それでも分かっていた。
――間に合わない。
今日この瞬間にも、熱に浮かされている子がいる。腹を下し、脱水で弱っていく。明日まで待てない。
だから、使う。
重綱は小さく息を吸い、意識をさらに深く沈めた。個人で使う分には、何の制約もいらない。誰にも渡さない。誰にも見せない。結果だけが残る。
地下の水脈は、柔らかい。ほんの少し、圧を変えれば流れは変わる。
重綱は「腐った淀み」だけを押し流すように、土の密度をわずかに締めた。流路の細い部分を広げ、逆に排水が混じりやすい方向へは、微細な壁を作る。大地を揺らすような派手なことはしない。崩れれば人が怪我をする。必要なのは、静かな矯正だ。
井戸の水面が、ほんのわずかに揺れた。
誰も気づかない程度の揺れだ。
だが次に汲まれた水は、匂いが違った。
「……あれ」
井戸番の男が鼻をひくつかせる。
「いつもより、澄んでる」
母はその言葉を聞き逃さず、すぐに命じた。
「井戸水は、当面すべて煮沸して使いなさい。炊事も、飲み水も。子供に飲ませる分は必ず」
「はい……!」
煮沸。簡単だが、徹底されなければ意味がない。母は女房たちに、火の番と薪の手配まで指示し、城下の役人に連絡を飛ばした。領主の家が動けば、人は動く。
重綱は母の横で、小さく頷いた。
――これで、今日の死は減る。
◆
その夜、母は重綱を抱きしめた。
「あなたが気づかなければ、もっと広がっていたかもしれませんね」
礼を言われると、重綱はむず痒くなる。褒められたいわけではない。ただ、当たり前に守りたかっただけだ。
「でも、一人で前に出てはいけません。あなたが倒れたら、私が……」
母の声が少し揺れる。
重綱は母の胸に額を押し当て、短く答えた。
「……わかった。つぎは、いう」
母は安心したように息を吐き、頬に口づけを落とした。
「約束ですよ」
約束は守る。だが、守れない時もある――重綱はその現実も知っている。だからこそ、母の不安を減らすために「守れる範囲」は増やしたい。
◆
四歳になる頃、重綱は「暮らしを変えるのは大きな発明ではない」と理解していた。
人は、奇跡よりも習慣で救える。
たとえば、風通し。
夏が近づくと、館でも城下でも、湿気がこもる部屋が出る。湿気はカビを呼び、咳を増やし、肌を荒らす。重綱は大工に向かって、幼子らしい口調のまま、しかし具体的に言った。
「このへん、まど、ちょっとだけ、あけられる?」
「若様、窓を増やすのですか」
「うん。あついの、いや」
理由は子供らしい。だが提案は現実的だ。大工は笑い、母も「良い考えね」と頷く。結果、梁を傷めない位置に小さな通風口が増えた。夜の煙も抜けやすくなり、寝起きの喉が痛む者が減る。
寝具も同じだ。
湿った布団は冷えを生み、体力を削る。重綱は乳母に、朝の布団を縁側に干すよう頼んだ。
「ほす。おひさま、きもちいい」
「はいはい、若様は日向ぼっこが好きですものね」
笑われながらも習慣になると、家中が変わる。乾いた寝具は、病を遠ざける。誰もそれを「政策」とは呼ばない。だが確かに、暮らしの基礎が強くなる。
さらに、石灰。
母の許しを得て、厠の周りと排水溝に少量の石灰を撒くよう指示した。石灰は匂いを抑え、虫を減らす。何より、病の広がりを鈍らせる。
城下にも同じことを広げるには、時間がいる。無理に押しつければ反発が出る。だから母は、まず「困っている家」から助ける形にした。
「子供が弱い家から、先に回しなさい」
母の言葉はいつも現実に沿っている。救う順番を間違えない。
重綱はその横で、静かに頷く。
――鬱々と悩む暇はない。やる。
◆
五歳になると、重綱は城下の湯屋(湯を沸かす家)にも顔を出すようになった。
風呂は贅沢ではない。清潔を保つ道具だ。だが燃料がいる。水がいる。時間がいる。だから頻度が落ちれば、皮膚病も増える。
重綱は、湯を沸かす釜の周りを見て、火の通り道が悪いことに気づく。薪が湿っていると火力が落ち、沸きが遅くなる。
「このき、ぬれてる」
「若様、よく分かりますな」
「かわいたの、さき」
湯屋の男は笑い、乾いた薪を上に、湿った薪を下に積み替えた。それだけで火が強くなり、沸きが早くなる。湯に入れる人が増える。子供が清潔になる。痒みが減る。
重綱は、湯気の向こうで笑う子供を見て、胸の奥が軽くなるのを感じた。
――こういうのが、いい。
不安を増やす話ではなく、明日が少し楽になる話。
読者が求めるのも、きっとこれだ。
◆
その帰り道、母が言った。
「あなたは、よく人を見ていますね」
「……みんな、いきてる」
「ええ。だから守るのよ。私たちは」
母の言葉は、優しいだけではない。重い。だが重綱は、その重さを受け止められる。
なぜなら――自分には力があるからだ。
危機が来れば、自重しない。
家臣が斬られそうなら、刃を止める。
領民が飢えるなら、畑も水も変える。
病が広がるなら、流れから断つ。
そのための力だ。
重綱は母の手を握り、少しだけ笑った。
「うん。まもる」
幼い言葉でも、決意は揺るがない。
河越の暮らしは、今日も煙を上げ、明日へ続く。
そして、その続き方を、静かに変えていく幼子がいた。
どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。
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