第26話 絶望と再度の転生
河越様、もはや此れまで東国全土が平家に蹂躙され言います。
此れでは一両日中には寝返った者達や平家率いる兵達がこの河越に殺到し河越様の首を取るでしょう。
お逃げ下さい。
生き延びられればお家再興も叶うやもしれません。
くっ!
ここまで修正派は周到に罠を張り巡らしたのか!
また、視界が揺らぐ逃さん死ね!
ここまで来て修正派に殺られるとは無念だ。
◆
は?
こんな事が起き得るのか?
雨の匂いがした。まだ見えないはずの空の色さえ、湿り気を含んだ空気が教えてくる。畳の青い香、炭の残り香、煮出した薬草のかすかな苦み。生まれるより先に、世界が「匂い」と「温度」と「圧」として押し寄せ、意識の輪郭を形づくった。
――ここは、河越。
言葉になる前の確信があった。武蔵国。川筋。湿りやすい低地と、少し離れた高まり。遠くに林。人の暮らしの密度。木と土と煙の割合。そうした情報が、赤子の脳に収まりきるはずもないのに、整理されて入ってくる。
次の瞬間、肺が焼けた。胸がきしむ。喉が裂けるように痛い。意識が追いつく前に身体が勝手に反応し、重綱は産声を上げた。泣き声は、自分の意思ではなく、身体が世界に適応するための「作動音」だった。
「産声だ!」
「男の子だ、強い声だぞ!」
誰かが笑い、誰かが泣き、誰かが息を呑む。畳を擦る音、衣擦れ、桶の水音。湯気の向こうで動く大人たちの影が揺れた。だが、その喧騒をふっと包み込むように、ひとつだけ近い声がした。
「……よく、来てくれました。よく、頑張りましたね……」
母の声だ。震えているのに、温かい。重綱は目を開くより先にその声へ意識を向けた。濡れた布で身体を拭かれ、産湯の湯気が肌を撫でる。赤子の皮膚は薄く、熱と冷えを極端に拾う。だが、その不安定さを、母の腕の柔らかさが受け止めた。
胸に抱かれた瞬間、心音が耳元で鳴る。どくん、どくん、と規則正しい鼓動が、世界の基準点になる。血の匂いと薬草の匂いが混じり、汗の塩気が微かに甘い。生まれたばかりの赤子が感じ取るには生々しすぎる現実が、むしろ重綱を落ち着かせた。
――守られている。
その確信が、泣き声の勢いをゆるめた。
「この子は……」
低い声がした。父の声だと、直感で分かった。豪族の当主としての硬さがあるのに、抑えきれない喜びが端々に滲んでいる。
「河越の跡取りだ。皆、ようやった。……よく耐えたな」
最後の言葉は、産婆ではなく母に向けられたものだった。母は、ほんの一瞬だけ涙を落とし、すぐに笑った。
「ええ。……この子のためなら、いくらでも」
その一言に、重綱の胸の奥が静かに温かくなる。赤子には理屈は分からない。だが、言葉の温度は分かる。ここにいる人たちは、命を「役目」ではなく「愛」として扱っている。
家臣たちが揃って頭を下げた。畳に額が触れる乾いた音が重なり、誰かが小さく「めでたい」と呟く。祝いの空気は、ただの儀礼ではない。河越という家が続くことへの、切実な安堵だ。
重綱は、その安堵の裏側まで理解してしまう。家が続かない恐怖。領が乱れる恐怖。飢えと病と戦の恐怖。赤子が抱くには重すぎるはずの情報が、なぜか「知っているもの」として胸に沈んだ。
――だから、守る。
それは誓いというより、息をするのと同じ前提だった。
◆
乳児期は、弱さの連続だった。腹が減れば泣き、寒ければ震え、熱がこもればぐずる。だが重綱の泣き方には癖があった。必要以上に騒がない。泣き止むのが早い。乳母が「こうすれば落ち着く」という手順を掴むのが早かった。
「若様は、手がかからぬ」
乳母がそう言うと、母は誇らしそうに笑う。
「手がかからないのではなく……我慢強いのかもしれません。ねえ、重綱?」
母はそう言いながら、指先で頬をつつく。重綱は、思わず口元を緩めた。赤子の笑みは反射に近いはずなのに、今だけは「反応」ではなく「返事」だった。
館の暮らしは、当時としては整っている。だが重綱の目には、改善点がいくつも浮かぶ。寝具は湿気を吸って冷える。火鉢は暖かいが煙が目と喉に残る。水は貴重で、洗いものは簡素。便所は外にあり、冬は冷え、夏は虫が湧く。病が流行れば一気に広がる構造だ。
――今は言わない。
――まだ、言えない。
まずは「この時代の常識」を体で知る必要がある。知った上で、変える。順序を間違えれば、善意が害になる。
重綱は、抱かれながら天井の梁を見上げる。木材の癖、節の位置、煙の付着。館は丈夫だが、湿りに弱い部分がある。風の通り道が偏っている。雨の翌日は床下の空気が重くなる。そんなことを、赤子の視線でひとつずつ覚えていく。
◆
季節が巡り、重綱の身体は少しずつ強くなった。首が据わり、手が物を掴み、寝返りを打つ。母は忙しい。だが必ず一日に一度は顔を見せる。政務や家のしきたりに追われながらも、重綱を抱いた瞬間だけ、母の肩から力が抜ける。
「今日はね、城下で布が届いたの。綿の織りはまだ高いけれど、麻より柔らかい。赤子の肌には、そのほうがいいでしょう?」
母はそう言って、薄い布を重綱の頬に当てた。確かに柔らかい。汗を吸い、乾きやすい。衛生の面でも利点がある。重綱は布の感触を覚えた。同時に、綿花が育つ条件、加工に必要な工程、流通の課題が頭の隅に並ぶ。
――衣が変われば、病が減る。
――住が変われば、死が減る。
だが、それも今は口にしない。赤子の言葉は意味を持たない。意味を持たせれば、人は恐れる。
父もまた、短い時間でも重綱を抱いた。武骨な腕の中は少し硬いが、温かい。
「お前が大きくなる頃には、河越はもっと強くなる」
父はそう言った。誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように。
「この地は良い。だが良い地ほど、奪われる。……だから守る」
重綱は、その言葉を心の奥に置いた。父が守ろうとしているのは土地だけではない。ここで生きる人間の暮らしだ。ならば、守る方法は剣だけでは足りない。水、食、病、道、物流、教育――すべてが「守り」になる。
◆
冬。冷えが深まる。重綱は布団の中で身を丸め、火鉢の熱が届く距離を皮膚で測った。暖かさは安心を生むが、煙は肺を痛める。換気をすれば寒い。寒ければ免疫が落ちる。赤子の身体は、環境に直結して弱る。
母は夜中に何度も起き、重綱の額に手を当てた。
「熱は……ない。よかった」
その小さな安堵が、重綱を眠りへ戻す。
――この人を泣かせたくない。
それは甘えではなく、決意へ変わる感情だった。愛されることが、守る理由になる。守る理由がある者は、折れにくい。
重綱は、まだ言葉にならない声で、母の指を握り返した。母はふっと笑い、目尻を柔らかくする。
「あなたは……不思議ね。まだ小さいのに、握る力が強い」
重綱は、内心で答える。
――今度こそは修正派に負けない力を得て強くなる。
――ただの武ではなく、暮らしを守る強さで。
外では風が唸り、屋根を叩く。だが館の中には、火と布と人の手がある。赤子の重綱は、その温度を胸に刻む。これが河越家の始まりで、河越領の基準で、そして――自分が守るべきものの形だ。
生まれたばかりの命が、世界の重さを知っているのは不自然かもしれない。だが重綱は、それを「不幸」とは思わなかった。
愛されている。祝福されている。守られている。
だから、自分も守る。
それが、河越に生まれた子の最初の結論だった。
どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。
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