第2話 武蔵国・秩父氏の地
産声を上げたその日から、私は静かに観測を続けていた。
この世界がいつの時代で、河越家がいまどの立場にあり、
誰が敵で誰が味方となるのか。
赤子である私ができることは限られているが、
“この時代の空気”を読むことだけは、常に可能だ。
――武蔵国、秩父郡。
この地は私が千年にわたって守り続ける舞台である。
揺り籠の中で、私は屋敷の構造、行き交う人々の足音、
家中が話す武蔵訛りの濁音、そのすべてを記憶していった。
そして確信する。
(ここはまぎれもなく、平安末期の秩父氏領だ)
板葺きの天井、漆喰壁の淡い香り、
部屋を満たす灯明の光量――
現代人の感覚を持つ私には、すべてが鮮明だった。
ある日、ふと母が乳を与えながら小声で語った。
「重綱……、そなたの父上は、留守所総検校職として
武蔵国の政を支えておられる。
秩父家の存続も、そなたにかかっておるやもしれぬ」
(……やはり、そうか)
武蔵国留守所総検校職。
この時代の事実上の“県知事”であり、
武士団の統括と民政の要を握る存在だ。
つまり私は、最初から河越家の中心にいる。
輪廻が示した結論はひとつ。
――ここから河越家の近代化を始める。
敵は疫病、飢饉、戦乱、そして国家の腐敗。
だがまずは「家」を整えなければ、何も始まらない。
◆
生後百日を過ぎたあたりから、私は徐々に外に出されるようになった。
門の外は穏やかな丘陵地帯が広がり、
畑地と雑木林が入り混じる典型的な武蔵国の風景が続く。
そこには、既に改善すべき点が無数に存在した。
(畑の畝の角度が悪い。水が流れず、根腐れが出る)
(井戸の位置が低地すぎる。汚染されている危険が高い)
(家屋の換気が不足している。結核が流行しやすい)
(槍の柄に使う木材乾燥が甘い。折損率が高い)
私は赤子の姿でありながら、
空を見上げては風の流れを読み、
土を握っては土壌の質を分析し続けた。
乳母が驚いたように言う。
「この子は……まるで何かを考えておるようじゃ」
当然だ。
私は千年先の科学知識を持つ人間だ。
◆
半年が過ぎた頃、私は初めて父・重房の膝に抱かれた。
屈強な武人でありながら、瞳に智慧の光を宿す男だ。
「重綱……。
そなたは、わしの後を継ぎ、武蔵国を守る柱となるやもしれぬ」
(父よ、あなたが築く家は、いずれ河越家へと発展する。
その未来を私はすべて知っている)
しかし同時に、史実の重房は
“優秀だが技術体系を持たない時代の武士”でもある。
その限界が、後々の河越家の揺らぎへと繋がる。
私は父の腕の中で、わずかに手を伸ばした。
重房が目を細める。
「ほう……父を掴もうとするか。
頼もしいものよ」
(いいえ、父上。掴みたいのは“未来”だ)
私は心の中で呟いた。
◆
一歳の誕生日を迎える頃、
私は既に「言葉を話せる」準備を整えていた。
あまりに早い発語は不自然だが、
この時代では“神意”と解釈される余地もある。
そして私は、ついに最初の言葉を発した。
「……みず……」
母と父が驚いて顔を見合わせる。
「み、水……? 重綱、何を言うのだ?」
私はゆっくりと、井戸の方を指さした。
「みず……、あぶ……ない」
父が眉を上げ、家臣を呼んだ。
井戸の水を調べるように命じる。
結果は――
「申し上げます! 井戸に腐りかけの鹿が落ちております!」
家中が騒然となり、父は私を抱き上げる。
「まさか……重綱、お前が……?」
私は微笑む。
この“奇跡”が、河越家改革の第一歩となる。
◆
その日から父は、私にただならぬ“感応力”があるとして
密かに意見を求めるようになった。
私は幼児語の範囲で答え、
そのたびに小さな改善が家中で起きていく。
穀倉の位置が変わり、
用水路が掘り直され、
馬の病が減り、
兵の体調が良くなった。
(これで良い。最初は些細な改善から始めるのだ)
やがて父は言った。
「重綱……そなたは、ただの子ではない。
この家の未来を知る者のようだ」
(未来どころか、千年先の滅亡すら経験しているとも)
私は言わなかったが、
父の言葉は正しく、核心を突いていた。
そして、私は胸の奥に確信を持った。
――ここからが河越家の始まり。
――ここからが“滅亡回避”の本番だ。
幼い私は、武蔵国の中心で静かに目を開く。
河越家千年の繁栄を、この手で築くために。
どうぞ気軽に読んでいただければ幸いです。
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