第18話 寺社の影と政治の水脈
治水改革が始まって十日。
河越荘の田畑は、村人が驚きの声を上げるほど
水の循環が改善されていった。
「見てくれ、今年は田が腐らねぇぞ!」
「水が流れるってだけで、こんなに違うのか……」
「これで秋には、米が倍になるかもしれねぇ!」
河越家の評判は急速に上がり、
父・重房は村人たちから深い信頼を得始めていた。
(良い流れだ……
だが、この“急激な繁栄”が、必ず敵を呼び寄せる)
そう――寺社勢力だ。
◆
その日の午後。
父の屋敷に、派手な装束をまとった僧兵が現れた。
「武蔵国・久遠寺よりの使者である」
「河越殿、勝手に川筋を変えたと聞くが……
寺領の水利に支障が出ておるのだが?」
その声は、完全に“怒気”を帯びていた。
(来た……寺社領。
治水で流路を変えれば、寺の田畑にも水路が影響する。
だから、必ず抗議が来るはずだ)
父は冷静に迎えた。
「水害の防止のため河越家が施した改善である。
寺領にも悪い影響は出ぬはずだが?」
「出ておる。
寺領の南田で水量が減り、作付けが出来ぬ。
すぐに元の流路に戻してもらおう」
僧兵の言葉に、家臣たちがざわめいた。
「元に戻したら……また洪水に逆戻りでは?」
「第一、村の者が困るぞ」
僧兵は一歩前に出て、無遠慮に言い放つ。
「寺社の権威に逆らうか?
武蔵国において、寺領の水利は“不可侵”ぞ!」
(……やっぱり、寺社は強い)
だが――私は黙っていなかった。
◆
私は父の袖を引き、
ゆっくりと前へ出た。
「……みず……
たりてる……」
「ほう? 幼子が何を言う?」
「たりてる……
みえない……だけ」
僧兵が鼻で笑う。
「水が足りている? 根拠はどこにある?」
(根拠……? あるさ。
“現代水文学の初歩”が全部ここにある)
私は小さな指で、寺領の水路を示した。
「ここ……つまる……
だから……ながれない……
かわごえ……かわす……
だから……ふえる」
僧兵が顔をしかめた。
「水が増える?
河越の言い訳に過ぎぬ!」
父が口を開こうとしたが、
私は一歩前に進み、さらに言った。
「みずは……
みちが……わるい……
なおせば……くる」
その瞬間、
僧兵の背後にいた寺社の書記が目を見開いた。
「……まさか……“土砂の堆積”のことを言っているのか?」
彼は慌てて巻物を開き、
寺領の水路図を広げた。
「久遠寺南田の第二水路……
確かに数年前から流量が落ちていたが……
原因が不明で……」
「それだ」
父が静かに言う。
「重綱が指摘したのは、堆積で水が止まっていることだ。
そちらの水路を浚えば、問題は解決する」
「ぐ……!」
僧兵の声が止まった。
反論の言葉が見つからないのだ。
私は最後に、ぽつりと付け加えた。
「……かわごえ……
みず……わける……
みんな……たすかる……」
(そう。分水ができれば、全てが解決する)
僧兵はしばらく黙っていたが、
やがて舌打ちして言った。
「……寺に戻って検分する。
だが、この件は覚えておけ、河越殿。
寺社領は軽んじてはならぬ」
足音を響かせ、僧兵たちは去っていった。
◆
使者が去ると、家臣たちは深いため息をついた。
「危ないところでしたな……」
「寺社の怒りを買えば、領地ごと潰されることもある……」
父は私を抱き上げ、誇らしげに言った。
「重綱のおかげで、戦わずに済んだわ」
(いや……これはまだ“序章”にすぎない)
◆
夜。
屋敷の隅の、灯明が揺れる部屋で私は一人、
空気の揺らぎを観測していた。
(治水改革で、河越家は“地盤”を手に入れた。
寺社との交渉で、“政治の道筋”を手に入れた)
だが、その時――
ふ、と空気が歪んだ。
ほの暗い光が、部屋の角で揺れている。
(……揺らぎだ)
あの黒装束ではない。
もっと遠く、もっと薄い、かすかな未来の影。
「……まだ……みてる……のか」
私は小声で呟いた。
(未来修正派は、私が“河越家の基盤”を固めることを
何より嫌がっている。
だから――次はもっと大きな妨害が来る)
治水も、寺社も、豪族も。
すべての流れの先にあるのは、
歴史という大河そのものだ。
私は小さく拳を握った。
「……まもる……
かわごえ……」
その瞬間、揺らぎはふっと消えた。
(来るなら来い。
未来を作る者の責任は――
未来を壊す者に屈しないことだ)
その夜、武蔵の風は静かに、しかし不穏に吹いていた。
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