第一章 健児……その6
中学二年のクラス替えでも健児とは違うクラスだった。
中学二年になると、野球部に自分より体格に恵まれた一年生たちが入部してきた。
三年生になった先輩たちは、もう僕を品定めすらしなかった。
四月の終わりごろ、三年生の主将は一年生も参加している内野の守備練習の際、やはり僕には練習に加わらせず球拾いを命じた。
それを見かねた同級生部員たちが声を上げた。
「キャプテン! どういう理由でいつもあいつを外すんですか?」
「理由って、あんなに小さいのに無理だろう。パワーもないしな」
「野球はパワーだけでするものじゃないでしょう!」
「うるさいなお前ら、部内のことは俺たちが任されてるんだぞッ」
僕は同級生のみんなが主将や三年生部員に食って掛かっていったことに驚いてしまって、慌てて両者の間に割って入った。
ちょっとした騒ぎとなって、誰かが顧問の先生を呼びに行った。
もともと部活動にはそれほど関心がなかった顧問の先生は、事のあらましを二年生、三年生から聴き取りはしたが、話し合って決めなさい、と生徒に丸投げをして足早に職員室へ戻っていった。
その時の顧問の投げやりな態度を見て、心のどこかで期待していた顧問の介入による環境の好転は望めないのだ、と確信した。
そして、対立する二、三年生と状況が呑み込めずオロオロする一年生たちで、野球部の雰囲気は最悪のものとなった。
このことが決定打となって、僕の存在は部内の腫れ物のようになっていった。
いつまで経っても成長しない自分の身体と野球部の先輩たちに嫌気がさしたのと、僕のせいで同級生部員たちと三年生たちがいつまでも険悪な状態になっていることに耐えられず、将来はプロ野球選手になるのだ、という小さなころからの夢から急激に醒めてしまった。
少年野球から共に頑張ってきた球友達の、自分たちの代になるまでの辛抱だ、との励ましも、さほどには響かず幽霊部員になった。
中学で新しくできた友達に誘われ、一年生のころから軽い好奇心やイタズラ感覚でなんとなく授業を抜け出したり夜遊びをするようになっていた僕は、野球部に行かなくなったことで更にそれらの行為に拍車が掛かり、授業をサボって抜け出したり、何するわけでもなく夜の街をブラつくようになっていった。
そして、銭湯には深夜に行ったり友達の家の風呂を使わせてもらったりして、健児と顔を合わす機会がめっきりと減った。
夏休みに入ってすぐ、僕はオキシドールで髪を茶色く脱色した。
数日後、道端で偶然健児を見かけた。
ちょうど次の落語会が催される時期だった。
次の落語会ではずっと聴きたかった大ネタ『地獄八景亡者戯』が掛かるので楽しみにしていた僕は、待ち合わせを決めようと健児に「健児、ひさしぶり」と声を掛けた。
呼び掛けに気付いて振り返った健児は、少し虚ろで青ざめたような顔をしていた。
そして、頭髪が茶色くなっているせいか、瞬時に僕が誰なのかわからないようだった。
「えっ、あっ、こ、こん、にち……は……?」
健児は困惑した表情を浮かべて僕を見ている。
「どうしたの健児? なに? 顔色悪いようだけど大丈夫?」
「はい、えっ? あっ、だ、誰……?」
「どうしたんだよ健児! 僕だよ、僕!」
そう言う僕の顔をまじまじと見た健児は、ようやく声を掛けたのが僕だと気付いたようだったが、さっきまでの困惑した表情から曇った顔つきに変わった。
「どうしたの? その髪」
そう言った健児の言葉からは、明らかに怒気が感じられた。
「どうしてそんな髪にしたんだ? どうしてそんなことするんだよ」
「あ、いや、特に理由はないんだよ。ハハッ」
少し照れ笑いをしながら答える僕を見た健児は、この変貌に意外なほど食いついてきた。
「理由はないって、理由もなくそんなことしないだろ?」
「あ、いや、本当に友達と軽いノリでやっただけだからさ」
「軽いノリ? 君はプロ野球選手になるんじゃなかったのか? そんな茶色い髪じゃ、野球部にいられなくなるんじゃないのか?」
いつもとまったく違う剣幕で詰問してくる健児の様子に僕は狼狽えた。
「いや、実は……、野球部には、もう……、行ってないんだ……」
「行ってない……って、どうしてさッ?」
詰め寄る健児に戸惑いながら僕は返事をする。
「いろいろあって……、嫌になったんだ」
「嫌になったって? どうして? 道は違っても一緒に頑張ろうって誓ったよね? そんな簡単に諦められるの? なんだ! 君の野球に対するモノなんてその程度だったんだねッ」
軽侮を含んだ健児の言葉に、僕はカッとなった。
「かっ、簡単に諦めたわけじゃないよ! 僕だって一生懸命やり続けよう、頑張ろうって思ったよ!」
「でも結局諦めてるんじゃないか! 君は夢から逃げたんだよ!」
「逃げただなんて、ずいぶんひどい言い方だな! いつも一人でいる健児には、部活の先輩後輩とか周囲の雰囲気とか気遣いとか、そんなの分からないだろッ」
「分からないし分かる必要もないねッ! 本当にやり遂げたいのなら周囲のことなんか構うことなく覚悟を持ってやり通すべきだッ」
「気持ちだけではどうしようもないこともあるだろ! 僕の身体を見ろよ、こんなに小さい身体で皆と競争できるわけないだろ!」
「それは言い訳だよッ、身体が小さいのなんて関係ないよッ、志士のようにって誓ったのならどんな境遇でも諦めるべきじゃないねッ!」
突き放すようにそう言うと、健児は僕を置いてその場を去っていった。
その場に残った僕は、去り行く健児に何も言えなかった。
口喧嘩とはいえ初めて人と喧嘩した僕は、驚くほど高まった鼓動を抑えようと深呼吸しながら健児が言ったことを思い返していた。
夢から逃げただって? 志士だって全員が変説しなかったわけでもないし、初志貫徹できたわけでもないだろう?
だが、確かに彼の言うとおり本当にやりたいことがあるのなら何があっても諦めるべきではないのだろうし、実際のところ健児なら僕の立場になってもやりたいことを周囲に構わずやり通すようにも思えた。
ただ、自分が抱えてる強いコンプレックスを他人にどうこう言われる筋合いはない、と憤りもした。
そんなことを考えているうちに、胸の鼓動も静まってきた。
それにしても今日の健児はどうしたんだろう? 声を掛けた時も変な様子だったし、顔色も悪いようだったな。
髪を茶色く脱色したことや、野球部を辞めたことがそんなに気に入らなかったのだろうか?
健児が何かに怒っているところを見たのは初めてであったが、怒るにしても普段の彼からは全く繋がらない印象を受けた。
なにかおかしい、あんな風に怒るなんて……と、不思議に思えて仕方がなかった。
早く仲直りしないと落語会に行けないな、という思いと、身体が小さいことを言い訳にするな、と言われた腹立たしさをないまぜにしたまま、僕も一人残されたその場をあとにした。




