第五章 オジン……その7
あれから何年経ったのだろうか?
月日はあっという間に過ぎ去って、いつの間にか僕は名実ともにオジンになり、親方、なんて呼ばれるようになった。
そして今、地元に古くからある五重塔の一番上の屋根に立っている。
良い眺めだ。
この屋根の上からは、僕が青春時代を過ごしたこの街が一望できる。
街並みを見下ろしていると、通りを歩く人たちや、行き交う車の様子などがよく見える。
公園から聞こえる子供たちの声、学校のチャイム、部活動の喧騒、スーパーマーケットの賑わい、静かに佇む神社、そしてひときわ目立つあの大きな樹。
それにしても、あの樹はいつからあそこに在るんだろう?
思い起こせば、あの大きな樹の周りで起こった出来事や昔話は数多く聞いたのに、あの樹そのものの伝承を聞いたことはない。
今から更に時が流れて、あの日あの大きな樹の下であの頃の子供たちはあんなことやこんなことをしていたらしいよ、なんて僕たちの時代のことを話す人がいるかもしれない、なんて考えると可笑しくなってきた。
あの樹がある限り、この街はいつまでも、何も変わらない気がした。
変わらないと言えば、僕の身長は結局、中学三年生で成長が止まってしまった。
しかも平均的な中学三年生よりもかなり低かったし、ヒゲもほとんど生えてこなかった。
声変りがいつあったのか、したのかさえも記憶にないし、やもすると後ろ姿では未だに子供と間違えられることもある。
でも案外、不都合を感じる場面は少ない。
屋根の上での仕事は自分より高いところに手を伸ばす必要なんてないから身長なんて関係なくて、なんなら小柄な体形は古びた建物の屋根裏の作業に適しているとさえ言えた。
寺社の高い屋根から見る、夕日に照らされたこの街並みは美しかった。
僕はこの街並みを見ているだけで、僕と繋がってくれた沢山の人たちを、いつでもそこに見つけられる気がしていた。
僕は屋根から見えるこの景色が大好きだ。
屋根の仕事に携わる者の特権だろう。
人と人には因縁があって奇妙な巡り会わせがあるものらしい。
様々な出来事、出会いと別れ、触れ合ったたくさんの人たちが僕をこの場に立たせてくれた。
きっと何か一つでも欠けていたら、今の僕はないのだろう。
ある年の夏の終わり、僕は仕事で訪れたお寺で、ご住職を探していた。
寺務所に聞くと、本堂におられるのではないかという。
僕は本堂の縁側から、ご住職おられますか? と声を掛けてみたが誰もいないようだった。
僕が諦めて立ち去ろうとしたとき、ご本尊の裏から人影が動いたかと思うと、ご住職は所用でお出かけになられましたよ、と男性の声が聞こえた。
「あっ、いや、どうもすみません。屋根の修繕で打ち合わせの約束があったものでして」
「あぁ、左様でございましたか、でも直ぐお戻りになられるようですよ」
僕は本堂でご住職の帰りを待つことにした。
男性は吊り灯篭にLEDの電飾を取り付けていた。
僕は少し興味が湧いて、遠巻きにその作業を見ていた。
「やはりLEDで灯すと明るいですね」
「色味に気を使いますが、火事の心配も減りますから最近は増えていますね」
男性は作業を一区切りさせて、わざわざ僕に挨拶をしてくれた。
互いにお辞儀をして顔を見合わせた時、男性は僕の顔を見て少し驚いたように小さな声を上げた。
僕は、もしやどこかでお会いしていた方だったのかもと思い、尋ねてみた。
「失礼ですが、どこかでお会いしていましたでしょうか?」
「いや、これは失礼を。知人、いや見知っている方のお顔を思い浮かべたものですから、つい」
僕と男性はご本尊の前で向かい合って座り、世間話をしながらご住職の帰りを待っていた。
僕は近くに置かれていた香炉が気になって、手に取ってみた。
細部にまで見事な工夫がされており、素晴らしい一品だった。
「見事な透かし香炉ですね」
「実はそれ、恥ずかしながら拙作でございまして」
「これはこれは、なかなかの秀作でございますね」
「そういったものに、ご興味がおありですか?」
「幼馴染が仏具の職人でしてね、こういったものを目にすると思い出すのですよ。残念ながら、若くして亡くなってしまったんですが」
すると、向かい合って座っていた男性は突然正座から膝立ちになって、目を見開いて僕にこう聞いてきた。
「そ、その幼馴染の方は、なんというお名前でしたか?」
「健児君、名は、健児、といいました」
僕がそう言うと、男性は今度はへたり込むように座り、目を閉じてこう言った。
「兄です……健児は、私の、兄なんです」
その言葉が僕の耳に届いたとき、本堂全体に健児の存在を感じた。
直後に込みあげてきた嗚咽は、やがて耐え切れず号泣となった。
そのあいだ中ずっと、健児の存在に全身を包まれているようだった。
今、僕と向かいあって座っている男性は、健児の十歳年下の弟だったのだ。
僕が落ち着きを取り戻すと、男性は静かに話し出した。
「兄は急性の骨髄性白血病でした。ご存じの通り、兄は私や両親とは血が繋がっていませんでしたから、私たちはドナーには適合しなかったのです」
「いま、ご存じの通り、とおっしゃいましたか?」
「兄は病室で、中学卒業の時に二人並んで撮った写真を見ながら、何度も写真のあなたを指でなぞっては、どうしているのだろうか、と気に掛けていました。兄は、あなたにだけは家族と血の繋がりがないことを打ち明けていたと、そう話していました」
男性は自分と兄に血の繋がりがないことを、健児の発病と同時に知ったそうだった。
そして、幼いころにうっすらと記憶にあった兄の友人の雰囲気と、兄が何度も見ていた写真の面影が、今も強く残っている僕に気が付いたと言った。
「兄はあなたに観音様を重ねていたようです。こうしてお会いしていると、兄がそう言っていたのがわかる気がします」
「観音様、ですか?」
「兄は初めてあなたに会った時、会ったというか、銭湯であなたを見掛けたとき、こんなところに観音様がおられる、と思ったそうなんです。その後、見掛けるたびに声を掛けようと思ってもうまくいかず、そんな時に参加した泊りがけのイベントで朝目覚めると、あなたが隣で寝ていることに気付いて驚いたそうです。どうにかして友達になれやしないかと考えているうちに、気づいたら声を掛けて起こしてしまっていた、と言っていました」
まさか観音様に似ている、そんな理由で健児は僕に興味を持ったのだとは夢にも思わなかった。
「実は、兄は人の顔を覚えるのが苦手だったようなんです」
「顔、ですか?」
「えぇ、家族の顔やテレビや本で見るキャラクターなんかはそうでもなかったようなのですが、子供のころから人の顔が判別できなくて覚えられないことが多々あったようなんです。私も兄がどのように言っていたかおぼろげなのですが、でも不思議とあなたのことだけは最初からハッキリと認識できたと、そのようなことを言っていた記憶があります」
あんなに長い時間一緒にいたのに、僕は健児のそんな様子に気付きもしなかった。
健児が人との交わりを避け続けていたのは、もしかするとそのことが原因だったのかもしれない。
顔を見ても誰だかわからないことで、相手を怒らせたり傷付けてしまったりしたことがあったのかもしれない。
そしてそれが原因で自分も傷ついたことで、他者との交わりを避けていたのだろうか。
そんな中で僕のことだけはわかるのだとしたら、少しは健児の負担を軽くできていたのかもしれない、と思うと同時に、どうしてあの手紙の返事を書かなかったのか、とまた思い出し、深く悔やんだ。
「大好きな兄でしたのに、残念でした」
しばし二人は向かい合ったまま無言で何かを思いやっていた。
ヒグラシが鳴いている。
いつの間にか本堂はいつもの静寂を取り戻していた。
「いやいや、お待たせしてすみませんでしたな」
ご住職がお戻りになられたので、その場を辞すことにした。
僕は男性に一つお願いをして、ご住職と寺務所へ仕事の打ち合わせに戻った。




