第四章 聡子……その8
中学二年の夏休み、もう野球部に戻る気が無くなっていた僕は、友達に感化されてオキシドールで髪を脱色した。
そんな僕を太郎は複雑な面持ちで見ていたが、強く引き止めることはなかった。
二学期に入って、頭髪を茶色から戻さなかった僕は野球部を辞めた。
僕の中学校では部活動が必須で、僕は運動部ではない部活に移籍先を探していた。
僕は小学校で聡子とやった図書係を思い出し、暇つぶしに本を読むのも悪くないと思って文芸部に入った。
野球部を辞めて丸坊主から中途半端に伸びていた僕の頭髪は、理香に指摘されたように逆さまに立てた茶色いホウキのようになっていた。
図書室に茶髪、という少しアンバランスな情景だが文芸部員たちは快く僕を迎え入れてくれた。
文芸部に入ってからしばらくして、放課後の渡り廊下を歩いていると、急に僕の前へ現れた聡子に声を掛けられた。
「わっ!」
「うわっ! びっ、びっくりした! なんだぁ、聡子かぁ……」
「えへへー、そうでーす、聡子でーす」
聡子とは二年生でも別のクラスだったせいか、滅多に顔を見ることはなく久しぶりに会った気がした。
相変わらず長く伸びた黒髪をおさげにしていて、屈託なく僕に笑いかける聡子の表情からは、手をつないで歩いていたころの面影が随分と薄くなっているように思えた。
「ね、ね、その髪、どうしちゃったの?」
「うん、なんとなくね。変かな?」
「変だよ、変!」
「まだ伸びきってないから、ホウキみたいになっちゃうんだよ」
「違うよ、そういう意味じゃなくて、変だよ」
渡り廊下を渡りきったところで、聡子は中庭に向いて立ち止った。
僕も聡子の隣で足を止め、横に並んで立った。
「野球部、辞めちゃったんだって?」
「うん、今は文芸部で本ばっかり読んでるよ」
「それも知ってるよ。どんな本読んでるの?」
「今は幸田露伴を読んでる」
「幸田露伴? あっ、幸田文のお父さんかな?」
「いや、どうだろ? コウダアヤって知らないから」
「なんて本?」
「五重塔って本」
「へぇぇ、知らない本だわ」
初秋の風が、中庭から渡り廊下へわずかに吹いた。
夏が終わっちゃったんだな、とお互いが感じるくらいの間、沈黙があった。
「聡子はテニス部の新キャプテンになるんだってね、理香に聞いたよ」
「もうすぐ三年生は引退だから、わたしもしっかりしないとね」
渡り廊下を行き交う生徒たちが、男女とも次々と聡子に挨拶をしている。
いまや聡子は、学校内でトップクラスの人気を誇る女子の一人で、その隣に聡子よりも少し背の低い、茶色いホウキ頭の小さな男子が立っているのは、相当な不釣り合いに見えたろう。
僕は、なんだかみんなの視線が気になって、その場を離れることにした。
「じゃ、僕行くから」
「うん、また、またお話しできる? 本の感想とか聞きたいな」
背中越しにそう言う聡子から、僕は返事もせず逃げるようにその場を離れた。
秋の運動会は、野球部員だったはずの僕は目立ちもせず、かといってクラスの足を引っ張ることもなく終わっていった。
そのあとの文化祭で、僕のクラスは演劇をすることとなった。
演目は、学生時代に演劇部だったという先生肝いりの西洋劇だった。
しかし、台本を読んだ僕は中学二年生が上演するには、かなり難しいものに思えた。
物を作ったりする作業が嫌いではなかった僕は、演者側ではなく大道具小道具の係についた。
絵筆を持つと、毎回いつのまにか手が絵具まみれになってしまうのはどうしてなんだろう? と考えながらも僕は作業に没頭した。
裏方班の順調な進み具合とは裏腹に、キャスト班は行き詰まりを見せていた。
この脚本を選んだ担任の先生は、練習すれば出来ると鼓舞していたが、演者は明らかにやる気をなくしていた。
場面展開が多く、ところどころにある難解なセリフで全体が冗長になり、中学生の演技力では三十五分の上演時間にも収まらないようだった。
裏方の仕事に区切りをつけていた僕は、なんとなく台本に手を入れてみた。
落語や浄瑠璃、歌舞伎の一幕を文字に起こしたものを好んで読んでいたせいもあって、思いのほか馴染みがよく、筆が進んだ。
まず人物の名前を日本名に変え、中だるみする場面をカットし展開を急がせ、共通性のある複数の場面を一つにまとめてみた。
セリフの一部を日常で使うものに直し、流行りの単語に置き換えたりもした。
面白半分で書き出していると、西洋劇と東洋古典とを混ぜ合わせた奇妙な脚本ができた。
モノを知らない、というのは恐ろしいもので、このときの僕が原典を知っていれば恐れ多くて絶対に出来ないであろう書き直しをして、先生に見せた。
先生は、あごヒゲを触りながら、じっくりと読んでくれた。
「これ、君が直して書いたの? 全部? 一人で?」と、先生が読み終わってから聞いた。
先生は、いくつかの場面やセリフの意図を僕に尋ねた後、
「このセリフはこう変えてもいい? ここはこうしてもいいかな?」と僕に確認を取ってから、直した台本を片手に持ち、黒板にチョークで書きだした。
「みなさん、台本の修正をしますので、黒板の通り書き写してください」と先生は板書しながら言った。
数日後、先生が新たにガリ版刷りした台本を皆に配った。
スタッフ欄の僕の名前の上には、大道具・小道具、改行して脚色、と書いてあった。
ふとしたことからクラスの演劇の脚色を担当してしまって、僕は大道具小道具の裏方班と脚色担当の二足の草鞋を履くこととなり、忙しくしていた。
渡り廊下から出た中庭で、絵具を塗った小道具を乾かしていると、三階の廊下の窓から中庭に身を乗り出した聡子が僕を呼んだ。
「おーい、なにしてるのー?」
「絵具ー塗ったからー、乾かしてるー」
上を向いて三階の聡子に答えると、窓からスッと消えたと思ったら彼女は中庭に降りてきた。
色を塗った小道具の前でしゃがんでいた僕の横にきて、同じようにひざを折って聡子はしゃがむと、首を傾げて僕の顔を下から覗き込むように上目遣いで微笑みながら言った。
「理香に台本見せてもらったよ、すごいね、キミ」
「えっ、うん、でも責任感じちゃってね、余計なことしたかなって」
「そんなことないよ! あの名作をあんな風にするなんて、すごい発想だって思ったもん。わたしにはわかるよ、キミにはすごい才能があるんだよ、絶対!」
聡子が僕を褒めたのか励ましたのかよく分からないでいたが、あの白うさぎ役から学校の中心人物へと変貌を遂げた彼女と比べると、大したことでははないように思えた。
「聡子は今年の劇でも主役だろ? 二年連続、すごいね」
僕は小道具の乾き具合を指で確かめながら、日ごろ思っていたことを言った。
「聡子は変わったね、いいほうに、すごく変わったね。僕なんか、ちっとも変わんないよ」
「そうかな? 自分じゃわからないけど?」
「僕はいつまでも、なんにも変わらないんだろうなぁ」
「キミは今のままでもすごいじゃない、変わらなくてもいいんじゃないのかな?」
「いや、やっぱり僕だけが、僕だけがみんなに置いていかれてるような気がするんだ」
そう気持ちを吐き出すと、僕はとても惨めな気持ちになった。
僕が立ち上がると、聡子は僕を見上げて少し大きな声で言った。
「わたしは……、わたしも……、わたしだって、なにも変わってなんかないよッ」
聡子の言葉に反応するでもなく、僕はその場に聡子を残したまま、乾いた小道具を持って教室へ戻った。
文化祭本番、僕のクラスのキャスト班は練習の成果を存分に発揮し、裏方班の作った大道具小道具も存在感十分で上々の出来だった。
先生は目に涙を浮かべて拍手をしながら、みなさんよかったです、と生徒を労った。
生徒の中には先生と抱き合い、涙するものまであったが、僕は余韻に浸るでもなく、次の演目を見ていた。
僕も、自分が手掛けた脚色の意図が皆に伝わってよかったと、一定の満足感を得ることが出来たが、それも一瞬だった。
僕は次の演目に出ている聡子を目で追っていた。
小学生のころ、同じような背丈でいつも手を繋いで歩いていた女の子が、いま大勢が見守る舞台で堂々と主役を演じている。
僕と同じく引っ込み思案で、意地悪な男子に泣かされては友達の陰に隠れていた女の子の成長を、もしかしたら嫉妬しているのかもしれない。
今や彼女は清楚で可憐なイメージに加え、軟式テニス部での活躍もあって、学校中の男女から絶大な人気を博していた。
人って変われば変わるもんだなぁと、舞台を見ながらぼんやりと考えたりしていた。
僕は嫉妬とも羨望ともつかない意識を、ぼんやりと聡子に向けていた。




