第四章 聡子……その3
二年生の体育の授業で困ったことが起きた。
今日は鉄棒で逆上がりをやりましょう、と先生が言ったのだ。
この頃、クラスの半数以上の子は逆上がりが出来るようになっていた。
逆上がりは二年生の必修ではないのだが、出来る子と出来ない子の間に流れていた微妙な空気を察したのか、先生は出来ない子たちに指導して出来るようになるきっかけを作りたかったのかもしれない。
「二年生はまだ出来なくっても大丈夫ですよ。逆上がりはこんな感じで練習します」
先生はそう言って、上級生が使う高い鉄棒で手本を見せてくれた。
運動が苦手、というほどでもないのだが、運動能力に自信がなかった僕は、今一つコツが掴めず逆上がりが出来ないままだった。
聡子も同じく逆上がりが出来なかったが、理香が放課後に練習しようと誘ってくれていたので、僕たちは三人一緒に練習することにした。
「いい? 足をこうやって思いっきり蹴って、お腹を鉄棒にくっつけるの、あとは足を真上に上げたら勝手に回るよ」
「怖がっちゃダメだよ、腕が伸びたままでもダメ、手の向きと幅はこうね」
理香はそう言って何度も逆上がりを実演してくれた。
しばらく理香は僕たちの練習に付き合ってくれたが、弟との約束を思い出したと言って先に帰っていった。
僕と聡子は、せっかく理香が一生懸命教えてくれたのだから頑張ってやってみよう、と練習を続けた。
僕は何度か練習していくうちに、不意に、本当に不意にクルリと回って逆上がりが出来た。
不思議なもので、一度出来るようになると今までなぜ出来なかったのかが分からないほど、簡単に逆上がりが出来るようになった。
イマイチ運動能力に自信がなかった僕は、それが本当に自分に起こった出来事なのか何度も確かめるように鉄棒を回った。
出来るようになったことに加えて、鉄棒の上で少し高くなった自分の目線の先の景色が普段と違って見える新鮮さを味わっていた。
しばらく鉄棒の上から周りを見回していると、ビルの上に樹が生えているという奇妙な光景が目に入った。
今まで僕の身長の目線では手前にある建物に隠れて見えなかったのであろうか、鉄棒の上からだとビル群の上に突然現れるその奇妙な樹がハッキリと見えたのだ。
「サトコちゃん、ビルの屋上に樹が生えてるよ!」
「えっ?」
「変なの、ビルなのに樹があるなんて変なの」
「どこ? わたしも見たいッ」
聡子はピョンピョンと飛び跳ねてみたものの、僕と変わらない背丈の目線からではそれが見えないようだった。
「サトコちゃんも逆上がりが出来たら、見えると思うよ」
僕は鉄棒から降りて、聡子の逆上がりの練習に付き合った。
自分が出来るようになると、なんとなくそのメカニズムのようなものが分かるようになってきて、聡子にアドバイスを送った。
聡子は疲れてきたようだったが、僕の言う奇妙な樹を見たいという一心で何度も練習した。
だんだんと足が上がらなくなってきたので、僕は聡子の踏切の足の位置に背を向けて体育座りをした。
「サトコちゃん、ボクの背中に足を乗せて蹴り上げてみて」
「でも背中が汚れちゃうよ?」
「いいよ、大丈夫だからさ」
聡子は恐々と僕の背中に足を乗せてから、勢いよく足を蹴り上げた。そして、クルリと回って見事に逆上がりが出来た。
「出来た、出来たよッ」
「やったね、サトコちゃん」
「ホントだぁ、ビルの上に樹が生えてる!」
「ね、本当だったでしょ!」
「あれ? あの樹って、ビルの屋上に生えてるんじゃないのかも」
「えっ、そうなの?」
「あの樹って大鳥居にある大きな樹じゃない?」
そう言われてみれば、確かにあの方角には大鳥居の神社がある。
僕もそこにある大きな樹の存在は知っていたし、よく遊んでもいた。
両手を広げた大人数人分以上の太さがあることは理解していたが、まさか高さがビルよりも高いなんて思いもしなかった。
「あの樹ってあんなに背が高いんだ!」
「ね、ね、あの大きな樹の下に穴が開いてるの知ってる?」
「うん、知ってるよ。懐中電灯で中を覗いたこともあるよ」
「うんと昔にね、お参りの帰りにお姫様が鬼に追いかけられたんだって。それであの大きな樹まで逃げてきて、穴の中に隠れちゃったの。でも追いかけてきた鬼が穴の中を覗いても誰も居ないの。それなのに穴の中にいたお姫様からは外にいる鬼が見えたんだって。だから鬼が居なくなるまでじっと隠れてて助かったって話を聞いたよ」
「へぇぇ、不思議なお話だねぇ」
「ね、不思議だね」
僕と聡子は、鉄棒の上から見える奇妙な景色を顔を見合わせてはしばらく眺めていた。
そのあと、いつものように手を繋ぎ、ふたり並んで下校した。
僕と聡子は逆上がりができるようになったことが、今でも信じられないような気持ちだった。
「リカちゃんのおかげで逆上がりができるようになったから、明日お礼を言わないとね」
聡子は、僕のおかげでもある、と付け加えて同意した。
「リカって本当にすごいよね、勉強も運動もできるから、わたし憧れてるんだ」
「憧れてる?」
「うん、いつもリカみたいになれたらいいな、って思ってるの」
「そっか、僕もリカちゃんはいつもカッコいいなって思ってるよ」
夕日に目を細めながら、ふたり手を繋いで歩いていた。
僕と聡子の家路の分かれ道で、聡子は繋いでいたその右手から僕の左手を放し、さっきまで僕と繋いでいた右の手のひらをこちらに向けて、大きく手を振ってさよならを言った。




