第一章 健児……その4
小学五年生でのクラス替えで健児と初めて同じクラスになった。
僕たちはようやく同じクラスになれたことを互いに喜んだ。
そして、健児と同じ教室で過ごすようになった僕は、彼の学校での様子を知った。
いつも自席で一人静かに座り、大抵はノートに絵を描いたり本を読んだりしている。
伝達などの用があるとき以外に自らクラスメイトに話し掛けることはなく、また、話し掛けられても拒絶するような態度をとるため誰も彼に近づこうとはしなかった。
違うクラスだった頃の僕のように、休み時間の教室に健児を訪ねてくる友人もなかった。
今日までの付き合いで薄々感づいてはいたのだが、これまでのクラスメイトに僕と同じような付き合いをしている友達はいなかったんだろうか?
僕に対しても、三年生のクラス替えの時は同じクラスになれなかったことをあんなに残念がり、今回やっと同じクラスになって喜んだはずなのに、教室で僕から健児に声を掛けることはあっても、なぜだか健児から僕への接触は皆無だった。
もしかすると、僕といつも一緒にいるグループとの絡みを避けているのかもしれなかった。
誰かにいじめられているといったわけでもなく、ただただ教室でポツンと一人静かに過ごしていた。
僕にはそれが寂しそうに見えなくもなかったが、健児は昔から人との交わりを意図的に避けているようなところがあったので、僕は学校では過度に接触するのを控えるようになった。
五年生一学期の終業式の後、夏休みの宿題にある自由研究は地元の寺社仏閣を巡ってレポートにしないか、と健児は僕を誘った。
もちろん断る理由などないので同意したのだが、他に誰か誘うのかと聞いたところ、二人だけでやりたいのだ、と言った。
健児からの誘いなので僕はそれで構わなかったのだが、いつも他者との交流を避けるのはどうしてなのかと不思議に思った。
どこへ行くのかを相談するため、その夜いつもの銭湯で落ち合った。
僕たちの街には数多くの寺社仏閣があるため絞り込まないとキリがなかったが、健児は候補地とそのルートを書いたお手製のしおりを持参してきた。
綿密に書き込まれたそのしおりには、地元ながら存在を初めて知ったところも書かれてあって興味深いものだった。
少年野球の練習のない日を選んで、僕たちはレポートづくりの予定を組んだ。
その日は朝からよく晴れていて、健児はおじさんに借りたカメラを首からさげて僕を誘いに来た。
僕らは先ず、小学校が背にしている山の上にあるお寺に向かった。
健児のしおりには、そのお寺は僕たちが暮らすこの街ができるより前に建てられていたという歴史が書かれてあった。
「僕、このお寺の前を通るたびにきれいだなって見てたんだけど、いつも外から見るばかりで中に入ったことはないんだよ」
「そうなんだ? この仁王門は美しいだけじゃなくて仁王像の迫力がすごいんだ」
さっそく健児は持参したカメラのファインダーを覗きこみ、朱に塗られた大きな柱と白壁、そして阿形吽形の仁王像、屋根を飾る美しい鬼飾りや屋根瓦の写真を撮っていった。
「このお寺には滝があるんだよ」
十分な下調べを済ませていたであろう健児の後について仁王門をくぐり、境内を横目に石造りの階段を上ると確かに滝があった。
その滝は山の中でドドドドッと滝つぼに流れ落ちているような典型的なものではなく、五メートルほどの高さの岩壁にある龍神を祀った御堂から庇のように突き出した筧と呼ばれる石造りの樋を伝って、細い糸のように石切りの人工池に水が落ちていた。
この滝の水はご利益があるとのことで、飲んでも構わないという。
備えられていた柄の長い柄杓を滝の水に差し出すと、見た目と違ってなかなかの水圧だった。
僕と健児はお互いに向き合って柄杓を両手で持ち、二人掛かりで滝の水を汲んで飲んだ。
滝の水は驚くほど冷たく、間違いなくこれまで飲んだ水の中で一番のおいしさだった。
真夏の日差し、そよ風に揺れる樹々、滝の清涼、なるほど聖域にふさわしい空間だと子供ながらに感じた。
本堂でパンフレットをもらい何枚か写真を撮った後、次なる目的地、秘仏の観音像があるというお寺へと向かった。
山の上にあった先ほどのお寺とは違い、このお寺は町中にあった。
お寺の周囲を石壁と鉄柵で囲ってあり、石の門柱には初めて見る字体の文字が彫ってあった。
正門から中へ入ったところに2mほどの観音立像があり、その横に不思議な石柱があった。
石柱は高さ150cmほどで、上のほうが縦型にくりぬかれていた。
その中に円盤状の石が縦にはめ込まれており、円盤の側面をクルクルと縦方向に回せるようになっているのだ。
「願い事をしながら三回手前に回すんだって」
そう言って健児は、円盤の側面に書かれている金色の文字を正面に合わせてから、石の円盤をクルクルと三回転させてニコリと笑った。
僕も同じように金文字を合わせてお願い事をしながらクルクルと三回転させた後、秘仏の観音像はどこにあるのかと健児に聞いた。
その観音様は十二年に一度、辰年にしか見れないのだ、と健児は答えた。
寺務所で拝観料を払い夏休みの自由研究だと告げると、お寺の人が親切にも僕らをガイドしてくれた。
パンフレットを片手に弁天様や不動尊、地蔵尊、病のある個所をなでるとご利益があるという寝牛の像などを巡っていると、偶然にもご住職にお会いすることが出来た。
健児はご住職に、秘仏の観音像の御開帳が待ちきれないのです、と言った。
まるでお目当ての芸能人の登場が待ちきれないファンのごとく、それはそれは熱心に伝えた。
終始ニコニコと健児の熱弁を聞いていた恵比須顔のご住職は、観音様御開帳の折には是非いらっしゃい、と声を掛けてくれた。
お寺を後にして、僕たちは大きな鳥居のある神社へ向かった。
この神社の鳥居は鉄筋コンクリート製で表面をモルタルで仕上げられてあり、高さが20m以上、幅が15m以上もあるとても大きなもので、地元の人たちから大鳥居と呼ばれ親しまれていた。
境内には大鳥居よりも高くそびえ立つ大きな御神木があり、夏に催されるお祭りではその樹を中心に境内や参道を埋め尽くす屋台を僕たちは毎年楽しみにしていた。
その大きな樹の下で、僕たちはお弁当を食べることにした。
「いつ見てもおっきな樹だよねぇ、ビルよりも高いもんね。この樹って何ていう樹なんだろうね?」
「クスノキかタブノキ? なんだろう? わからないな」
「健児でも分からないことがあるんだ」
「そりゃそうだよ、僕にはわからないことだらけなんだよ?」
少し笑った健児は、この大きな樹の周りを歩測し始めた。
この大きな樹は、両手を広げた大人数人分以上の太さがあった。
「この大きさになるのに何年くらい掛かるんだろうね?」
「何百年とかじゃないかなぁ」
「寿命はどれくらいなんだろうね?」
「どうだろうねぇ、やっぱり何百年とか千年とか? この樹はさ、はっきりとはしないんだけど神社が建つ前からここに生えてたらしいんだ」
樹の周囲をゆっくりと回ってきた健児は、少なくとも10メートルはあるだろう、と言った。
「今日は予定に入れてないけど、この神社の横手にある階段をずっと上っていった所に志士たちが眠っているお墓があるんだよ」
「しし、って?」
「志士ってのは命懸けで世の中を変えようとした人たちのことだよ」
健児は小枝を拾い上げると砂地に『志士』と書いた。
「ふーん、こころざしの人って書くのか」
「百何十年か前、この樹の下で志士たちは誓い合ったんだって」
「なにを誓い合ったの?」
「……、知らない」
素っ気なくそう言ったあと、だから僕は何でも知ってるわけじゃないよ、と健児は笑った。
遥か昔からこの場所に在って、これからもこの場所に在り続けるであろうこの大きな樹を見上げていると、僕は不思議とどうして志士たちがここを誓いの場に選んだのか分かるような気がしてきた。
「僕たちも志士たちのようにここで何か誓おうよ」
急に何を言い出すのかとこちらを見た健児は、意外と真剣な僕の表情を見て少し驚いた顔をした。
僕が幕末の志士という存在を正確に知るにはあと数年を要したわけだが、志士という字面をなんとなく捉えて、夢を実現するために頑張る人のことだと思ってそう言った。
「何を誓おうか?」
同意した健児と僕は考えた。
「君の夢はプロ野球選手になることでしょ?」
そう聞いてきた健児に黙って頷くと、健児は自分の夢は仏師になることだと言った。
「いつか僕は大きくて立派な観音像を彫ってみたいんだ」
「健児ならすぐにでも出来そうだけどね」
「まさか、そんな簡単にはできないよ」
少し笑ってそう答えた健児は、プロ野球選手だってそう簡単にはなれないでしょ? と続けた。
「親父のような職人もそうだけど、どんなことでも命懸けでやらないとプロにはなれないと思うよ」
「志士のように?」
「そうだね」
互いに見合って僕たちは自然と手を取り合った。
「じゃぁ、僕はプロ野球選手で健児は仏師になる、この樹の下で誓おう」
道は違えど互いの夢に向かって一生懸命頑張ることを誓い合った。
境内に響き渡る蝉の声、石畳から立ち昇る陽炎の揺らめき、樹齢何百年の大きな樹、どこまでも青く澄んだ空と不思議な同級生との誓い、僕はこの瞬間を鮮明に記憶することとなった。
昼食を済ませた僕たちは山をまた少し登って、健児が今日のメインイベントだとしていた五重塔に着いた。
「一説によると、この五重塔は聖徳太子が建てたそうだよ」
健児は事前に調べていたであろう五重塔のあらましを僕に説明すると、この五重塔は中を上れるんだよ、と言って拝観希望だと受付に行った。
なんでも全国的に有名な塔らしいが、地元では当たり前すぎて意識することもなかったので、由来だとか中に入れるだとか僕は全く知らなかった。
山の中腹にあるこの塔から街を眺めるとどんな景色なんだろうな、と僕は心を躍らせながら五重塔を見上げていると、受付のほうからいつもより大きめの健児の声が聞こえた。
「どうしてもダメなんですか? そうですか、わかりました……」
健児は落胆した表情で戻ってくると、階段が危険なので拝観は中学生以上でないとダメなんだそうだ、と僕に言った。
調べが足りず迂闊だった、ゴメン、と僕に詫びたその顔は暗かった。
がっかりした僕たちの様子を見かねた受付の人から、塔の中から見える街の風景写真を撮ってきてあげる、との申し出があった。
健児はお礼を言うとカメラを渡し、少し笑顔を見せた。
戻ってきた受付の人からカメラとパンフレットを受け取ると、丁寧にお辞儀をし、中学生になったらまた来ます、と僕たちはお礼を言った。
そのあと、しおりに書かれた残りの寺社仏閣を回り、一度それぞれの家に帰ってから銭湯で落ち合うことにした。
真夏に一日中歩いた汗を銭湯で流しながら、僕たちは今日の出来事の感想をお互いに言い合った。
健児は五重塔に上れなかったことが心底残念だったようで、塔から街を眺めるとどんな景色が見えるんだろうとずっと楽しみにしていたのだ、と言った
僕も同じようなことを考えていたのだ、と健児に言うと、彼は今日一番の笑顔を見せた。
何かを共有できた時の喜びの表情を見せた健児に、僕は思い切って前々から気になっていたことを聞いてみた。
「あのさ……、健児はずっと教室でさ、一人で……、その……、いつも一人で過ごしているけど、その……、寂しくは、ないの?」
「寂しい?」
「うん……、今までもあまり人と関わろうとしなかったでしょ? 僕にも学校ではあまり……、話しかけてこないしさ」
「学校でほかの誰かと一緒にいる君と、こうして銭湯で僕と会ってる時の君は同じ君だけど同じじゃないからね。人ってその場に居る人によって共通の話題とか行動とか、そういうのが次々と変化するだろ? この子がいるときはこの話題、あの子といるときはこの遊びって、なんだろ? 場とか輪とか雰囲気とか? そういうのを考えたり、誰かに合わせて人付き合いする気はないんだよ」
分かるような分からないような、なんとも不思議な返答だった。
僕と健児、そこに他の誰かが加わると、加わった人との共通点を考えて話したり遊んだりするのが面倒、ということなのだろうか?
これまでを振り返ってみると、確かにそう解釈すれば合点のいくことも多かった。
「あとね、一人でいるのが寂しい、ってどうしてそう思うの? 僕は僕一人の時間を大事にしているし、誰かに気を使って一緒に過ごすよりは、一人で好きなコトをしているほうが楽しいよ?」
そう言った健児からは、自分の存在が他者にどう見られているとかには関心がなく、他人には迎合しない、自分のスタイルを貫く、といった類の強さを感じた。
「健児がそれでいいならいいんだ、変なこと聞いてごめんね」
「いや、いいよ。それよりレポートはいつ作る? 写真の現像が三日後だから……」
健児は僕の不躾な質問に気を悪くしたのかもしれないが、いつもの柔和な表情を見せてくれた。
その数日後、現像した写真が出来た、と連絡をくれた健児のアパートへ出向いた。
焼き増ししてあるから持って帰っていいよ、と中に入れなかった五重塔の中から街を写した写真をもらった。
僕たちは切り抜きしたパンフレットと現像した写真をB3の用紙数枚に貼って、自由研究のレポートを仕上げた。
このレポートは児童や先生からの評価も高く、長く職員室前の廊下に貼り出されることとなった。
その功績のほとんどは健児が担ったものであったが、僕との共同作業だからこそ出来たのだ、と彼は言ってくれた。
五年生、六年生となるにつれ健児を含めた同級生たちは年相応に成長していったが、僕はといえば平均身長から10cm以上足りず、体重も少しずつしか増えていかなかった。
それでも三年間、休むことなく少年野球の練習に参加し、コツコツ続けていた自主練習も成果があったのか、同学年の選手相手なら体の大きさは敵わないが大きく水をあけられることはなくなっていた。
定期的に試合をしていた近隣チームの野球少年たちとも顔なじみになった。
彼らとは進学予定の中学校が同じで、中学で同じチームになれることが大きな楽しみとなっていた。
みんなより少し遅いけど、身長が伸びて身体が大きくなりさえすれば憧れのプロ野球選手になれるかもしれないんだと、僕は少年野球を思いっきりやり切って小学校を卒業した。




