第二章 理香……その5
四年生の秋の運動会、理香は昨年同様に全学年男女混合の紅白対抗リレーに出場した。
理香は速かったことは速かったが、それまでの、自分自身を解き放つようなストライド走法では走らなかった。
去年の学芸会で理香が傷ついたのは分かる、でもどうして全力で走らなくなってしまったのか、までは分からなかった。
その年の暮れ、公園でバットを持ち、一人で素振りをしていた僕は、弟と一緒にブランコにいる理香を見つけた。
「理香ちゃん、今日は弟君と一緒なんだね」
「うん。アンタは野球の練習?」
弟君が僕にバットを貸してくれ、というので貸してやった。
僕と理香はブランコのそばのベンチに座って、弟君の素振りを見ていた。
すると理香は思い出したように一旦立って、僕と並ぶのを避けるようにベンチの端に座り直した。
僕はそのことについては、何も言わなかった。
「弟君、僕より上手そうだね」
「そんなことないでしょ」
「弟君、小学二年なのに、もう僕より背が高いね」
「そうかな?」
理香が僕に気を使ったのが分かった。
「理香ちゃん、あの走り方やめちゃったの?」
「あの走り方って?」
「お母さんみたいに、ぴょーん、ぴょーん、って跳ねるように走るやつ」
「あぁ、あれね……うん……疲れちゃうから……それに……」
「それに?」
「なぁんか、女の子っぽくないかなぁって」
僕には理香の言わんとしていることが何となくは分かったような気がしたが、男の子っぽいとか女の子っぽいという、枠というかレッテルのような定義がイマイチ理解できないでいた。
「女の子は女の子らしくないとダメなの?」
「ダメって言うか、アタシだって女の子だし、やっぱり聡子みたいに女の子らしくなりたいよ」
「理香ちゃんはリカちゃんなんだから、理香ちゃんらしくじゃだめなのかな?」
僕の説明もたいがい下手だったが、理香には僕の言わんとしていることが理解できなかったようだ。
「アンタだって、男らしくなろうとして身長のこと気にしてるんじゃないの?」
「僕はただ、早く大きくなりたいな、って思ってるだけだよ」
弟君が、疲れた、と言ってバットを返してきた。
「大きくなったっていいことなんかないよ。お洋服だって、聡子がいつも着ているような可愛い服はないし」
「でも、理香ちゃんは理香ちゃんなんだし、カッコいい理香ちゃんになればいいんじゃないの?」
「アンタはまだ望みがあるからいいじゃない、これから大きくなれるでしょ? でもアタシはもう小さくなれないからね」
理香は、弟君にバットを貸してやった礼を僕に言って、弟と二人で帰っていった。
小学校へは私服で通っていて、たしかに理香は少し年上、いや大人の女性が着てもおかしくないような洋服を着ていた。
同年代の女の子が着るようなデザインの洋服には、合うサイズがもうないのだろう。
理香のお母さんは小柄なほうで、小学二年の夏くらいで理香はお母さんの身長を追い越していた。
もしかすると、理香は男の子は大きいもので、女の子は小さいものだと、自分の両親を見て無意識に思い込んでいるのかもしれない。
いつも一緒にいる聡子に、理想の女の子像を重ねているようだった。
その聡子は、五年生のクラス替えで理香と僕とは別のクラスになった。
五年生の一学期の終わり頃、夏休みから僕の所属する少年野球チームに弟が入団するからよろしくね、と理香が言った。
男子と話すときには、女子と話すとき以上に距離を空けてしまう理香は、やっぱり僕のそばまで寄らずに話しかけてきた。
会話をするには少し遠い間合いのまま、それでも僕は距離を詰めずに、弟君の好きな選手は誰なの? なんて話をした。
野球のことをほとんど知らない理香は、理香のお父さんに似た外国人選手がいたんだよとか、僕の話の半分も理解できてないようだったがずっと笑って聞いてくれた。
夏のある夕方、公園で野球の自主練習をしていた僕は、誰かが呼ぶ声に振りむいた。
声の主は、入団後すっかり僕に懐いてくれた理香の弟だった。
横には長身のお父さん、小柄なお母さん、そして色鮮やかなピンクの帯を締め、白地に色とりどりのかわいらしい朝顔が染め抜かれた浴衣を着た理香がいた。
明日の試合のことで頭がいっぱいだった僕は、今日がお祭りだったことをすっかり忘れていた。
理香の両親に、いつも弟君の面倒を見てくれてありがとう、とお礼を言われ、よかったら一緒にお祭りに行かないか、と誘われた。
一緒にいこうッ、とすっかりテンションの上がった弟君に引っ張られ、自宅へ立ち寄って着替えてから理香の家族とお祭りを回った。
お祭りのある大鳥居の神社の参道は無数の電飾で明るく照らされ、その中を家族と楽しげに歩く理香は、浴衣を着ているからか少し大人っぽく見えたが、ピンと伸ばした背筋は昔の理香を思い起こさせた。
胸を張り、終始笑顔で家族と歩く理香の姿を見て、これこそが理香ちゃんだよなぁ、と僕はうれしくなった。
両親と金魚すくいをしている弟君たちと離れて、僕たちは大きな樹を背にしてリンゴ飴を食べながらおしゃべりをした。
弟君はすごく上達が早いよとか、僕はプロ野球選手になりたいんだとか、相変わらず野球の話しかしないのに、理香はずっと笑って聞いてくれていた。
おしゃべりをしながら参道に目をやると、僕たちに気付いた同級生たちが遠巻きにこちらを指さして何やら話しているのが見えた。
すると理香が、女子と一緒にいる所を見られて男子に何か言われたら嫌なんじゃないか、と聞いた。
「僕は男の子とか女の子とか、そういうのよく分からないから気にしないよ? 理香ちゃんは、そういうの気にするの?」
「アタシは……、ちょっと恥ずかしい……、かな?」
「じゃぁ、この穴に入って隠れてみる?」
僕は大きな木の根元にポッカリと開いている穴を指さした。
「え? この穴に?」
「この穴に入ると外から中は見えなくなるけど、中からは外の様子が見えるんだって」
ふたりで穴の中を覗き込んでみた。
「昔さ、鬼に追いかけられたお姫様がこの穴に隠れて助かったんだって」
お祭りの電飾が大きな樹を照らしているが、穴は真っ暗で中は見えなかった。
穴の中の暗闇を見つめている最中に、理香は突然こう切り出した。
「この樹の下に幽霊が出るの知ってる?」
「えっ? 幽霊?」
「お父さんに聞いたんだけどね、昔、どれくらい昔かは分からないけど、この樹の下で恋人同士が自殺したんだって。でも男の人だけが死ななかったの。それから男の人は死んだ恋人のことが忘れられなくて、毎晩この樹の下で泣いていたの。そしたらすごくキレイな着物を着た恋人の幽霊が出てきたんだって。男の人はうれしくて毎日この樹の下まで会いに来たの。不思議なことにね、女の人の着物の柄が毎晩違ったんだって。で、この樹の下で幽霊になった恋人とひと月ほど会ってたんだけど、急に今日でお別れですって女の人が言ってそれっきり会えなくなっちゃったんだって。男の人はとっても悲しんだんだけど、幽霊が着ていたキレイな着物の柄と同じ着物を染めだしたんだって。その着物はものすごく評判が良くてね、幽霊染めって呼ばれて大流行したんだって。」
「へぇぇ、幽霊は怖いけど、この幽霊は怖くないのかな? なんか可哀そうだね」
今晩の理香はお祭りのせいか、僕と並んで立つことを避ける様子はなく、昔のように二人でおしゃべりが出来ることがうれしくなって、それからもいろんな話をした。
「理香ちゃんのお父さんって背が高くてカッコいいけどさ、外国の人なの?」
と、全くデリカシーのないことまで尋ねた。
「アハハッ、よく間違われるらしいけど、お父さんは純日本人だよ」
理香が笑ってそう答えたあと、僕はつい調子に乗ってデリケートな部分に触れてしまった。
「今日の理香ちゃんは背筋がピーンと伸びててさ、浴衣も似合ってるし、スラーっと背が高くて、やっぱりカッコいいね」
途端、理香の顔から笑顔が消えてしまった。
さすがに鈍感な僕でも理香のコンプレックスには気づいていた。
彼女の身長のことに触れた僕の言葉に悪気があったわけでも、からかったわけでもないことは理香も分かっていたようだが、うつむいたまま僕を残し、小走りで人ごみの中へ消えていってしまった。
その後も理香の身長は、本人が望むと望まざるとに拘らず日々伸びていった。




