(8)ホイスト降下②
一定高度まで上昇したヘリコプターは、会場であるアシュトン・ゲート・スタジアムへ向けて飛行を開始した。車で15分ていどの距離ゆえ、ヘリならばほんの1~2分だ。雲が敷きつめる冬の夜空をぬけ、ヘリはじきにスタジアム上空にさしかかった。その時だった。
「待て!」
ホイスト装置から出ているワイヤーロープを眺めていた、キーアンが鋭く叫んだ。
「キーアン?」
ステージメイクと衣装を纏い、普段よりいっそう華やかなパットが振り向くと、厳しい表情でキーアンがロープを指さした。
「このロープ…ここを見てみろ。妙な切り込みが入っている!おまえの体重がかかれば、こいつは途中で切れるぞ?」
キーアンの指摘に、ヘルメットを着けたホイストマンが、慌ててロープを覗きこんだ。
「ああ!?こ、この断面は、ワイヤーロープカッターだ!…ばかな!今日の点検作業時も、整備時も、異常なかったんですよ!?」
「明らかに故意だな。誰の仕業か……いや。それより今は、パットの降下をどうするかだ」
キーアンが思いきり眉根を寄せたところへ、操縦席のパイロットから声がかかった。
「スタジアム上空20メートルです。ホバリング(※)に入ります」
「ま、待ってください!このまま降ろすわけには…!」
うろたえたホイストマンは、キーアンとパットの顔を交互に見やった。すると、考えこんでいたキーアンが顔を上げ、すぐ隣に立っているパットを振り返った。
「パット」
「うん?」
全身に華やかさをまとった“王”は、ほんの少し緊張を見せて、赤茶の髪の青年を見つめ返した。
「おまえ、俺を信じられるか?」
「どういう意味?」
「空中浮揚を覚えているか?」
「もちろん。あんなの、忘れられないよ!」
「よし。なら、このまま降りろ。おまえの体重がかかれば、このロープは切れる。そうならないよう、俺の物理的能力でおまえの身体を浮揚させる!おまえは、ただロープを握りしめていればいい。この際ロープなんか無くてもいいが、それでは観客の目に不自然に映る。だからロープは放すな。どんなことがあっても、俺が必ず無事に、誰の目にも自然な形で地上に降ろしてやる」
オーロラの瞳に強固な決意をみせてそう言うと、沈黙が流れた。
ホイスト降下は、災害時などでは最大50メートル上空から行われることもある。そう考えると、20メートルという数字は少ない方ではある。だが、それでも20メートルだ。ロープが切れると判っていながら、はい降りますと即答できる人間はいないだろう。
「怖いか?」
キーアンがパットのコバルトブルーの瞳を覗きこむと、彼はわずかに瞳を伏せた。
「…うん。ちょっとね」
正直にうなずいたパットは、だが直後に破顔した。
「でも、降りるよ!————君とは知り合ってまだ間がないけど、イブの夜でさえ任務にこだわるような君の責任感と人柄は、俺も理解したつもりだよ。そういう君がこんな場面で、確信もないのにむやみなことを言うはずがない。だから降りる。君を信じるよ!」
“王”の言葉を聞いたキーアンは、唇の両端を持ち上げただけの、だが春の陽ざしが花を包み込むような、やさしい笑みを浮かべた。そしてポン、と“王”の肩をひとつ叩くと、ホイストマンに告げた。
「予定通りだ。装置の操作を頼む」
「で、でも……」
「後戻りはできない。3万超えの観衆が、パット・ベイリーを待っているんだ。大丈夫、必ず無事に着地させる」
ハッチが開かれ、パットの獅子のように豪華な髪も、馬のしっぽのように束ねたキーアンの髪も、暗い上空の風に大きく煽られる。ステップに足をかけたパットは、後ろむきの体勢で身体をヘリの外へせり出した。
月も星もない暗い夜空でヘリが停止すると、会場のスポットライトがその姿を映し出した。とたんに3万人を超える観衆から、大きなどよめきが湧きおこった。ステージ上のアシュリーたちによる、オープニング楽曲のイントロ演奏がかすかに聴こえてくる中、ホイスト装置の操作が始まる。ワイヤーロープが少しずつ繰り出され、それに伴い降下の準備体勢にあるパットの身体が、空中に押し出される。その様子を、ステップ前に片膝を立ててしゃがみこんだキーアンのオーロラの瞳が、まばたきもせず見つめている。上空の風に煽られながら、少しずつ、少しずつ降ろされていくパットの身体。ギリギリと軋みながら、徐々に切り込みを深めていくワイヤーロープ。そうしてヘリから伸びたロープ上で、パットの身体が完全に降下体勢になった時、あらかじめ“気”を絞っていたキーアンは、集中を最大ボルテージまで高めた。
傍目にはまったく判らなかったが、パットにだけはその瞬間が判った。身体が空中浮揚独特のふわりとした感覚に包まれ、同時にロープを握りしめている両手の負担が、嘘のように消えたからだ。パットの体重から解放されたロープは軋むのをやめ、彼の身体はキーアンの能力によって空中に浮かんでいる状態になった。しかし空中に垂れ下がっているだけのロープを、パットはしっかりと握っている。ロープが更に少しずつ繰り出され、それに従いパットの身体も降下する。
スタジアムが近づく。しだいに大きくなっていく演奏音と歓声。夜の闇に横たわるサッカーフィールドも、どんどん近づいてくる。その闇の中に設けられたステージのまばゆい光もまた、大きくなっていく。……そうしてライブ用にアレンジされた、長いイントロ演奏が終わりに近づいた時、パットの両足は光の洪水になっているステージフロアを、しっかりと踏みしめた。
“王”の登場に、スタジアムは轟くような大歓声に包まれた。くるくると色が変わる七色のスポットライトの中で、素早くレスキューベストとハーネスを脱ぎ捨てたパットは、軽やかな足取りと身振りでステージの真ん中へ踊り出た。
♬ It’s not too late, It’s not too late if you want it for real……♬
今しがたまでの緊迫を微塵も感じさせず、彼がいつものように身体じゅうでリズムを取りながら大ヒット曲を歌い始めると、そのちょっぴり甘いハスキーな歌声に、観衆はいとも簡単に呑みこまれていった。
「本当にありがとうございました、キーアンさん。あなたがいなかったら、今日はライブどころか、我々はパットを失っていた。お礼の申し上げようもありません」
終演後、楽屋でコーエンは、そう言って砂色の頭を深々と下げた。事情を聞かされていなかったアシュリーやジェイクらは、愕然としたのち口々にキーアンに言った。
「そんなことになっていたなんて、想像すらしなかった。今夜のライブが無事に終わったのは、ひとえに君のおかげだ、キーアン。何よりパットを救ってくれて、心から感謝する!」
バンドのリーダーであり、パットと最もつきあいが長いアシュリーは、そう言ってキーアンの右手を両手で包みこみ、固く握りしめた。
「あれ、空中浮揚っての?ぜんぜん気づかなかったぜ。フツーにロープで降りてきただけだと思ってた……本当にありがとな、キーアン!」
ジェイクもそう言って、背後からキーアンをハグして感謝を述べた。ハグした彼の手も身体も、仲間を失う恐怖を思ったからなのか、小刻みに震えていた。
「俺からも礼を言わせてもらうよ、キーアン。しかし、そんな緊迫した状況で、よくそんな対応を思いついたな。君の機転には舌を巻くよ!」
キラキラの金髪に舞台用のラメをまぶし、普段より一層キラキラしているロジャーも目を丸くし、感服したという表情だ。しかしカイルは、タトゥーを入れた筋肉たっぷりの右腕で、悔しそうに楽屋の壁を殴った。
「……畜生!どこのどいつの仕業か————ライブの邪魔だけならまだしも、パットの生命まで奪おうとしやがるなんて、断じて許せねえ!」
メンバーがそれぞれの驚きと、感謝と、思いを口にする中、ひときわ篤い感謝を述べたのは、もちろんパットだ。
「キーアン。君がいてくれて、本当によかった……あの時降りろと言ったのが君じゃなかったら、俺、とても降りられなかった。君の言葉だったから、うなずくことができたんだよ」
美しいコバルトブルーの瞳を、パットはそう言ってうるませた。
「気にするな。俺は、そのために派遣されたんだから。それよりあの土壇場で、よく腹をくくれたな。………世界を魅了する“パット・ベイリー”は、やっぱり半端じゃなかったな。本物だ。尊敬するよ。本当によくやった、パット」
オーロラの瞳を細めてキーアンが笑いかけると、張りつめていたパットの緊張が緩んだのだろう。涙腺が一気に崩壊した。
「い…意地悪だな、キーアン。こんな時に、そんなやさしい言葉をかけるなんて。お、俺…ひっく…昔から、な、泣き虫なのに」
パットがしゃくりあげると、キーアンは彼の豪華な金髪を、子供にするようにポンポンと叩いた。
「だが、弱虫じゃない。ロープが切れると判っていて、20メートルの高さから降りる決断ができる奴なんて、そうそういない。おまえは、とんでもない勇気を振り絞ったんだ。いくら泣いたっていいさ」
「うっ…うえ~~ん……キーアーン……お、男は泣くもんじゃないって言わないんだね。そういうところもローレンスとおんなじだよ……うわぁぁ~~ん…」
たまらなくなったパットは、キーアンの首にかじりついて泣き始めた。彼にハグを返してやりながら、キーアンはロープに切り込みを入れた犯人を思いかえし、心の中でギリッと唇を噛んだ。
その夜は、当然警察の事情聴取が行われた。ロンドン公演を明日に控えているバンドはひと足先にロンドンへ向かい、パット、コーエン、そして現場に居合わせたキーアンの3人が、空港のヘリポートで当該ヘリコプターを前に、聴取を受けた。
夜半近くにひととおり聴取が終わると、腕時計を覗きこみながらコーエンがパットとキーアンに言った。
「俺はこれから警察署へ行って、事件の事務手続きをしてくる。パット。おまえはキーアンさんと共に、タクシーで先にロンドンへ向かえ。向こうについたら午前3時を過ぎるだろうが、俺からイアンに連絡を入れておく。一刻も早くバンドと合流して、明日に備えるんだ。…キーアンさん、そういうわけです。パットの警護を、引き続きよろしく頼みます」
小柄な敏腕マネージャーが、黒髪のカツラとサングラスで変装したパットと、いつもの革ジャンを着込んだキーアンを交互に見上げて言うと、彼らはすぐにうなずいた。
「わかったよ、クリス。行こう、キーアン」
「ああ。コーエンさん、パットのことは心配しないでくれ。何があっても、俺がきっちり守る」
答えた2人は、もう人影がまばらになった空港の廊下を、速足で歩いて行った。
空港の地上階出口でタクシーに乗りこんだ2人は、ロンドンまで行ってくれと運転手に頼んだ。すると、でっぷり太った中年の運転手は、“本気か?”というような表情で、2人に念を押した。
「だんな方。ご承知でしょうが、ボクシングデーの今日は、終日料金倍額ですぜ?しかも行き先がロンドンとなると、走行距離280キロ以上。相当な金額になりやすが、持ち合わせの方は大丈夫ですかい?」
21世紀の現在ならば、タクシー料金もクレジットカードや電子マネーで支払い可能だが、そういった決済方法が無い当時である。クレジットカードは普及しつつあったが、百貨店や一部の限られた店舗、レストランでの使用が主であり、タクシーの支払いなどは、まだまだキャッシュオンリーだった。そんな時代ゆえ、踏み倒されないようにという懸念がある運転手は、目の前の若い男性客2人をじろじろ眺めまわした。
運転手の言葉を聞いたパットは、ラベンダー色のダウンジャケットの懐に手をつっこんだ。そして、イタリア製ハイブランドのロゴが入った真っ白な札入れを取り出すと、所持していた50ポンド札10枚を全部取り出し、後部座席から運転手に差し出した。
「なら、前金を払うよ。とりあえず500ポンドある。これで行ってもらえない?それでも足りなければ、到着後に小切手で払うよ」
「ご、500ポンド!!」
ブリストルからロンドンまで、タクシーなら2時間半ちょっと。通常料金で換算すると、21世紀の現在でも300ポンド以下。パットが乗車した1984年末ならば、倍額料金でもじゅうぶんな金額だっただろう。
とんでもない金額を差し出された運転手は目をむき、それでもそれを受け取ると、すぐさまアクセルを踏み込んだ。
「ずいぶんと大金を持ち歩いているんだな」
黒いタクシーが走り出すと、後部座席でパットと並んで座っているキーアンが呟いた。ボクシングデーという大きな祝日のため道路に車は少なく、タクシーはじきにオレンジ色の照明灯が並木のように立ちならぶ高速道路に乗った。
「前にも遠距離タクシーを必要としたことがあってね。だから、いつでも500くらいは用意してるんだ」
「なるほど」
キーアンが短く答えると、あとは沈黙が流れた。2人を乗せたタクシーは、高速道路上に掛かる“M4 LONDON”の青い標識をいくつも越えて、夜の中を東へ走り続けた。
「……訊いてもいいか?」
窓の外を飛んでいく照明灯の景色を眺めながら、不意にポツンとキーアンが尋ねた。
「何?」
反対側の窓を見つめていたパットが振り返ると、キーアンはオーロラの瞳だけを動かして、大人気ヴォーカリストを見やった。
「コーエンさんから聞いたんだが…おまえ、イアンを好いていないそうだな」
「…あ~、そのこと」
パットはフッと笑ったが、その口調はどこかつめたく突き放すようで、彼らしくない。
「仕事はちゃんとやってくれるし、トラブルがあったわけじゃないよ。ただ、アイツの臭い————エモノを狙う獣のようなニオイが、アイツにはある。俺はそれが嫌いなんだ。それに……」
「それに?」
言葉を止めたパットを、今度は首をまわしてキーアンがしっかり振り返る。すると”王”はサングラスを外した。その表情は、しかめ面もしかめ面。あからさまな嫌悪感が、はっきり見て取れる顔だった。
「クリスも知ってることだけど………アイツには黒い噂があるんだ」
「…噂?」
キーアンがさらに問い返すと、パットは彼のオーロラの瞳を覗きこむように、ごく間近に顔を寄せた。そして、車のエンジン音にまぎれそうなほどの小声で囁いた。
「————麻薬密売」
「!」
「噂だよ。でも……アイツがロンドン市内の路地やバーで、怪しげなブツをやり取りしているのを見かけたっていう話を、何度か耳にしたことがある。けど、証拠が無いから、何も言えない」
「………………」
吐き捨てるようなパットの言葉に、キーアンは黙ってうなずくしかなかった。洞察力に長けたパットがこうも嫌悪の色を示すからには、あながちただの噂ではないのかもしれない。だが、証拠が無いのではどうしようもない。今はそれよりも、ワイヤーロープに切り込みを入れた犯人をつきとめる方が先決だ。こちらは間違いなく事実なのだから。
(※)ヘリコプターが空中で停止すること