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(7)ホイスト降下①

 12月26日。この日はボクシングデーといい、イギリスではクリスマスデーとセットになっている祝日である。夜にブリストルでライブを控えているパットは、キーアンとともに朝早くにホテルをチェックアウトし、タクシーでまずカイルの実家へ立ち寄った。そこでカイルをピックアップし、3人は現地へ向かった。

 レディングからブリストルまでは、約120キロ。クリスマス休暇中で、人の移動が少ないこの日は渋滞もなく、タクシーは1時間ほどで現地に到着した。



 ブリストルは、ロンドンから約170キロ西方に位置する、エイボン川河口に近い港湾都市だ。ここから更に西へ70キロほど行くと、ウェールズの首都カーディフがある。

 街の歴史は古く、その港ゆえに10世紀ごろから交易で栄え、産業革命以前はロンドンに次ぐ大都市だった。現代でも製造業が盛んで、キーアンたちが乗った超音速旅客機コンコルドなども、この地の郊外で生産されたものだ。観光スポットとしてはブリストル大聖堂や、19世紀に世界初の大西洋横断に成功したSSグレートブリテン号などが有名である。


 キーアン、パット、カイルを乗せたタクシーは、市内を南西へ抜けると、今宵の会場である、アシュトン・ゲート・スタジアムに到着した。サッカーチーム、ブリストルFCと、ブリストル・ベアーズのホーム・スタジアムである。

 野外ステージ向きの季節ではないが、実はこれほどの大都市でありながら、ブリストル市内には多人数を収容できるアリーナなどが無い。そのため多くのミュージシャンやバンドが、ライブ開催を避ける地でもある。しかし世界的人気を誇るThe Gapのステージを望む声が大変多く、やむなくこうした選択になった。


 ドアにブリストル・ベアーズの、室内の壁にブリストルFCのポスターが貼られた楽屋に入ると、狭い室内にはマネージャーのコーエンはもちろん、アシスタント・マネージャーのイアン、そしてアシュリーやジェイク、ロジャーの姿も既にあった。彼らはスタッフに囲まれて、もう支度にかかっている。

「よっ、お三方!クリスマスはどうだった?」

赤い髪を担当のヘアメイクに逆立ててもらいながら、笑いかけたのはジェイクだ。

「家族と飯食った以外は、眠り倒した。これでもかっていうくらい、眠ったぜ」

そう言いながら鏡の前に座ったカイルは、なおもあくびをしている。

「あー、俺もそんな感じ!おかげで睡眠不足、だいぶ解消したよ」

久々に隈の無い、さっぱりした顔でパットが笑うと、コーエンがパンパンと手を叩いた。

「ほらほら、みんな支度を急いでくれ!リハまで、あと40分だ。ああ、パットは支度が済んだら、イアンとブリストル空港だからな!忘れるなよ。イアン、車は?」

「楽屋口にまわしてあります」

砂色の髪の敏腕マネージャーからてきぱきと下される指示に、室内は一気にせわしさを増した。この日は野外であるため、天井からワイヤーを吊るすことができない。そのため空中からパットが出現する演出は、上空にヘリコプターを停止させ、ホイスト降下でステージに着地————というふうに変更されていた。ホイスト降下とは、ヘリコプターに装備されている“ホイスト”という装置を使って行う、降下方法のひとつだ。ホイスト装置にはワイヤーロープが巻き付けられており、ロープ先端にはフックが付いている。降下する者は、このフックを自身が着けているカラビナ(※)にセットし、機外へ身体をせり出す。体勢が整ったところで、“ホイストマン”とよばれるホイスト装置を操作する係員がロープを繰り出していき、降下が開始されるという仕組みだ。



 バンドがリハーサルに入ったのを確認すると、キーアンは会場の見回りに出ようと、楽屋のドアを開けた。その時だった。雑用係の若い女性スタッフが、チームポスターがたくさん貼られている廊下を走ってきて、彼を呼び止めた。

「キーアンさん!受付に、緊急の国際電話が入っているそうです!」

息をはずませて女性が告げると、キーアンはすぐに受付へ走った。

 「————危険?パットが!?」

壁やキャビネットの側面にブリストル・ベアーズのポスターが貼られ、事務机にはチーム関係の書類や雑誌などが積み上げられた小さな受付ルームで電話をとると、マンハッタンのウォーレスからだった。

「ああ。今さっき予知班長のユーゼフから、朝イチで電話を受けてな。彼個人の予測なんだが、パットの身に危険を強く感じるそうだ。かなり切迫感があり、緊急性が高いと思われる。どうしても気になるから、一応君に連絡してほしいということだった。キーアン、何か心当たりはあるか?」

ウォーレスの言葉に、キーアンは考え込んだ。

「……連隊長。危険はバンドではなく、パット個人なんですね?だとすると、ひとつだけ思い当たります」


 電話を置いたキーアンは、とりあえず予定どおり、会場の見回りをすることにした。広いスタジアム内を回りながら、彼は考えた。



————予知班は本来、1個人の予測を外へ漏らすことはしない。むやみに予測を口にして、現場を不安や混乱に陥れないためだ。まず班メンバー24名の予測を聞き、それを取りまとめ、総合的に判断した上で、班長が連隊長に“班の見解”として報告するのが絶対ルールだ。だからこそ班の予測は、信頼性が高い。そのルールを無視して、あえてザヨンチョク班長が連絡してきたということは、予測に相当な確信と緊急性があるということだ。



「それほどの緊急性…つまり、今夜のライブってことだよな。……どうする?メンバーに伝えるか?…いや。いかにザヨンチョク班長とはいえ、1個人の予測だ。表だった騒ぎにはしたくない…!」

ひとしきり悩んだキーアンは、クリス・コーエンの元へ向かった。


 「…という連絡が入ったんだが、確証は何もない。だから、あんたにだけ伝えておく。パット個人の危険ということは、テロではなく、おそらく事故じゃないかと思う」

メンバーがリハーサルに入り、すっかり誰もいなくなった楽屋の片隅でコーエンをつかまえたキーアンが事の次第を告げると、The Gapをここまで育て上げた敏腕マネージャーは、血色の悪い顔の表情を少し硬くしただけ。慌てたり、うろたえたりは一切しなかった。

「同感です。しかし、ひと口に事故と言っても、いろいろ考えられる。舞台装置の落下や、ステージからの転落……何より今日のパットは、ヘリコプターからの降下がある。ステージも搭乗予定のヘリも、安全点検を徹底して再確認するよう、すぐ手配します。だが、空の上は限界がある。キーアンさん。すみませんが、今日はパットに張り付いて、彼専任の警護をお願いできませんか。われわれの手には余ることでも、あなたの物理的(サイコキ)能力(ネシス)なら対応できるかもしれない」

「それは構わないが、俺がヘリにも乗るのか?」

「ええ。ただ、ヘリは狭い。搭乗人数が限られるので、本番時はイアンと乗り替わってください。パットとイアンには、わたしの方からうまく話します」

「俺はいいが、しかしアシスタント・マネージャーが付いていないんじゃ、パットが不安にならないか?」

「いえ。パットはむしろ、気が楽になるはずだ。…実は、ここだけの話ですが、パットはイアンをあまり好いていません」

「ケンカでもしたのか?」

「いいえ。相性的なものです。イアンは、よくやってくれている。ただパットには好かないタイプのようで、彼を雇い入れた時から、“俺はあの男、いけ好かない”と言っています」

コーエンが説明すると、キーアンはなるほどとうなずき、わかったと答えた。



 リハーサルは無事に終わった。会場内にも不審物や不審者は見当たらず、この日もライブは通常開催となった。しかし、キーアンは気を引き締めた。ここまで何事もなかったということは、やはり本番中の事故の可能性が高いことに他ならないからだ。

 バンドが休憩に入り、メンバーが楽屋へ戻ってくると、コーエンはイアンとキーアンを呼んだ。そしてさっき事務所からの緊急連絡で、明日のロンドン公演の警備に手配不備があると伝えた。

「そういうわけで、イアン。すまんが大至急、ロンドンへ戻ってくれ。明日の警備こそ、万全でなければならん。ダイアナ皇太子妃がおみえになるライブで、万にひとつでも何事かが起きたら、俺とおまえの首を差し出すだけじゃ済まなくなる」

小柄なコーエンが、がっしりと大柄なイアンを見上げてそう言うと、パンク風の黒髪男は、唇のピアスの位置を直しつつ頷いた。

「わかりました。じゃ、すぐ出発します」

すると、イアンが楽屋を出て行くのを横目で見送りながら、アシュリーがコーエンに尋ねた。リハーサル直後のため、彼のピンクとグリーンのカーリーヘアは汗で湿りきっている。

「けど、クリス。ヘリの方はどうするんだよ?今イアンが行っちまったら、パットは1人でヘリに乗るってことか?それはいくら何でも……」

「ヘリには、代わりにキーアンさんに搭乗してもらう。パット、そういうことだ。イアンがいなくても、おまえがやることは何も変わらないから、不安がらずライブに集中してくれ」

「だいじょーぶ!同行するのがキーアンなら、むしろ安心しかないよ!」

私服のオレンジ色のTシャツをこれまた汗でびっしょりにしたパットは、嬉しそうににっこりと笑って答えた。





 本番開始1時間前。オープニング・アクトの演奏が始まるころ、キーアンはパットとともに、送迎車でブリストル空港へ向かった。後部座席にキーアンと並んで座ったパットは、フリンジをたっぷり使った黒いレザージャケットに、胸元をはだけた黒いサテンシャツ。下はダメージデニム、ブーツといういでたちだ。ラメ入りアイシャドウを使ったメイクもばっちりで、スタンバイ完了の姿である。そんな彼の横顔をチラッと盗み見したキーアンの胸に、言い知れない黒い霧がじわっと広がった。



————なんだ…この嫌な予感。やっぱり何か起きる気がする…!



彼自身に予知能力はない。だが、ドルイドの血をひく彼の勘は、並ではない。その勘が、そう教える。そして、ここに至るまで何事もなかったということは、空中で事故勃発の可能性が大になる。クールで豪華なオーラを全開にした”(キング)”の横顔を眺めながら、彼は更に気を引き締めた。



 空港に到着すると、搭乗するヘリの係員が2人を出迎えてくれ、ヘリポートへ案内してくれた。ヘリは既に出発の準備が整っており、搭乗するとすぐにホイストマンと呼ばれる整備士が、レスキューベストやハーネスをパットにセットした。ハーネスに取り付けられているカラビナにワイヤーロープ先端のフックが引っかけられ、これが命綱になる。

「どうですか、パットさん?きつかったり、緩かったりしませんか?」

「うん、大丈夫だよ」

 パットの準備が整ったことを確認すると、空港の係員がハッチを閉めた。

 ヘリは離陸体制に入った。





(※)輪っか状の、固定具の一種


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