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(4)草笛のメロディー

 翌日、12月23日朝。ライブ会場へ向かおうと、バンドメンバーらがホテルの正面玄関前で迎えの車に乗りこもうとしているところへ、エレベーターからプリプリ怒っているキーアンと、彼にまとわりつくパットが降りてきた。リハーサルは午後、ライブは夜の開催だが、メンバーはその前に楽屋でローカルラジオのインタビュー、雑誌の取材、ツアー中の様子の録画撮りなどが控えている。

「悪かったってば~~!!ねえってば、キーアン!ごめんよう…」

「うるさい!俺に近づくなと言ってるだろ!この酔っ払い!」

パットを振り払うキーアンの様子に、起き抜けらしいカイルが、ガリガリと黒髪をかきながらボソッと呟いた。

「?なんだよ、パットの奴。キーアンと何かあったのか?」

「あいつ、昨日バーでヤケ酒して、酔いつぶれたんだよ。仕方なく、一緒に飲んでた俺が部屋まで運んでやったんだが…あのヤロー、介抱してくれた湯あがりのキーアンに、盛大にゲロったらしくてさ。今朝、様子を見に行った時から、2人ともあの調子だよ」

いきさつを語るアシュリーは、呆れ口調だ。

「うはっ。湯あがりかよ!」

「そりゃー怒るわなあ…」

「キーアン、気の毒に…」

同じように呆れ口調に転じたメンバーは、口々にキーアンに同情した。





 会場へ到着すると、舞台セットが組みあがっており、すぐに音合わせが始まった。

 メンバーがリハーサルに入ったのを見届けたキーアンは、黒地にゴールドの文字で“THE GAP TOUR 1984”とプリントされたスタッフ用 Tシャツを着た人々が忙しく行き交う会場を、ぐるりと見て回った。裏口から楽屋へ繋がる、狭い通路。楽屋からステージへ繋がる通路。大道具用の倉庫。機材用の物置。車庫。スタッフの控室。警備員室。調整ルーム。チケット販売所。正面入り口と、広いロビー。それから観客席などをゆっくりと見て歩き、不審物や不審人物がいないかを確認した。が、それらしい物も、人も見当たらない。もちろん爆弾予告もない。

「…まあ、昨日の今日だしな」

スタッフ用のIDカードを首から下げた彼は、今はまだ誰もいない、がらんとした観客席から会場全体を見渡して呟いた。ステージ上では色とりどりのスモークが焚かれ、バンドがオープニング楽曲の演奏に入っている。ライブ用に長めにアレンジされた前奏が終盤近くにさしかかると、スポットライトが会場の天井を映しだす。すると細いワイヤーロープで宙づりにされたパットが現れ、客席の上空を鳥のように飛びまわって1周し、最後にステージ中央に降り立つという凝った登場演出である。最後に、華やかなスモークの間を割って入るようにステージに降りた彼は、身体じゅうでリズムを取りながら、大ヒット曲《It’s Not Too Late》を歌いはじめた。パーカッションが効いてノリのよい、今年のミュージックシーンを代表するこの楽曲は、特にこのバンドのファンというわけではないキーアンでさえ、よく知っている。


暗い観客席でリハーサルを見ていたキーアンは、目を見張った。と言っても、華やかなスモークや大胆な演出にではない。パットがそこに降り立った瞬間、ステージがまるで主を得たかのような、強烈な光を放つようになったことにだ。楽器類が並ぶだけだった空虚な空間は、まだ衣装をつけていない、私服姿の4人のバンドメンバーが現れるや生気と息吹を得、キラキラと輝くようになった。そしてそこにパットが降り立つと、ステージは一気に太陽が爆発したような熱と、目を開けていられないほどまぶしい光をまき散らす、灼熱の空間に一変した。



————パット…?これは、ゆうべ俺の腕の中でめそめそ泣いていた、あのパットと本当に同一人物なのか?ものすごい存在感だ!………これが“パット・ベイリー”なのか…!



楽曲が間奏のギターソロに入ると、アシュリーがステージ前方に出る。その時キーアンの視線は、彼に注がれる。だが、アシュリーを見ているはずの目が、いつのまにか傍らでマイク片手に踊っているパットに、また奪われてしまう。惹きつけられてしまう。巨大な質量を持つ恒星の引力から逃れられない惑星のように、彼の視線は今パットに張りついて、そこから離すことができなくなってしまった。初めて目の当たりにしたThe Gapのステージで、マスコミからしばしば(キング)と呼ばれる男の存在と魅力の大きさに、キーアンは驚きを禁じ得なかった。ちょっぴり甘さを感じさせるハスキーな声で、広い会場を支配するパットの歌を聴きながら、キーアンは彼が(キング)と呼ばれる所以を理解した。





 結局この日は何事もなく、ライブは予定通り行われて幕を閉じた。終演後はバックステージで、いつものように現地スタッフをねぎらう簡単な打ち上げがあり、バンドがホテルへ戻ってきたのは0時すぎだった。

 「あ~、今日も終わった終わった!キーアン、お疲れー」

ファンからもらった大きな花束やプレゼントを、小さなダイニングテーブルの上に山積みにして、パットが無邪気に笑いかけた。本当にこの男は、ステージではあれほどの輝きとエネルギーを放射するくせに、いったんステージを降りるとまるで子供のようだ。まさに“ギャップ”だなと、黒い革ジャンを脱ぎながらキーアンは苦笑した。

「明日はレディングかあ。その後がブリストル。それが終われば、いよいよロンドンだ」

言いながらテーブル脇のミニバーを開け、ワインを取り出そうとしたパットの腕を、キーアンはあわてて背後から掴んだ。

「よせ。昨日の続きをやるつもりか?悪酔いしても、俺はもう知らないぞ」

「ちょっとだけだよぉ。1杯だけ!それくらい、いいだろ?」

パットは口をとがらせたが、キーアンは応じない。

「だーめだ。1杯のつもりが2杯、3杯になるのが酒ってやつだ」

パットの手からワインを取り上げ、ミニバーの中へ戻しながら彼は言った。

「ちぇっ。厳しーな。俺、失恋したばっかなんだよ?酒でも飲まなきゃ、眠れないよ!」

パットは小さなリビングに置かれたグレーのソファーの上に、ふてくされたようにドサッと寝転んだ。

「あたりまえだ。風呂あがりに汚物を浴びせかけられた、俺の身になってみろ。…明後日はクリスマスで、デイ・オフだろ。明日の夜は、多少なら許可してやる。だが、とにかく今夜はだめだ!年じゅう睡眠不足の上に連日の酒なんて、身体にいいわけがない。少しは自分を労われ」

その言葉を聞いたパットは、意外そうに目を見開いてソファーから起き上がった。

「キーアン。俺を…心配してくれるの?」

「は?」

「俺がバイセクシャルだって、知らなかったんでしょ?知った今でも、俺のこと異常だとか、変な奴だとかって思わないの?」

 21世紀の現在と違い、まだLGBTに対する世間の理解が薄かった当時は、その事実を隠す人が多かった。特に、同性愛を禁じるキリスト教を国教とする欧米でそれは異端視されやすく、そうと知られると後ろ指をさされたり、好奇の目で見られることが少なくなかった。パットの問いかけには、そうした意味合いがある。だがキーアンは、ふっと軽く笑って、その問いをきっぱり否定した。

「思わないな。俺は、まがりなりにも国連で活動している。この世にはいろんな国があり、いろんな考えの人間がいると、思い知らされる毎日だ。その程度のこと、何とも思わない。ほら。飲みたきゃ、これでも飲んでおけ」

そう言って彼は、ミネラル・ウォーターのペットボトルをパットに差し出した。ところが世界的ヴォーカリストは、ペットボトルでなく青年の腕を取ると、彼に抱きついてきた。

「その程度って…そんなふうに言ってくれたの、ローレンス以外じゃ君だけだよ!クリスやバンドメンバーは、今は理解してくれてるけどね。当初は、やっぱり少し違和感を持たれていたんだ」

「カミングアウトなんてすりゃ、そりゃあそうなるだろう。どうして公にしたんだ?」

「だって、それが俺だもん。隠しておいたって、どうせいつかマスコミに暴露されるだろうし、世の中ゲイもバイも俺だけじゃないだろ。だけど社会が、恋愛イコール男女間という意識で成立してしまっているから、そこからはみ出す人間は肩身が狭くて、なかなかそれを言い出せない。だから俺が公にすることで、少しでも世の理解を得られたらって思ったんだよ。…それより君、本当にそういう偏見が無いんだね。それ、凄いことだよ!俺、嬉しいよ!大好きだよ、キーアン!」

「そ…そうか。わかったから、放せよ」

首にまとわりつくパットを苦笑半分で引き放そうとすると、彼は甘く整った顔をさらにキーアンに近づけ、その碧色の瞳を覗きこんで言った。

「君の()……夜空でオーロラが揺れているみたいで、すごく神秘的でセクシーだ。見つめられると、ぞくぞくするよ!ねえキーアン、酒を飲ませてくれないなら、君が慰めてよ。俺、シラフじゃ眠れないよ!」

言うが早いか、パットの女の子のようにふっくらとした唇が、キーアンの唇をふさいだ。

「————バ…バカ野郎ッ!!やめろ!」

世界が恋する甘いマスクの“(キング)”を力まかせに振り払ったキーアンは、唇をゴシゴシと手の甲で拭った。驚きと衝撃で見開かれた碧の瞳には、ゆらゆらと揺れるオーロラとともに、戸惑いも滲んでいる。振り払われた“(キング)”の方は、グレーのカーペットに尻もちをついたまま、不満そうに頬をふくらませた。

「…なんだよ。慰めてもくれないわけ?俺がバイセクシャルでも、気にしないんだろ?」

「それとこれとは話が別だ!いいか、パット。おまえは男女不問かもしれんが、俺は異性(スト)愛好者(レート)!徹頭徹尾、男に興味はないから、2度とこんな真似するな!」

「ふーん。俺が女だったら、よかったのか。残念だなあ。君、けっこうタイプなのに」

床から立ち上がったパットは、お尻をパンパンとはたいて笑った。だがキーアンは、それも否と言った。

「それでもだめだ。俺は————操を立てている女がいる」

「……恋人(ガールフレンド)?」

「まあ、そんなところだ。…シャワーを浴びてくる。あ、覗くなよ?おまえ、俺が特殊能力者だってこと、ゆめゆめ忘れるんじゃないぞ。少しでも妙な真似をしたら、こうしてやる!」

ニヤリと笑ったキーアンは、カッと()を光らせて集中力を高めた。するとソファーにもたれていたパットの長身が、見えないクレーンに吊るされたかのように宙にグーッ持ち上げられ、彼は天井に磔にされた。

「うわあっ…何するんだよぉ~~!俺、何もしていないじゃないか!下ろしてくれよう!」

空中で長い足をバタバタさせると、次の瞬間彼の身体は、風船のようにふわ~っとカーペットに着地した。

「はっはっ…何かされてからじゃ、遅いからな。予防の警告だよ。…今のが空中(レビテー)浮揚(ション)ってやつだ。覚えておけよ!」

「ちぇっ。無理強いする趣味はないよ!意地悪だな、キーアン」

「相手の意志も確かめず、いきなりキスするような奴には、いい薬だろ。あっはっはっ」

ふくれっ面のパットを後目に、キーアンは笑い声を響かせてバスルームへ入った。だがバスルームへ入った彼は、ドアを閉じるとスッと笑顔を消した。ギュッと目をつぶり、彼はオーロラの瞳を隠すように、右手で両眼を覆って呟いた。

「…コリーン……」



 バスルームから出てくると、パットはまだソファーの上だった。背もたれにどっぷり体を預け、彼は面白くなさそうにテレビを見ていた。黒い天板のセンターテーブルの上には、空っぽになったミネラル・ウォーターのペットボトルが1本、転がっている。

「俺の目を盗んで、酒に手を出すかと思ったが…感心、感心」

長い髪を拭きながらキーアンが笑うと、パットは再び子供のようにプイッとふくれっ面をしてみせた。

「ふーんだ。俺、別にアル中じゃないもん。眠りたかっただけだもん」

「万年寝不足のくせに……目をつぶってりゃ、そのうち眠れるさ」

呆れたように言ったキーアンは、ミニバーからミネラル・ウォーターを取り出し、一気に半分飲んだ。するとパットがテレビを消して、何かを思いたったようにソファーから身を起こした。

「目なんかつぶったって、浮かんでくるのはチャールズの顔だけだよ。琥珀色の髪、ブロンズの瞳…よけい眠れなくなる。————ねえキーアン、あれ聴かせてよ?前に、草で吹いていたやつ!」

「え?」

「ほら。初めて逢った時、吹いていたじゃないか!あの曲だよ。…ねえ、いいだろ?俺、君の言いつけを守って、酒は飲んでない。おまけに、君に慰めてももらえないんだから」

甘えるようにねだるパットの美しいコバルトブルーの瞳は、寝不足のため今日も白目が充血している。目の下には、大きな隈もある。そんな状態でも尚、失恋で眠れないという彼の願いを、キーアンは断れなかった。まだ半分濡れている赤茶の長い髪を手早く縛った彼は、小さなダイニングテーブルに歩みよると、山積みにされている花束の中から笛になりそうな葉を探した。月桂樹とラベンダーの小さなブーケに目を留めた彼は、月桂樹の平たい葉を手に取った。

「……これがいい。1枚もらうぜ」

北欧風のシンプルな白いダイニングチェアーに腰かけると、彼は葉を唇に当てた。


素朴な音色が流れはじめる。草原をそよぐ風のようなメロディーは、どこか牧歌的だ。青空。緑の大地。小川のせせらぎ。キーアンが奏でるメロディーは、そんな風景を彷彿させる。


モノトーンでまとめられた、モダンで都会的なインテリアのリビングにまったく似つかわしくないその音色とメロディーに、ソファーに寝転んだパットは豪華な髪を乱して、じっと聴き入った。やがて草笛の音が途切れると、半分まどろんだようなとろんとした声で、彼はねだった。

「キ…アン……も…いちど……」

ふたたび笛の音が流れはじめる。そのゆるやかな音色の中で、世界を股にかける“(キング)”は今度こそ夢の淵へ落ちていった。


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