(3)パットの失恋
翌、12月21日早朝。真冬のセントラルパークで仕事を終えたバンド一行は、予定どおりテレビ局その他の仕事も終え、午後遅くにケネディ国際空港に到着した。そこで現地最後の取材を終えると、コーエンから皆に搭乗券が配られた。
「コンコルドの搭乗券…?」
手渡されたボーディングカードを見て、キーアンがちょっと驚いたように呟いた。すると横から、寝不足きわまるパットがあくびをしながら言った。
「これならロンドンへ、3時間半で帰れるからね。おかげでニューヨーク1泊2日の旅が、難なく遂行できるってわけさ」
1969年に試験飛行、1975年に正式就航した超音速旅客機コンコルドは、21世紀に入って営業飛行を終了するまで、その独特の美しいフォルムや、マッハ2で成層圏飛ぶことなどで、多くの人々の“空の憧れ”だった。当時、一般の国際線でロンドン~ニューヨーク間が5~6時間かかったのに対し、怪鳥とよばれたコンコルドは、その半分強の時間でこの区間を結んでいた。膨大な燃料を必要とする上に座席数が100席と少なく、料金もファーストクラスの2割高と高額だった。発着する各空港には専用ラウンジとゲートが設けられ、発着陸にも最優先権が与えられるという、ファーストクラスより更に格上の、特別クラスと位置づけられていた。
そんなコンコルドであるが、機内へ乗り込んでみると狭かった。機体が速度重視でデザインされているため、一般国際線のエコノミークラスほどしかない座席が2席ずつ、通路をはさんで2列ならんでいるだけ。窓もハガキ程度の大きさしかない。それでも離陸し、水平飛行にはいると、その快適さがキーアンにも解った。空気が薄い成層圏を飛行しているため機体の揺れがなく、乗り物酔いの心配がまったくない。エンジン音はあるが、ウエルカムシャンパンのグラスさえ微動だにしないので、本当に飛行しているのかと思うほどだ。だが、小さな窓ガラスを触ってみると、これが異常な熱をもっている。やはりマッハで飛行しているのだ。しかし万年寝不足のThe Gapメンバーは、そんなことはどうでもいいようだ。3時間半の飛行時間は睡眠あるのみ、という感じで、狭い座席にもたれて5人とも爆睡している。特に、昨夜は午前3時に電話インタビューのためコマ切れの睡眠しかとれなかったパットは、搭乗するや離陸を待たずに、吸い込まれるように眠りの淵へ落ちていった。
「ん……」
寝がえりを打ったパットの頭が、隣の座席で食事をしていたキーアンの肩に落ちてきたのは、離陸後1時間が経ったころだった。
「おい、パット…」
キーアンが振り向くと、コンコルドならではの特別メニューの機内食も摂らず、豪華な金髪をくしゃくしゃに乱してひたすら眠る、パットの寝顔があった。その寝顔は甘く、どこか憎めないあどけなさがある。が、同時に、目の下に大きな隈もある。撮影やテレビ出演中はメイクで気づかなかったが、こんなに大きな隈ができるほど疲れているのだ。そう思ったキーアンは、パットの身体に伸ばしかかった手を下ろした。
「…しかたないな」
苦笑したキーアンの頬を、パットの柔らかい、ゆたかな金髪がくすぐる。肩に乗っかっている彼の頭をできるだけ揺らさないよう、自分もまた座席の背にもたれたキーアンは、じきに食後の眠りに誘われた。人気バンドと早朝から行動を共にした彼もまた、今日は睡眠不足だった。パットから漂ってくる軽いコロンの香りに包まれたキーアンは、いつのまにか2人で寄り添いあうようにして眠りに落ちていった。
「キャ———!!パットぉ—————!!」
「アシュリィィ————!!」
「ロジャー、こっち向いてぇ!ロジャ———!!」
「握手してえ!握手!!」
「どいて、どいて!道をあけて!」
ヒースロー空港に到着すると、普段より人がまばらに感じられる到着ロビーで、ファンが待ち受けていた。歓声や嬌声やシャッター音、フラッシュが次々と光る中、一行は警備員たちに囲まれて、貸切っている特別待合室へ向かった。さっそくインタビューの仕事である。しかし、気のせいだろうか。搭乗者の送迎客だけでなく、バンドを出迎えるファンの人数も、いつもより少ないように思われる。
コーエンがインタビュー記者の待つ待合室のドアを開けようとした時、通路のむこうから大柄な男が、全速力で走ってきた。
「クリス!」
上背も肩幅もあり、かなりがっしりとした体型のその男の呼びかけに、彼はすぐ振り返った。
「イアン!どうした、そんなに慌てて。ああ、紹介しよう。こちらが昨日、電話で話したキーアンさんだ」
細身で小柄なコーエンと、イアンと呼ばれた黒髪にパンク風シャギーを入れた筋肉質の大男が並ぶと、まさにデコにボコという感じだ。紹介された彼は、ピアスを着けた唇からはあはあと息を吐きながら、まずキーアンにむかって手を差し出した。
「これは遠いところを、ようこそ。お世話になります。俺はアシスタント・マネージャーの、イアン・マーフィーといいます。よろしく。…それはそうと、クリス。大変なんだ!」
キーアンの手を握ったあと、何やら慌てているイアンは、すぐにコーエンの方へ向き直った。
「さっきナイツブリッジで、IRAによる爆発があった。そのせいでハイドパーク周辺は、非常線が張られて大騒ぎだ!地下鉄のピカデリー線も、全区間で運休になりました」
ピカデリー線といえば、ヒースロー空港とロンドン市内を繋ぐ路線だ。なるほど、今日にかぎってやけに空港ロビーが閑散としているのも、出迎えのファンが少ないのも、そのせいだったのか。納得顔でうなずくコーエンに、矢継ぎ早にイアンは言った。
「地下鉄が閉鎖されて、市内の道路が大混乱なんですよ。混雑ってだけでなく、あちこち封鎖もされているから、いつもの経路で向かっても時間がかかるだけだ。遠回りになるが、今日は南へ迂回してヴィクトリア駅へ向かいましょう。だからインタビューは、できる限り手短かに済ませてほしい。何としても今日じゅうにブライトン入りしないと、明日の公演に障りが出ます!」
「わかった。15分で終わらせるから、車をターミナル出口へまわしておいてくれ」
「了解!」
コーエンが指示すると、イアンは大きな身体を翻して駐車場の方へ走って行った。
イギリス南東部に位置するブライトンは、海に面しているリゾートタウンだ。ロンドンからなら鉄道でも高速でも、日帰りもじゅうぶん可能な距離で、週末や夏の海水浴シーズンには多くの旅行客で賑わう。ナイトライフも充実しており、ブライトン・センターでは大きなライブの催しがよく開かれる。今回The Gapが公演を行うのも、ここである。そんな街だから、宿泊施設もそれなりに揃っている。が、ロンドンにあるような超一流ホテルはなく、小ぢんまりとした3つ星ホテルか、4つ星ならビジネスタイプのものがほとんどである。
この日The Gapの一行が宿泊するのも、そんなビジネスタイプのINNだった。
12月の夜がとっぷり暮れた18時前。ホテルに到着してみると、既にチェックインを済ませていたバンドのローディーや照明スタッフなど、ライブ関係者らがコーエンたちを待ち構えていた。コーエンは皆にキーアンを紹介したあと、すぐミーティングに入った。ホテルの地下階にある会議室で、明晩の前座を務めるバンドを交えて打ち合わせが終わったのは、22時すぎだった。
「…ええ。そういうわけで、今やっとミーティングを終えて、部屋に入ったところです」
スイートルームといえど、1ベッドがせいぜいの4つ星ホテルは、スイートルームそのものの数が少ない。コーエンを含む全スタッフはツイン、またはシングルルーム。スイートはメンバーが2人1組にされて、あてがわれた。キーアンは前夜同様、パットと同じ部屋だった。
割り振られた部屋へ入るなり、キーアンはマンハッタンのウォーレスに電話をかけた。今日の報告のためである。ナイツブリッジの件を話すと、電話のむこうから落ち着いた男性の声が返ってきた。
「ああ。爆発の件は、こちらでもニュースで流れた。到着そうそう大変だったな、キーアン。だが今日爆発したなら、今後しばらくは予告があってもガセの可能性が極めて高くなる。いったん実行すると、次の実行まで一定の間があくのが、IRAのやり方だ」
「俺もそう思います。予知班の予測どおり、ロンドン公演への影響は無いと見ました」
「だが、万一ということがある。君は予定どおり、年内はバンドに付いてやってくれ」
「わかりました」
広くはないがモノトーンのモダンなインテリアと利便性を備えたリビングで受話器を置いたキーアンは、グレーの布ソファーに疲れた身体をドサッと放りだした。ミーティング後、バーで飲んでくると言ったパットは、まだ戻って来ない。ふとセンターテーブルを見ると、ガラスの灰皿の横に、テレビ用の黒いリモコンが置いてある。それを取り上げた彼は、テレビをつけてみた。
BBC放送の画面に映し出されたのは、報道番組だった。今日のテロ現場の映像が、ちょうど流れているところだった。見ると、普段は観光客も大勢おしよせるナイツブリッジの瀟洒な繁華街が、めちゃくちゃになっている。血を流して倒れている人、割れたショーウインドーのガラスや商品、どこかのカフェから飛んできたらしいガーデンパラソルや椅子、あるいは建物の外壁だったと思しきレンガ、建物の窓にはめこまれていたらしい格子などが、歩道にも道路にも散乱して目も当てられない。爆発付近と思われる建物からは黒煙がもうもうと立ちのぼり、救急車や消防車、パトカー、警官隊が駆けつける様子が映し出されている。
「……現在のところ、判っているだけで死者12名、重軽傷の怪我人が…あっ、お待ちください。ただいま情報が入りました。新たに死者1名が加わり、犠牲者は13名となりました。現場で巻き込まれて重傷を負った市民1名が、つい先ほど搬送先の病院で死亡したとの————…」
そこまで聞くと、キーアンはプツンとテレビを切った。
「畜生…」
ひとこと呟いた彼の表情は、にがにがしい。オーロラを宿したような瞳に言いようのないやりきれなさを浮かべた彼は、立ち上がるとセミダブルのベッドが2つ並ぶ、寝室へと移った。小さなバルコニーが付いた窓のむこうには、夜の暗い海と空だけが広がっていて、マンハッタンのような夜景は見えない。万年睡眠不足のパットが、奥のベッドで少しでも落ち着いて休めるよう、キーアンはドア側のベッドを選ぶと、先に部屋へ運びこまれていたスーツケースを開けた。そして荷ほどきを終えると、彼はパットが戻ってくる前にシャワーを浴びてしまおうと考え、クローゼットの扉を閉めてバスルームへ向かった。
「ふ——…やれやれ。長い一日だったな」
バスローブにくるまって出てきたキーアンは、いつもは束ねている赤茶の長い髪をタオルで拭き拭き、リビングへ行った。窓辺のダイニングコーナーに備えつけられたミニバーからミネラルウォーターを取り出した彼は、ペットボトルのキャップを開けながら、ふとソファー上の壁かけ時計を見た。もう1時をとっくに過ぎている。だが、パットはまだ戻っていない。
「あいつ、明日もみっちり予定が詰まってるっていうのに…睡眠不足に拍車がかかるぞ」
少し眉根を寄せて、彼がミネラルウォーターを飲もうとした時だった。不意にエントランスで、チャイムがピンボーン、ピンポーン、ピンポーンと立て続けにせわしく鳴った。
「なんだ、こんな夜中に…」
キーアンが慌ててドアを開けると、そこにはパットを肩に担いだ、アシュリーが立っていた。
「アシュリー!パット、どうかしたのか?…うわっ…なんだ、この酒の臭い!」
キーアンが思わず顔をそむけると、髪をピンクとグリーンに染めたギタリストは、困り顔で言った。
「すまん、キーアン。パットの奴、失恋したんだよ。バーの公衆電話から久しぶりに連絡したら、相手から別れ話を切り出されたんだってさ。んで、このヤロー、ヤケになってワインがぶ飲みしやがって……キーアン、悪いがコイツを寝かせてやってくれないか。それと、このことは…」
「ああ。仕事中の守秘義務は、心得ている。口外しないから安心してくれ。あとは俺が面倒みるから、あんたは部屋へ帰って寝てくれ。明日も忙しいだろ。…おいパット!しっかりしろ!」
アシュリーからパットを引き継いだキーアンは、エントランスのドアを閉めると、パットを肩に担ぎなおして声をかけた。しかし、べろんべろんになっている彼は、もうほとんど意識がないのだろう。喋ることはおろか、歩くこともままならない。大人気ヴォーカリストをひきずるようにして寝室へ運んだキーアンは、彼を奥の窓辺のベッドに横たえると言った。
「よいしょっ…と。今、水を持ってきてやるから、待ってろ」
バスローブの裾を翻し、彼はさっき飲もうとしていたミネラルウォーターのボトルをリビングから取ってきた。
「ほら、パット。水だ。飲め」
ボトルを差し出すが、パットはベッドの上でピクリともしない。仕方なくキーアンは彼を抱き起こし、女の子のようにふっくらとしたその唇へ、水を持っていった。
「おい。…おいってば!パット!飲めったら!」
「う…ん……もう飲めな………」
「バカ!水だ!少しでもいいから飲むんだ!」
ペットボトルの口を強引にパットの口内へ押し込むと、彼はひと口だけ水を飲んだ。が、へべれけ状態の彼は、うまく飲み込めずにむせた。
「ゴホッ…ゴホッ、ゴホッ」
むせたパットが顔をそむけると、キーアンの手首に顔が当たった。その拍子にキーアンの手からボトルが落ち、パットの顔面に少なからず水が降りそそいだ。
「ゴホッ…ゴホッ……キ……アン?」
さっきまで冷蔵庫に入っていた、つめたい水を頭から浴びた彼は、若干正気に返ったらしい。わずかに首を動かし、自分の傍にいる赤茶の長髪の男を見とめると、その人物にむかって弱々しく名を呼んだ。
「そうだよ、俺だ。まったく、こんなになるまで飲みやがって!」
「お…俺…ふ……ふられた………ツアーばっか…で…会えないのは、もうやだ…って……ほ、他に、お、男ができたって……そう言われて、お、俺……ふられた。ふられ…たの…うえ…ひっく…うえっ……」
酔いで半分ろれつが回らないパットは、ひっくひっくと泣きじゃくりながら語った。こんなふうに子供みたいなところは、本当にローレンスそっくりだなとキーアンは苦笑した。
「よくあることだ。誰でもするだろ、失恋なんて。…ほら、もう泣くな。女にふられたくらいで」
腕の中の子供をあやすようにキーアンがなぐさめると、彼の胸にすがりついたパットは、更に泣きじゃくって違うと言った。
「チャ…チャールズ…男だよぉ……うえっ…チャールズぅ……ひっく…バイセクシャルなの俺……し、知…らない?一応カミングアウト…してるん…う…うえっ…ひっく…うわああ~~ん……うええ~~ん…」
「お、男なのか☆ま、まあ、どっちでもいい!とにかくもう泣くな!パット!」
「む…無理…だよう。ひっく…さっき…ふられたばっかで……うええ~~~ん…うええ~~……うえっ…ゔえっ…ゔええっ…ゔぉええええええええ———ッッ」