(20)密売人イアン
<Masquerade><Irish Garden><Feelings for You>と、ニューアルバムの主軸を担う3曲を披露したライブは、大成功のうちに幕を閉じた。
終演後、ローレンスとともに楽屋を訪れたキーアンは、まだステージ衣装を着たままのメンバーの中にパットを見とめるや、走り寄って彼をハグした。ステージを下りたばかりの彼は全身汗びっしょりだったが、そんなことは気にも留めず、キーアンは彼をきつく抱きしめた。
「パット………ありがとう。まさか、あんな歌詞がつくとは思わなかった。あんな大きな…!あの曲を預けたのがおまえで、本当によかった……」
やっとの思いでそう言ったキーアンに、パットは心から嬉しそうに微笑んだ。その笑顔はまるで花のやさしさと、春の光のまぶしさと、聖なる神々しさをまとった天使のようだった。
「…君の部屋を見た時、思いついたんだよ。観葉植物いっぱいのあの部屋には、君の緑の島への思いが詰まっていた。帰りたいって、君がそう叫んでいるように見えた。俺の方こそ、君と出逢わなかったらこんな歌詞、絶対に書けなかった。こんなのが書けるなんて、自分でも驚いてるんだ。礼を言うのは俺の方だよ。気に入ってもらえてよかった————」
そう言った汗まみれの“王”は、盟友に強くハグを返した。
こうして発表された作詞パット・ベイリー、作曲キーアン・オブライエン、編曲&歌唱The Gapによる新曲<Irish Garden>は、バンドの新しい魅力としてファンの間で大いに話題になったばかりか、音楽雑誌でも大きく取り上げられる。そして7月末にニューアルバムと同時発売でシングルとしてリリースされるや、全英チャートでいきなり1位。全米チャートで3位を獲得する。更に同曲は、ある住宅メーカーのCMソングとして起用され、やがてバンドの代表曲のひとつになる。そして同曲を収録したニューアルバムは、世界中でトータル1000万枚を超えるセールスを記録することになるだろう。
楽屋をあとにしたキーアンとローレンスは、会場近くのパブに入った。チリンチリンと来客を知らせるドアベルが鳴る扉をくぐると、店内はアルコールと共にダーツや煙草、おしゃべりを楽しむ人々で賑わっていた。
「へい、いらっしゃい」
たくさんのリキュール瓶や、グラス類がならぶカウンターの向こう側から、太ったバーテンがすぐに声をかけてきた。
「レッドエールだ。1パイント頼む」
「おやじさん。僕はビターを1パイントね」
「はいよ!」
カウンターにグラスが置かれると、2人はそれを持って空いているテーブル席を探した。が、週末のいい時間帯とあって、満席だ。
「混んでるな」
「うん。カウンターへ戻…あ、すみません。ここ、相席できますか?」
2人がカウンターへ戻りかけた時、窓辺の4人用テーブルで2人の中年男性客が話し込んでいるのを見とめたローレンスが、人好きのする笑顔で近づき、尋ねた。尋ねかけられた男性たちが顔を上げると、1人はあご髭。もう1人はスキンヘッドだった。肉体労働者だろうか。2人とも半袖のTシャツから伸びる両腕がかなり太く、しかも筋肉質で、鍛え上げられた感じがする。
「ああ、構わねえよ。俺たちゃ、もうじき帰るしよ。座んなよ」
快く頷いてくれたあご髭を生やした男の低い声に、一瞬キーアンは聞き覚えがある気がした。しかし、男にありがとうと言って年季の入った木のテーブルにさっさとついたローレンスを見て、似た声など世の中にたくさんある。彼はそう思いなおして、これまた年季の入った、堅い木の椅子に腰かけた。
「いやあ、本当にいい曲だったね。“Irish Garden”」
ビターとエールで乾杯したあと、心底感動したと言いたげなローレンスが、満面の笑顔で夢心地のためいきをついた。
「ああ。正直、俺も驚いた。歌詞、アレンジ、演奏、演出……まさかあんな仕上がりになるなんて、想像もしていなかった」
答えたキーアンも、感服したというような笑顔だ。
「俺が独り草笛で吹いていた時とは、似ても似つかない楽曲になっていた。あれがThe Gapの力なんだな。彼らが世界で人気を博している理由が、俺にも何となくわかった気がする————」
「作曲者である君にそんなふうに言ってもらえて、メンバーのみんなもホッとしているんじゃないかな。じゃ、“Irish Garden”の完成を祝って、乾杯!」
微笑んでローレンスがグラスを持ち上げた時だった。テーブルを挟んで座っていたあご髭の男が、古びた壁掛け時計を見上げて、スキンヘッドの男に言った。
「おい、そろそろ行こうぜ。イアンが来る頃だ」
「おう」
「————!」
男が何気なく口にした名前は、昨年末以来ずっとキーアンの心にひっかかっていたそれと同じだった。そしてその名前が、キーアンの記憶を一瞬で明確に呼び起こした。
————イアン!?そういえば、このドスの効いた低い声…!打ち上げの夜、ホテルの中庭でイアンと何かを交換していた、あの男の声じゃ…!?
彼がハッとして顔を上げると、混雑した店内を縫うようにして扉へ急いだ男たちが、ドアベルを鳴らして出て行くところだった。キーアンはまだ半分も飲んでいないグラスをテーブルへ戻すと、すっくと立ちあがった。
「ローレンス!あいつらをつけるぞ!」
「えっ、キーアン!?」
ローレンスは慌てて立ち上がると、難しい顔つきで歩いていく同僚の背中を追いかけた。
店を出た2人は、ウェンブリー・アリーナがある方向へ歩いていく男たちの後を、適当な距離を保ちながらこっそりとつけた。22時前の大通り沿いの歩道は、外灯が並んでいるが通行人はまばら。ヘッドライトを点けた車たちが、車道を無言で走り去っていくだけだ。キーアンとローレンスが時折、建ち並ぶ店の軒下に身を寄せたり、銀行のATMを覗くふりをしながら尾行を続けていくと、男たちはアリーナのちょうど裏手に建つ、モダンスタイルの4つ星ホテルに入って行った。The Gapが今宵の打ち上げと、新曲発表の記者会見を行っているホテルである。
「キーアン。このホテル…」
ホテルのエントランス前で、怪訝そうに建物を見上げたローレンスに、キーアンは頷いた。
「ああ。今夜バンドが使っている場所だ」
————イアンってのは、やっぱりあのイアンのことだったのか。だとするとあの男たちは、イアンの取引相手。…だが、なんの取引だ?パットが言っていた通り、麻薬か?
心の中ですばやく推測をめぐらせたキーアンは、男たちを追ってエントランスをくぐりながらローレンスの顔に自分の顔を寄せた。そしてこれまでのイアンに関するいきさつを、簡単に彼に説明した。多数の宿泊客らがざわめく、赤いカーペットが敷き詰められたロビーを素通りした男たちは、エレベーターホールで地下行きのエレベーターに乗り込もうとしている。
「…というわけだ。それでローレンス、頼みがある。イアンが現れたら、奴を透視してもらえないか?もしも奴が本当に密売人だとしたら、パットの周辺に置いておけない。ただでさえ薬物使用が珍しくない芸能界だ。事実が発覚したら、必ずバンドの関与が疑われる!…これは近衛連隊の仲間としてではなく、パットの友人として、彼の従兄に対する頼みだ。やってもらえないか?」
キーアンの説明に、ローレンスはわかったと即答した。
「もちろんだよ!イアンとかいう人が現れたら、念視で彼の過去を視てみるよ!」
2人は顔を見合わせて頷きあうと、エレベーターホールへ向かった。4機あるエレベーターのうち、男たちが乗ったエレベーターは、地下2階で停止していた。
「地下2階…駐車場か」
ホールの壁にあるフロア案内を確認したキーアンは、非常階段から下りようと言った。
「エレベーターは扉が開く時に、チン、ってな到着音が鳴るだろ。あいつらに気づかれる」
2人はいったんロビーへ戻り、非常口を探すと、そこから階段を駆け下りた。
手すりがついた屋内階段を地下2階まで下りると、白いスチールドアがあった。音をたてないよう細心の注意を払いながら、キーアンはドアを3センチほど開いた。細い隙間からコンクリートに囲まれた広い駐車場の様子を伺うと、ぎっちり並んだ車の列。その右手前方から、男たちのひそひそ声が聞こえてきた。だが非常口から男たちまで少々距離があって、話の内容までは聞き取れない。キーアンはドアの隙間を少しだけ広げ、身をかがめてそこから駐車場へ出た。ローレンスもそれに倣い、同じように身をかがめてキーアンの後に続いた。
コンクリートの太い柱や、たくさんの車の影に隠れながら男たちに近づいてみると、イアンが赤いジャガーに、そしてあご髭の男とヘッドスキンの男が、その隣の黒いランボルギーニのドアにもたれて話しこんでいた。
「…じゃあ、手はず通りなんだな、イアン?」
あご髭男の低い声が響く。
「ああ。バッチリだ」
「へへっ…こりゃあ楽しみだ。イアン、おまえも長年の溜飲が、ようやく下がろうぜ。そうだろ?」
スキンヘッドの男が言うと、イアンはピアスを着けた唇の両端を持ち上げ、ニヤリと不気味に笑ってみせた。が、次の瞬間、野生の獣のように暗い瞳を光らせた彼は、黒いランボルギーニの後ろに建っている柱を振り返った。
「…そこ!誰だ!?出てこい!」
時刻は少し巻き戻る。この夜のライブが始まろうとしていた頃、ロンドンと5時間差のマンハッタンでは、デ・クレヤル氏の秘書のステファニーが大慌てで事務総長室に駆け込んでいた。
「事務総長!大変です!」
コンコンコンコン、と忙しなく重厚なドアをノックするや、彼女は中からどうぞと声がかかるのを待たずに入室した。
「うん?どうしたね、ステファニー?そんなに慌てて」
ちょうどコール保安局長とミーティング中だった彼は、大きな黒革のソファーから驚いて振り返った。
「珍しいな。そんなに顔色を失っている君は、初めて見るよ」
年々大きくなる一方の腹をさすりながら、コール氏も目をまるくした。しかし彼女は、それには取り合わない。挨拶も前置きもせずに、即刻本題に入った。
「イアン・マーフィーのことですわ。キーアンが麻薬の密売人かもしれないと言っていた、The Gapのアシスタント・マネージャーです!」
「………ああ。彼が何か?」
ちょっと考え込んでから、思い出したというようにデ・クレヤルが尋ねた。
「思いだしたんです!イアンは…彼は、物理能力者です!ご覧ください、このデータを」
ステファニーは手に持っていた一冊のファイルを、デ・クレヤル氏に差し出した。そして説明した。
「イアン・マーフィーの名を聞いた時、聞き覚えのある名前だと感じたんです。でも、名も姓もありふれていますし、思い違いだとばかり————ところがさっき、ワルトハイム前事務総長時代のファイルを整理していて、思いだしたんです!かつてワルトハイム氏のもとで能力開発室が設けられた時、平和協力のよびかけを行うために、国連は世界各国にちらばる能力者たちを選抜した。その候補者の中に、イアンも入っていたんです!」
「なんだって!?」
デ・クレヤル氏は急いでファイルを取り上げ、銀縁の眼鏡をかけなおしてからそれを覗きこんだ。すると、赤ペンで太く大きく“INVALID(無効)”と記された、若き日のイアンの写真つきデータがあった。
「イアン・マーフィー、物理能力者。1954年8月1日生まれ。北アイルランド、ベルファスト出身。イアン10歳の時、父親が職を求めて一家でイギリス本土のミルトン・キーンズへ渡る。両親のもとで学生時代を送るも次第に過激な思想に傾倒し、高校卒業と同時にロンドンへ移りIRA暫定派に参加————」
で・クレヤル氏が読み上げると、向かいのソファーでコール氏が、太い膝をパン!と打った。彼はワルトハイム氏の許で、能力開発室の創設に尽力した中心人物だ。キーアンやローレンス等に国連参加を直接声がけに赴いたのも、彼である。
「思い出したぞ。イアン・マーフィー……あの男か!」
「コール局長。彼を知っているのかね?」
デ・クレヤル氏がファイルから顔を上げて尋ねると、彼は説明した。
「はい。確かな物理的能力の持ち主で、能力開発室に参加していれば、きっと近衛連隊に配属されたであろう実力者です。ところがデータにあります通り、彼は早々にIRA暫定派に加わってしまった。以後、物理的能力をテロに利用することしばしばでしてな。思想的に問題があるとして、ワルトハイム氏が却下されたのです」
「では昨年末、The Gapが2度にわたってIRAからテロ予告を受けたのは…」
「偶然ではないはずです。何らかの形でイアンが関わっている可能性が高いと思われます!」
コール局長がそこまで言うと、2人の会話を聞いていたステファニーが、何かに気づいたようにハッとした表情になった。
「事務総長!だとすると、もしやブリストルの犯人は————!」
ステファニーの言葉に、デ・クレヤル氏とコール局長は思わず互いの顔を見合わせた。
「……そうか。読めたぞ!ローレンスの念視をもってしても犯人が浮かばなかったのは、ワイヤーロープカッター使用の際、奴が物理的能力で操ったからだ!カッターがロープを切りこみを入れる場面は視えるのに、どうにも犯人の姿が視えないとローレンスが言っていた理由が、それで説明がつく!カッターにもロープにも、指紋ひとつ残っていないわけも!」
コール局長の推察すると、場に緊張が走った。デ・クレヤル氏は固唾を飲み込むと、硬い表情で禿げ頭の局長に尋ねた。
「なるほど。君の言うとおりかもしれん。だが、そうだとすると2度のテロ予告に加えて、パット氏の暗殺未遂………イアンはThe Gapのアシスタント・マネージャーでありながら、バンドに何か恨みでもあるのだろうか?」
「理由はわかりませんが、その可能性はあります。とにかくすぐに連絡を!」
コール局長が大きくうなずいてみせると、デ・クレヤル氏はただちに傍らの美人秘書を振り返った。
「ステファニー。大至急、ロンドンのThe Gap事務所へ電話を。わたしがコーエン氏に直接話そう。それから渡英中のローレンスと、キーアンにも連絡を取ってくれ」
「かしこまりました!」
指示を受けたステファニーは、くるりと背をむけると栗色のショートヘアを揺らしながら、急ぎ足で事務総長室を出て行った。
(※)60年代後半にIRA主流派から分裂した一派。数々のテロ行為を行っており、多数の国々からテロ組織と認定されている