(19)IRISH GARDEN
7月に入ると、キーアンはパットに言われたとおり、早めの夏休みをとった。昨年クリスマス休暇返上で詰めたあと、休暇をまったく取っていなかったこともあり、ウォーレスは快く承諾してくれた。同じくパットから招待された、ローレンスも一緒だった。
ライブは昨年末同様、ウェンブリー・アリーナで行われた。バンドにとって久しぶりの大きなライブ、それもニューアルバムの曲を引っ提げてのライブとあって、前売りは発売30分で完売。当日の会場前では、ダフ屋たちが黒山の人だかりにむかって法外な値段でチケットを呼び掛けているが、これも次々に売れていくという盛況ぶりだ。
開演20分前に会場入りしたキーアンとローレンスは、ステージ下手側の2階に設けられた招待席へ案内された。見まわしてみると、満席の場内は熱気ムンムン。時折、“パットー!”“早くぅ~!”といった、開演を待ちきれない声が観客席から上がる。
「すごい熱気だな」
白いシャツに水色のサマージャケットという、いつもカジュアル派の彼にはめずらしいいでたちのキーアンが目を見張ると、隣でローレンスがにっこりと微笑んだ。招待客らしく、彼もまた盛装感のあるブリティッシュ・グリーンのジャケット姿だ。
「アルバムが今月末の発売だからね。みんな、ひと足先に新曲を聴きたいんだよ。観客よりキーアンの方が、もっとドキドキじゃないかい?自分の楽曲が初披露されるんだから」
「ははっ…実を言うと、そのとおりだ。まだ完成形を聴いたことがないから、ドキドキ半分、ワクワク半分ってとこだな。…お、開演だ」
キーアンが苦笑した時、会場が暗転した。ざわめきでいっぱいだった場内が、一瞬でしーんと静まり返った。
暗闇の中で、そのステージはいきなり始まった。
ステージ前面5か所に設置されたスモークマシンから、爆発したかのような巨大なスモークがいっせいに吹き上がると同時に、パーカッションが効き、ドラムスとギターがガツンと腹に響く、<Masquerade>のイントロが観客の耳をつんざいた。次の瞬間、会場じゅうからウワーッというどよめきが湧き、吹き上がり続けるスモークの上に、天井から火の粉に似た、赤とも金ともつかないきらめきが一面に降り注いだ。この効果により、観客の目には、ステージがまるで炎の霧に包まれたように映った。長い前奏が続く中、スモークマシンが止まる。徐々に晴れていく霧。そのむこうに影が揺れ、やがて黒を基調にした衣装に身を包んだメンバー5人の姿が、スポットライトの中にくっきりと現れた。その瞬間、轟きに似た歓声が沸き起こり、無数の指笛の音とともにアリーナじゅうが狂喜に陥った。
「うぉぉ——————!!パット————!!」
「アシュリィィィ——!!」
「ジェイク、かっけぇぞぉぉー!!」
「キャ——ッ!ロジャ———!!ロジャ———!!」
黒いスリムパンツに、シフォン仕立ての豹柄ロング・ブラウスを軽やかに翻し、ステージ最前方に出たパットが歌い始めると、ダンサブルなヒット曲にあわせて観客が手拍子を始める。ブラウスのボタンが全開のため、パットが動くたびに彼の引き締まったボディが覗き、それが場内の女性ファンの熱を更に煽る。歓声、嬌声、パットに合わせた歌声、そして踊りだすファンで、のっけから会場はノリノリだ。続く2曲めの<My Love Goes On>はミディアムテンポのマイナーコードだが、これもチャートでトップ10入りした曲とあって、場内は更に盛り上がった。
合間に短いMCを交えながら5曲歌い終えたところで、パットは手にしていたマイクをいったんマイクスタンドに戻した。続けざまに3曲歌った彼は、少し息をはずませながら暗い観客席に語りかけた。
「みんな!今日は来てくれて、ありがとう!俺たちはここ数か月、ずっとレコーディングスタジオに籠っていた。ライブは久々だから、こうしてまたみんなに会えて本当に嬉しい。もう知ってる人も多いだろうけど、今月末に俺たちのニューアルバムが出る。さっき演奏した<Masquerade>はその中の1曲だけど、今日はもう1曲、みんなに聴いてもらおうと思う!」
パットの言葉に、客席が大きく湧いた。アルバム発売前に、いち早く新曲を聴きたくてライブに訪れたファンも多い今夜だ。再び指笛と歓声の嵐が、会場内を揺るがした。パットは続けた。
「これまで俺たちの楽曲は、メンバーの誰かが作って、それをバンドでアレンジするスタイルが多かった。けど、この曲は俺の友人が作ったんだ。彼はアイルランド人なんだけど、仕事で長くアメリカに住んでいる。故郷には一度も帰ったことがないと言っていた。————この春俺は、そんな彼の部屋を訪れる機会があってね。足を踏み入れたら観葉植物がそこここに置かれていて、その部屋はまるで“緑の島”みたいだった。それで俺は、彼の中に郷愁の思いがあると知った。彼は何も言わないけど、心の中ではやっぱり故郷を思っているんだってね。だから俺は、その思いをイメージして詞を書いた。アレンジもその方向でやったから、今までの俺たちとは違う、新しいものに仕上がっているはずだ。…今夜ここにいるみんなの中にも、故郷から遠く離れている人がいると思う。1人1人が、それぞれの故郷を思い浮かべながらこの曲を聴いてもらえると嬉しい。…じゃあ行くよ!俺たちの最新作!自信作だ!————<Irish Garden>!!」
ステージ中央でパットが拳を高く突き上げると、バンドの背後に大きなスクリーンがするすると降りてきた。同時にスポットライトが落ち、場内は一瞬、真っ暗闇になった。数秒後スクリーン上に、黄金の水しぶきをあげてきらめく滝の映像が現れた。それは少しずつズームアップされていき、やがて一面、白い輝きのトンネルに変わった。トンネルのはるか向こうには、小さな緑の点が見える。緑の映像が数秒かけてゆっくりとズームインされてゆく中で、点は森になり、大地になり、最後にスクリーンいっぱいの青空と、その下に広がる緑ゆたかなアイルランドの丘陵が広がった。
黒い襟つきシャツにゴールドのジャケットを華やかに纏った、ロジャーによるピアノソロが始まる。彼の美しい、さらさらの金髪が流れるがごとく、細かいトリルを柔らかく駆使した繊細なそのイントロは、暖かい春の雨を彷彿させる。16小節めでカイルのドラムスが、リズムという息吹を入れる。更に16小節後、アシュリーのギターが加わると、演奏は春の雨から雲ひとつない青空の景色に変わった。
静まりかえった場内で、パットが歌いはじめる————
A summer breeze dances through the trees
Looking over the green fields
Flocks, herds, stone farm houses under the blue sky
And your smile next to me
夏の風が 緑の野を見渡しながら
木々の間を舞い踊る
青空、牛と羊の群れ、石造りの農家の家々
そして僕の隣には君の笑顔
That’s everything, everything in the sight
それがすべて 目に映るすべて
Peace and grace shower on this place
I’ll say a prayer for each day
This beautiful land be blessed
Till all souls go to their rest
平和と恩寵がここに降り注ぐ
僕は日々のために祈りを捧げよう
この美しい地を護って
すべての魂が眠りにつくまで
2コーラス目に入ると、ステージ上のパットは下手2階の、ローレンスがいるはずの方向へ向きなおった。あいかわらず場内は静まり返ったまま、“王”が描く絵画に聴き入っている。
An old water wheel turning on a stream
As if weaving eternity
A dream of love’s sometimes too far to reach for
But your smile next to me
永遠をつむぐようにまわる
小川の古い水車
愛の夢は 時に遠すぎて手が届かない
でも 僕の隣には君の笑顔がある
That’s everything, everything I ask for
それがすべて 僕が求めるすべて
Peace and grace shower on this place
I’ll say a prayer for each day
This beautiful land be blessed
Till all souls go to their rest
平和と恩寵がここに降り注ぐ
僕は日々のために祈りを捧げよう
この美しい地を護って
すべての魂が眠りにつくまで
2コーラスが終わると、キーアンが苦心したDメロに入る。パットの助言と助けがなければ完成しなかったその部分は、ふたたびロジャーのピアノソロに帰る。シンプルな伴奏の中、パットのちょっぴり甘さを含んだハスキーな声が、大きなビブラートをかけて歌いあげる。
Scent of the air through the nares
A couple of hares around the garden chairs
What a pleasure and treasure we share
鼻をくすぐる大気の香り
庭椅子のまわりにいる野ウサギたち
僕らは喜びと宝物をわかちあっている
Dメロの後はすべての楽器が戻り、メンバー全員によるコーラスで最後のリフレインが繰り返される。コーラスが終わり、ピアノを全面に押し出したエンディングに入ると、スクリーンに映しだされた緑の丘陵が徐々にフェード・アウトを始める。そうしてやがて静かに演奏が終わると、大スクリーンに広がっていた緑の大地もまた静かに姿を消し、会場は再び真っ暗闇になった。
静寂の中で、スポットライトがメンバーを照らしだす。しかし、拍手はひとつもない。ステージ中央で、パットは観客席を見まわした。だが、それでも喝采ひとつ上がらない。ノリの良いアップテンポをウリにしてきたバンドだけに、こんなスローバラードは失敗だったのだろうか。メンバーの胸に、ふと不安がよぎった。が、夢の世界にさそわれ茫然としていた会場が、次の瞬間、我に返った。静寂を一転してぶち破り、耳が壊れるかと思うような爆音に似た拍手、歓声、そして指笛の音が、渦まく嵐となって襲ってきた。これまで何度となくライブをこなしてきたThe Gapだが、こんな地割れを伴う激震にも似た反応は初めてだった。もしも会場が明るかったら、涙している何人もの人々の姿を、メンバーはステージ上からでも確認できただろう。
「GAP!GAP!GAP!GAP!GAP!……」
手拍子に足拍子も加わって繰り返される、GAPコール。2階の招待席からそれを眺めるキーアンの頬もまた、濡れている。彼は、半分にじんで見えないステージ上のパットにむかって、感動で震える胸の中でつぶやいた。
————博愛。…こんな詞を書けるなんて!パット。おまえは、俺の本音を見抜いていたんだな。意地を張ってクリスマスにさえ帰らなくても、俺はいつもどこかであの緑の島へ帰りたがっていた。おまえは何もかもお見通しだった………!