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(18)作曲家デビュー

 翌日1985年1月2日。多忙なスケジュールの隙間を縫って、なかば強引にヒースロー空港へ駆けつけてくれたThe Gapメンバーとコーエンに見送られ、キーアンは予定どおりアメリカへ帰国した。大勢の搭乗客や送迎客が行き交うロビーで、ニット帽と黒いサングラスで変装したパットは、もう親友と呼べる存在になったキーアンの出発に、今にもべそをかきそうだ。航空会社のカウンターでチェックインを終えたキーアンの手を彼は何度も握り、最後にハグして言った。

「キーアン。あの曲の件もあるし、絶対また会おうね!約束だよ?」

「ああ、パット。もちろんだ。じゃあな、みんな!」

「おう、またな!マンハッタンで飲みに行く約束も、忘れないでくれよ」

「色々ありがとうな!」

「気をつけて帰れよ!」

「キーアンさん。本当にありがとうございました!」

口々に別れを惜しむ彼らに笑顔で手を振りながら、キーアンは出国検査場を抜けて行った。





 ニューヨークに帰着した翌日、キーアンが国連本部ビルへいつも通り出勤すると、さっそく事務総長室から呼び出しがかかった。

 「能力開発室の、キーアン・オブライエンです。失礼します」

事務総長室のどっしりとした重厚な扉を開けると、白髪に銀ぶちの眼鏡が上品な雰囲気を醸しだすデ・クレヤル氏とともに、大きな黒革ソファーの上には連隊長ウォーレスの姿もあった。

「やあ、キーアン。せっかくのクリスマス休暇を返上させて、すまなかったね。まあ、掛けてくれたまえ」

デ・クレヤル氏に勧められたキーアンは、言われるままウォーレスの向かいに腰かけた。

「それで、どうだった?バンドは無事にライブを終えたようだが」

キーアンが腰をおろすと、待ちかねたようにウォーレスが口を開いた。

「ええ。テロの方は、予告の影すらありませんでしたよ。だがブリストルの一件が、宙に浮いたきりです。手掛かりが何もなく、捜査が難航を極めているとか。まあローレンスの透視をもってしても、何も判らなかったくらいですから」

「…ブリストル以外で、何か気になったことは?」

あらためてウォーレスが問いかけたところへ、デ・クレヤル氏の秘書であるステファニーが、コーヒーを3人分運んできた。既に50に手が届きそうな女性だが、女優ヴィヴィアン・リーをショートヘアにした感じの、相当な美人である。彼女がテーブルに置いてくれた白いカップを取り上げながら、キーアンは答えた。

「ありましたよ。と言っても、テロとは直接関係ないが————バンドのアシスタント・マネージャーで、イアン・マーフィーという男がいましてね。奴には麻薬密売の噂があると、パットから聞いてはいたんだが…打ち上げの夜、ルークと一緒にその現場に出くわしちまいましたよ」

「…イアン・マーフィー?」

キーアンが口にした名前に思わず足を止めて振り返ったのは、トレイを手に立ち去りかけていたステファニーだった。

「どうしたね?ステファニー」

どっしりとした大きなデスクからデ・クレヤル氏が尋ねると、美人秘書は慌てて首を振った。

「いえ、何でもありませんわ。きっと私の思い違いです」

ステファニーは作り笑いをしてそう答えると、一礼して退室した。





 パットがキーアンの部屋を訪ねてきたのは、それから3か月ほどが経った、4月初めの夜だった。何の前触れもなしに突然現れた大スターの姿に、インターフォンを覗いたキーアンは、目を見開いて固まった。

「…おまえ、パットか!?」

黒いキャップをかぶり、黒いサングラスとマスクで顔を隠した若い男がパットだと、キーアンは一瞬見分けがつかなかった。キャップの隙間からラベンダー色の前髪が覗いていなければ、そのまま追い返したかもしれない。

「まったくもう。どこの変質者かと思ったぞ?まあ入れ」

「久しぶりだっていうのに、その言い草はないだろ。レコーディングが始まったんでね。先週こっちへ来たんだ。…お邪魔しまーす」

玄関先でマスクをはずしながら、相変わらずのパットは鷹揚に笑った。さして広いとは言えないリビングに足を踏み入れると、白い壁に白木のサイドボード、その上に乗っているテレビ、1人用のソファー。あとはキッチンカウンターの横に、白木の小さなダイニングセットがあるだけの、すっきりとシンプルなLDKが現れた。余計な飾り物はいっさい無いが、それでも寂しい印象を受けないのは、大小の観葉植物と、緑のカーテンが彩を添えているせいだろう。

「へえ…君らしい部屋だね。植物がいっぱいあって、なんかホッとする」

「バンドのみんなは元気か?ああ、その辺に適当に座ってくれ。…紅茶でいいか?なんならレッドエールもあるが」

キーアンがキッチンから声をかけると、ガジュマルのポットが乗ったダイニングテーブルの前に腰かけたパットは、いたずらっ子のようにニッと笑った。

「おかげさまで、みんな元気だよ!紅茶をもらうよ。まだ仕事が残っているんだ。レコーディングの合間に、こっそり抜け出して来ちゃったからね」

「いいのか?そんなことをして」

キッチンの戸棚からマグカップを2つ取り出したキーアンは、苦笑半分で白いアイランドカウンター越しに大スターを見やった。すると彼は、着ているGジャンのポケットから四角い何かを取り出した。

「うん。————君に、これを渡したくてさ」

「カセットテープ?」

「例の曲だよ。とりあえずオケ(※)ができたから、聴いてほしくてね。バンドアレンジでだいぶ印象が変わったけど、気に入らなかったらはっきり言ってくれよ。CDの方が音質いいけど、君がCDプレーヤーを持っているか分からなかったから、カセットにした。歌詞は、いま考えてるとこ!」

 音楽業界では1982年にCDが登場したが、専用のプレーヤーを必要とするそれが世の中に定着するには時間が必要だった。1985年のこの時期は、音楽関係者ならばともかく、一般的にはまだまだレコードやカセットテープの使用が多かった。

「それはわざわざすまなかったな。ありがとう、さっそく聴かせてもらうよ」

湯気のたつ紅茶のマグをパットの前に置いたキーアンは、いったん寝室へ下がると、黒いポータブルのラジカセを下げて戻ってきた。キッチンカウンターの上にそれを置き、カセットテープを入れた彼は、スタートボタンを押した。


 ピアノソロの、ゆるやかなイントロが流れはじめる。春を思わせるイントロだ。16小節めでドラムスが加わり、曲に息吹が入る。さらに16小節めで光のシャワーが降り注ぐようなギターが加わり、ベースが厚みと深みを加える。メロディーはキーアンが作ったそのままなのに、バンドによるアレンジと演奏で曲は洗練され、完全に化けた。ひとり草笛で奏でていた時には無かったリズムやハーモニーを得た曲は、強い生命力と、きらめく魅力と、大きな包容力をまとい、まるで別物だ。それはあたかも巨匠が描いた美しい風景画を音にしたかのようで、聴く者を惹きつけずにおかない。



————なんだ、これは……本当にあの曲なのか?



オーロラの瞳を見開いたキーアンは、身じろぎもできずに立ち尽くしたまま、カセットデッキから流れてくる曲に聴き入った。どうやら気に入ってもらえたようだ。小さなダイニングテーブルで紅茶のマグを手にしたパットは、ちょっと何かを考えこんだあと、どこか意味深な、しかし春色の(オーラ)がいっぱいに満ちた、優しい笑みを浮かべた。



 翌朝。出勤したキーアンは、本部ビルの地下にある能力開発室の部屋に入ると、透視班メンバーのブースが並ぶ一角へ向かった。行き交う人々やパーテーションの間をぬってローレンスのブースへ辿りついた彼は、夕べパットが訪ねてきたことを、今日もミニチュア・シュナウザーの愛犬連れで出勤した青年に話した。

「ああ、パットなら僕の所にも先週来てくれたよ。ロンドン市内は相変わらずテロ予告が忙しいけど、バンドはあれ以来何事もなく、みんな元気でやっているみたいだね」

片手に愛犬を抱き、もう片方の手で黄色い小型キャリーケースをデスク下に入れながら、ローレンスはいつものように穏やかに微笑んだ。

「そうらしいな。パット個人にもあれっきり何事もないようだし、バンドは当分レコーディングに専念。ライブが無いから、テロの心配はないだろう。あとはブリストルの犯人が捕まれば一件落着なんだが、な」

キーアンが小さくため息をつくと、ローレンスは人好きがする、やさしい印象の瞳を曇らせた。

「そうなんだよね。空港なんていう大勢の人々が集う場所だったんだから、目撃情報のひとつくらい浮上してもよさそうなのに。3か月以上が過ぎた今になっても、まったく手掛かりがないというのがね。…ここまで徹底して何もないと、むしろなんだか不自然な気がするんだ。でも、僕のサイコメトリーでも不審な点は皆無だったから、何も言えないんだよね————」

どうもおかしいと言いたげなローレンスに、キーアンは無言で、だが大きくうなずいたあと、ふと思いだしたように尋ねた。

「それはそうと、ローレンス。訊きたいことがあるんだが」

「うん?何だい?」

「おまえ、バンドのアシスタント・マネージャーを知っているか?イアン・マーフィーという男だ」

「イアン?初めて聞く名前だなあ。会ったことも、話に聞いたこともないよ。クリスなら何度も会ってるけどね」

愛犬を膝に乗せたローレンスはシナモン色の髪を揺らして首を傾け、ちょっと考えこんでからそう答えた。

 パットは、胡散臭いイアンを嫌っている。ローレンスを愛するパットが、イアンを彼に紹介しない、つまり近づけようとしなくても当然だろう。

「その人が、どうかしたのかい?」

キーアンを見上げて尋ね返すと、彼の表情は少し硬かった。



————打ち上げの夜に見たことを、ローレンスに話すべきだろうか。事情を話して、イアンを透視してもらうべきだろうか。



あの夜のことがどうにも気になるキーアンは、迷った。だが、イアンの麻薬密売は偶然の目撃。それ自体の調査は、任務でも何でもない。たとえ密売が事実だとしても、自分が首をつっこむべき理由は何もないのだ。第一この件は、上司であるウォーレスやデ・クレヤル氏に報告済みだ。ならば上からの指示を待つのが筋だろう。必要と判断されれば、ウォーレスから必ず透視依頼があるはずだ。気になるからといって、個人の感情で動いてはならない。

「…キーアン?」

オーロラがゆらめくような瞳で自分を凝視し、考えこんでいる同僚の名を呼ぶと、彼はハッとして我に返った。

「いや。なんでもない。ちょっと個性的な奴だったから、訊いてみただけだ」

彼はそう取り繕うと、馬のしっぽのように束ねた、長い赤茶の髪をなびかせてその場を後にした。



 それからしばらくの間、キーアンの生活は多忙を極めた。ソ連のトップがゴルバチョフに交替したこの年、軍拡の一途だった東西冷戦は、急速に軍縮と終結の方向へ傾いた。その一連の絡みで、キーアンたち近衛(ザ・)連隊(ガーズ)も、5月末に東ベルリンへ赴くことになったためだ。

かの地でソ連の元隠し部隊、サイコ・スペツナズを相手に激闘を繰り広げ、任務を終えた一行が帰国したのは、6月初めだった。



 東ベルリンから戻ったキーアンが住み慣れた部屋の灯かりをつけると、ソファー脇のサイドテーブル上で、留守番電話のランプが点滅していた。録音メッセージを再生してみると、1週間ほど前にパットが残したものだった。伝言を聞いた彼は、すぐに折り返しの電話をかけた。

 「…もしもし、パットか?俺だ」

「キーアン!なかなか掛かってこなかったから、どうしたのかと思ったよ」

「ああ、悪い。仕事で東ベルリンへ行っていたんだ。いま帰ってきたところだよ。どうした?」

「そうか。忙しいのに、ごめん。…実はさ、例の曲が完成したんだよ。歌になったの!」

「歌詞が入ったってことか?」

「うん。歌入れも済ませた。それで出来上がったデモテープを、先月みんなに聴いてもらったんだ!」

受話器のむこうで響くパットの声は、いつになく興奮ぎみだ。

「そしたら、ものすごく好評でさ。ライブ楽曲で終わらせるのはもったいないって、次のアルバムに入れることになったんだ!君、作曲家デビューだよ。おめでとう!」

「な…なんだって!?なぜ、そうなった!?」

キーアンがオーロラの()をむくと、パットは事のあらましを説明してくれた。

「アルバムってさ、ひとつのテーマで10曲くらい入れるだろ。今回のやつは“Real() Feelings()”がテーマで、年頭に発表した<Masquerade>がその中心楽曲。残りはこれまで書きためてきたストックやら、新たに作ったヤツやらで、わりとすんなり決まった。ところが————」



 4月なかばを過ぎたその日、機材がならぶレコーディング・スタジオで、パットを除くThe Gapメンバーたちはプロデューサーのフィリップを囲んで、アルバムに収録する最後の1曲の選考に苦慮していた。

『……<Be Yourself>なんだが、B面の中心にするには弱い気がするんだ。もっとこう、A面の<Masquerade>に並ぶ超キャッチーな、シングルカットを狙えるヤツが欲しい。それも、いかにもThe Gapという雰囲気の<Masquerade>とは、ガラッと違う作風のヤツ!……たとえば10曲め予定の<Starry Dune>はエキゾチックで、今までにない味がある。だがキャッチーかと言われると、そこはラスト曲だから抑え気味だ。強烈なインパクトを持つ、それでいて新しいThe Gapが感じられるヤツが欲しい』

細身で禿げ頭のプロデューサーは、候補曲リストを手に難しい顔つきだ。それに対してバンドのリーダーであるアシュリーは、緑とピンクに染めた頭を掻きながらため息をついた。

『フィリップの言う通りだ。確かにあと一曲、ガツンとした楽曲(ヤツ)が欲しい。だが、言うは易し…だ。作ることはいくらでもできるが、ガラリと違う作風となるとなあ……』

『だよなあ。傾向ってのが、どのバンドやアーティストにもあるもんなあ。新鮮さってやつが、いちばん難題だ。だが、こいつが無いと話にならない。同じような作品ばっかり発表しても、飽きられるだけだ』

アシュリーの隣で、ロジャーもキラキラの金髪頭を抱えた時だった。不意にスタジオのドアが開き、息を切らせてパットが駆け込んできた。

『おう、パット。遅かったじゃないか』

フィリップが振り向くと、彼はGジャンのポケットからカセットを取り出した。

『悪い、フィリップ。ちょっと歌入れに手間取っちゃってさ。…みんな!ともかくこのデモを聴いてくれよ!この間、ライブ用楽曲のオケを作っただろ?あれに歌詞をつけて、歌を入れてみたんだ』

『キーアン作曲の、あれか?』

カイルが尋ねると、デッキにテープを入れながら、パットは大きくうなずいた。

『うん。まだコーラスとか入っていないけど、メロディーと雰囲気は伝わると思う。まあ聴いてよ』

いつになくやたら早口のパットが、忙しない仕草でデッキのスタートボタンを押すと、美しいピアノソロのイントロが流れ始めた。


 『なっ…なんだよ、これ………』

聴き終わると、メンバーもフィリップも目をむいた。

『すげーでっかい世界を感じるメロ!そのメロに、めっちゃハマッた歌詞!しかもこんなスローなのに、韻が効いたリフがキャッチー!————っつーかこれ、新しいラブソングだぜ!?パット。おまえ、よくこんな歌詞を書けたな。おまえがラブソング書く時って、失恋系ばっかだったのによ』

目をまるくしたアシュリーがパットを見やると、彼は太陽のように笑った。

『キーアンのメロのおかげだよ。彼のメロディーが、俺を誘導してくれたんだ。俺ひとりだったら、とてもこんな歌詞は思いつかなかった』

『こいつはいけるぜ!ライブ用で終わらせるの、もったいねーよ。…なあ、フィリップ!アルバムのラスト1曲、これにしようぜ?新鮮かつキャッチーっていう、さっきの条件にピッタリじゃん!』

逆立てた真っ赤な髪と同じくらい、興奮で顔を紅潮させたジェイクが禿げ頭プロデューサーの顔を覗きこむと、彼の目も見開かれ、輝いていた。

『ああ。確かに今までのThe Gapには無かった雰囲気だ。スローバラードというのも、おまえたちには珍しい。いいと思う!』



 「…というわけでね。来月初めのロンドンライブで、初披露の予定だよ。完パケ(※※)に————どんな歌になったかは、その時までヒミツ!招待券と航空券を送るから、ちゃんと有休申請しといてよ、キーアン!」

電話むこうで次々と語られる夢のような話を、キーアンはなかば茫然として聞いていた。



(※)歌モノの楽曲からヴォーカルを除いた音源のこと。オーケストラの略

(※※)完全パッケージの略

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