(17)血の金曜日事件
北アイルランドの中心都市であるベルファストという街は、やがて1998年に“ベルファスト合意”を実現させ、北アイルランド問題を決着させる場所になる。が、キーアンたちが向かった1972年当時、この街はIRA暫定派が対英抗議行動としてテロ攻撃を展開した、まさにその中心地であった。
ベルファスト中心部を走る、グロブナー大通り。茶色と白の配色が目を惹くグランド・オペラハウスが建つ大通りだが、その一本南側にグレンゴール通りという通りがある。ベルファスト一のバスターミナルであるヨーロッパ・バスセンターは、その一角を占めていた。市内を走るほぼすべてのバスがここに発着し、国際空港行のリムジンやダブリンからの国際バスが発着するのもこのバスセンターだ。周辺にはホテルや飲食店、ショッピングモール、スーパーマーケット、書店などが軒を連ねる繁華街だ。国際列車エンタープライズ号や、北アイルランド各地をつなぐ列車が発着するベルファスト・グレート・ヴィクトリア・ストリート駅がこのバスセンターに隣接しており、ここは文字通りベルファストの陸の拠点といえる大ターミナルだった。
キーアンとコリーンを乗せた青い国際バスがヨーロッパ・バスセンター前に到着すると、2人はすぐにバスセンターの構内へ入った。白とブルーを基調にした構内は各地から到着したバスや乗客や送迎客で、田舎育ちの2人が見たこともないほどの大混雑ぶりだった。ひっきりなしの発着アナウンス、各国語が混じった人々の話し声、急ぎ足で歩いていく靴音、スーツケースを忙しく転がす音。生まれて初めて経験する大混雑とざわめきの洪水の中で、キーアンはコリーンを庇いながら、まず旅行センターを探した。まったく初めての街だったからタウンマップが欲しかったし、何より当座の宿を確保しなくてはならない。
『コリーン、大丈夫か?夕べも野宿同然だったし、無理させちまってるよな。早く宿をとって、休もう』
『大丈夫よ。キーアンこそ疲れたでしょ?』
コリーンは笑ってみせたが、彼女は今、刻一刻と体内に変化が生じている妊婦だ。こんな逃亡劇が負担でないはずがなく、その顔には疲労の色がありありと浮かんでいる。人混みを時にかき分けながら、ようやく旅行センターを見つけた2人はマップをもらい、それから宿について尋ねた。この時点で、時刻は14時30分。IRAが仕掛けた爆弾が、市内のあちこちで次々と爆発していることを、2人はまだ知らない。
『あの、今夜から1週間ほど連泊できる、安い宿を予約したいんです。B&Bでも、何でも構いません』
旅行センターのカウンターでキーアンが言うと、応対してくれた小太りの女性スタッフは、自分の子供と同世代の少年を見やって、ちょっと硬い口調ながら親切にこう教えてくれた。
『宿泊の手配はあっちの窓口よ。でも14時過ぎに、スミスフィールドのバスステーションでテロがあったの。その数分後にブルックウェルホテル、それからヨーク・ストリート駅でも爆発があったと連絡が入っているわ。それで今、市内のあちこちが大混乱なの。バスも電車も閉鎖している路線があるから、宿が取れても、すぐの移動は無理かもしれないわね。しばらく様子をみることを勧めるわ』
女性の言葉に、キーアンとコリーンは思わず顔を見合わせた。
旅行センターを出た2人は、途方に暮れた。妊婦連れの見知らぬ土地で、いきなりのテロとくれば無理もない。旅行センターの女性はしばらく様子見をと言ったが、果たしてどれくらい待てばいいのか。混雑する構内で、キーアンは白い壁に掛けられた時計を見上げた。
『2時35分か……1時間くらい様子を見ようか。どこか座れる場所を探して…コリーン!?』
彼がそう言いかけて振り向いたとき、コリーンはタイル張りのフロアにうずくまっていた。
『どうした!?』
構内の混雑に蹴飛ばされないよう、コリーンを壁際へ連れて行ったキーアンは、心配そうに彼女の顔を覗きこんだ。疲れと、ひしめきあう人々の匂いで気分が悪くなったのか、彼女は顔色を失っている。
『気持ちわるい……』
『無理のさせ通しだもんな。ごめん。とりあえず、あそこのソファーに座らせてもらおう』
バスの発券所近くに待合用の黒いソファーを見つけたキーアンは、ふらつくコリーンを支えながら彼女をソファーへいざなった。崩れるようにベンチに腰かけたコリーンだったが、じきに血の気が引いて真っ青になった顔を上げた。
『やっぱりだめ。吐きそう……トイレに行ってくる…わ』
『あ…ああ。トイレは……そうだ、さっきの到着ゲート近くにあったな。行こう』
彼女を抱き起したあと、キーアンは両腕に旅行鞄を持ち直した。するとコリーンは、かすかに首を横に振った。
『ひとりで行け…るわ。キーアンはここで……荷物を見ていて』
『……大丈夫なのか?』
キーアンが眉を寄せて心配そうに尋ねると、彼女は頷いてみせた。口元をタオル地のハンカチで押さえたコリーンは、ふらつきながら立ち上がるとゲートの方へ歩き始めた。ジーンズに白いカーディガンをまとった彼女の細い背中が、混雑する構内の人波に紛れていく。その姿を見送るともなしに見送るキーアンの胸に、その時ふと祖母の言葉がよぎった。
“くれぐれも気をつけてお行き。何やら胸騒ぎがするからね……”
『コリ……』
ハッとして顔を上げた彼は恋人を呼び止めようとしたが、その姿はもう混雑の中で見えなくなっていた。しかたなく彼は2つの旅行鞄を床に置くと、ベンチに座り直した。それから5分ほど経っただろうか。旅行客がひしめくバスセンター内を、突如鋭い閃光のようなものが包んだ。同時に、鼓膜がやぶれるかと思われるほどの大きな爆発音が響き渡り、キーアンは頭上に大きなレンガが落ちてきた時のような衝撃をおぼえ、そのまま気を失った。
そこまで話し終えたキーアンは、広いリビングを照らしだす銀河のオブジェのようなシーリングライトの下で、自分の両眼を右手で覆った。向かいのソファーに座っているパットは、一言も発しなかった。40畳ほどもある空間に十数秒の沈黙が流れたあと、再びキーアンが口を開いた。
「……それが“血の金曜日事件”————世間でそう呼ばれている、IRAの集中テロの日だったんだ。バスセンター内に停めてあった車に、爆弾が仕掛けられていたらしくてな。到着ゲート近くのトイレに入ろうとしていたコリーンは、建物ごしに直撃を受けた。吹き飛ばされ、フロアに叩きつけられた身体の上に瓦礫が雨のように降り注いだとかで、体面した遺体は焼け焦げや損傷だらけ。そりゃあひどいものだった。………俺のこの眼も、その時の強烈な爆風にやられたんだ。以後、瞳孔が正常に開閉しない」
血の金曜日事件。それはIRAのテロ史上でも、もっとも過激かつ大規模な爆破事件のひとつだ。7月12日14時10分、スミスフィールドバスステーションで爆発したのを皮切りに、14時16分にブルックヴェイルホテルで。14時23分にヨーク・ストリート駅で。更に14時45分にはクラムリン通りで。14時48分にはオックスフォード通り。および同時刻にヨーロッパ・バスセンターでと、わずか80分間のあいだに市内20か所で次々と爆弾が爆発した。ほとんどが車爆弾だった。キーアンたちがいたヨーロッパ・バスセンターでは、この爆発でゲートに停車していた4台のバスが大破。現場に居合わせた多数の人々が巻き込まれた上、周辺地域にも少なからぬ被害を及ぼした。
「俺の子を腹に抱えて、コリーンは死んじまった。結局俺は、彼女に何もしてやれなかった。躊躇する彼女を説きふせて抱き、妊娠させて、最後はベルファストなんてテロの中心地へ連れていって、赤ん坊ごと死なせちまった!IRAのことは聞き及んでいたのに、自分たちだけはという甘い考えがどこかにあった!……コリーンと赤ん坊……俺が2人を手にかけたも同然だ。この眼は、俺の身勝手に対する天罰なんだ!」
誰にも語ったことのない過去を語り、キーアンのオーロラの両眼から涙がこぼれた。コリーンの死から12年。あの日以来はじめて流した涙に、自分の中にまだこんなものが残っていたのかとキーアンは思った。
「パット。クリスマスの日、おまえに訊かれたな?どうして国へ帰らないのかと。————そういうことなんだよ。帰れるわけない!コリーンを妊娠させて、兄貴が苦労して行かせてくれた高校をやめて、家族ごと捨てるようにして逃げ出して、あげく赤ん坊ごとコリーンを死なせて……自分の家族にもコリーンの両親にも、どの面さげて会いに戻れる!?」
右の手で両眼を隠して言うと、パットはピクリともせず、無表情で尋ねた。
「…そっか。そういうことだったんだね。でもそれじゃ君は、それからベルファストでどうしたの?」
「コリーンを共同墓地に埋葬したあと、街はずれにボロの空き家をみつけて…独りそこに棲みついた。金のために色んな“仕事”をしたよ。物理的能力を悪用して、身なりのいい奴のポケットから財布をすり取ったり、カツアゲしたり。同じように盗みを生業にしている浮浪者や不良どもと、縄張り争いでよく殴り合いもした。コリーンを失った悲嘆と、絶望と、落胆でヤケクソになっていたから、ロクな生活じゃなかったぜ。そうして半年ほど経った頃、コール局長が俺を訪ねて来たんだ」
「コール局長?」
パットがラベンダー色の前髪を揺らして首を傾けると、キーアンはようやく顔を上げ、濡れた頬を拭いた。
「国連の保安局長だよ。でっぷり太って腹の出た紳士だが、今よりはましな体型だったな。ある日彼がやって来て、言ったんだ。こんど国連では特殊能力開発室という、能力者のための部署を設けることになった。君の物理的能力は確かだ。ニューヨークへ来る気はないか、とね」
「君はそれを受けたんだ?」
「迷う選択肢はなかったな。俺は金が欲しかったし、ちゃんとした職も欲しかった。何よりも、悲しみしか残らなかったアイルランドから離れたかった。俺にとってコール氏の申し出は、願ってもない話だった。以来、ずっとアメリカさ」
「…帰っていないんだ?一度も?」
「ああ」
キーアンは、瞳を伏せて答えた。