(13)ゲッシュ
「————さよなら」
コバルトブルーの瞳から涙が溢れたかと思うと、次の瞬間パットは、キーアンに向けていた銃口の向きをくるりと変え、自分の頭に当てた。そして彼は、迷わず引き金を引いた。
カチッ。
しかし銃は、引き金の音がしただけだった。
「!?」
2度、3度とパットは引き金を引く。だが同じだった。銃はカチカチと引き金の音がするばかりで、肝心の弾が発射されない。
「ど…どうして……」
ピストルをまじまじと見つめるパットに、キーアンは着ている黒い革ジャンの右ポケットに手を突っ込むと、中から金属の塊を取り出して見せた。
「弾なら、ここにあるぜ」
「!な…なぜ…」
「パット。俺も言ったよな?俺が特殊能力者だということを、ゆめ忘れるなと。————物理的能力ってのは、物を動かしたり、浮遊させるだけじゃないんだぜ。物体送信ってやつもあるんだ。こいつはな、物体を異空間経由で別の場所へ送り込んだり、逆に自分のもとへ取り寄せたりできる。おまえが喋っている間に、弾は全部抜き取らせてもらったよ」
その言葉を聞くや、パットは手織りのシルクカーペットを敷き詰めた床の上にへなへなとへたりこんだ。
「そ…そんな……それ反則だよ、キーアン。最後の手段を取り上げられて、俺…どうすりゃいいんだよ………」
象牙色のカーペットに両手をついてうなだれると、キーアンがつかつかと歩みよってきた。彼はパットの前で、片膝を立ててしゃがみこんだ。
「いいだろう。おまえがそこまでローレンスに知られたくないと言うなら、俺はドルイドの末裔の名にかけて、誓いを立てよう。“俺キーアン・オブライエンは、友人パット・ベイリーが従兄ローレンス・ベイリーに対して抱いている秘めた思いを、生涯他言してはならない”————」
驚くパットをオーロラの瞳に鮮やかに映して、キーアンの形のよい唇が神聖な誓約を唱えた。
「誓いを立てるなんて、十何年ぶりだが…これで俺は禁忌に縛られた。おまえにとっては無意味なことかもしれないが、俺にとって誓いは神との契約。不可侵だ」
「お…俺、牧師の息子だよ。宗教は違っても、主の神聖と、その契約の重みは理解してる…よ。だけどキーアン。どうしてそこまでしてくれるの?俺、君に銃を向けたんだぜ?君を殺そうとしたんだぜ?」
コバルトブルーの瞳から溢れてくる涙を拭いもせずにパットが見上げると、キーアンはやさしく目を細め、夢見草がほころぶように微笑んだ。
「おまえに人を殺められるとは思えないな。そんなタチじゃない。まして、おまえほどの有名人がそんな事件を起こせば、世は大騒ぎだ。しかも俺は、おまえの従兄の同僚。そいつを手にかけたとなりゃあ、ローレンスへの影響は“類が及ぶ”なんて程度じゃすまなくなる。あいつは一瞬でマスコミの餌食だ。しかも従兄が自分の同僚を殺すなんて、善良を絵に描いたようなあいつがどれくらい苦しむことになるか……そこを考えないおまえじゃないだろ。となりゃ、おまえが撃つのは自分自身しかない。そんなことは、最初から解っていたさ」
「な…何もかもお見通しなんだね、キーアン…君は俺のこと、ちゃんと見てくれてるんだね。ステージとか画面とかの、表面だけじゃなくてさ。俺がこんな泣き虫でも、カッコ悪くても、君は変わらずあったかい。だから好きなんだよ、キーアン…うええ~~ん……」
泣きじゃくりながら、パットは更に言葉を続けた。
「お…俺…ひとつだけ、君に嘘をついた……15で男とキスするまで、自分に男色の気があるとは思ってなかったって言ったけど……嘘なんだ。ほんとは、ほんとは…さ。その前から自覚してた。さすがに小学生の頃は、純粋にローレンスを兄貴として慕っていただけだった。でも、中学に入った頃からそうじゃなくなっていって……自分が怖くなった。それで…そんな考えから抜け出したくて、バンドを応援してくれる女の子の1人とつきあい始めたんだ。もちろんその子のことだって、好きだったよ。綺麗な子だったし、バンドや俺を一生懸命応援してくれる、いい子だったしね。けど、やっぱり俺の頭の中にはいつもローレンスがいて……デートしてる最中でも、いま隣にいるのがローレンスだったらなって、どうしても思ってしまった。大人になってからも、誰とつきあっても、ずっとずっとそうだったんだ。だから彼とつきあう女性が、いつもうらやましくて…いつか彼が結婚なんてしたら、俺は嫉妬でその女性を呪い殺すんじゃないかって思ったこともあるよ………」
誰にも明かしたことのない、秘め続けてきた胸の内を、パットはひっくひっくと泣きながらキーアンに語った。キーアンは何も言わず、夜道に迷った小さな子供のようなパットを前に、床にしゃがみこんだままそれを聞いてやった。
翌12月31日。1984年大晦日であり、キーアンにとってはThe Gapとの契約最終日。この日もバンドは、普段に比べれば緩やかであるが、それでもスケジュールは詰まっていた。午前中は、いつものスタジオでアルバムの打ち合わせ。昼から夕方にかけては、時差で早々に新年を迎えたアジア、オセアニア地域の、新年カウントダウン特別番組の生中継が2本と、新年に発売される雑誌の表紙撮影およびインタビュー。そして夜は、22時から地元BBCの特別番組に出演だ。
「はい、着替えて、着替えて!次の撮影、アシュリーはこのモスグリーンのレザーパンツに、グリーンのタートル。ジェイクはこの赤いセットアップに、サンタの帽子ね。あ、パット!そのジレはロジャーのよ。あなたはこっちのチェスターコート!」
1本めの生中継で新曲《Masquerade》を演奏したあと、撮影スタジオへ移動したバンドは、スタイリストの指示に従い慌ただしく着替えた。時間どおり終わらせないと、この後にインタビュー、そして2本めの生中継が待っている。パットもキーアンも、昨夜の出来事を振り返る間もなく時間に追われている。ようやく落ち着いたのは、BBCの特別番組で新年カウントダウンが終了したあと。1時をまわって、帰宅したあとだった。
「あーやれやれ。やっと1年が終わったあ!」
メイクも落とさず、出演衣装そのままに帰宅したパットが、広いリビングに入ったとたん、肩の荷を下ろしたというように伸びをする。
「ははっ…けど、どうせ今年も忙しいだろ?」
脱いだ革ジャンを、ベージュ色の革ソファーの背もたれに掛けながらキーアンが笑うと、パットは口をとがらせた。
「そうだけどさ。1年が終わったとたん、次の1年のことなんて言わないでよぉ。まあ前半はレコーディング中心で、スタジオにお籠りだね。そういう意味じゃツアー一辺倒だった去年とは、忙しさの内容が違うかな。…あ、ねえ。新年だしさ。乾杯しようよ!ちょっと待ってて」
美しいコバルトブルーの瞳まわりに、ゴールドのラメ入りアイメイクそのままのパットは、そう言うとダイニングへ姿を消し、1パイント入りの赤い大缶ビールを片手に2本ずつ持って戻って来た。
「はい、キーアン。レッドエール!君はこれが好きだって言ってたから、エマに買っておいてもらったんだ」
八角形のガラス天板が個性的なソファーテーブルの上に、彼はゴトッと音をたてて4本の大缶ビールを置いた。そして取り上げた1本を、テーブル越しにキーアンに差し出した。
「いや、俺は……」
キーアンが任務中だと断ろうとすると、パットは人さし指をたて、左右に振りながらチッチッと笑った。
「もう年が明けたよ?君の任務は完遂してる!…ほら、飲もうよ」
「…そうか。そうだったな」
いま気づいたというように笑ったキーアンは、うなずいて赤い缶を受け取った。
「A happy new year!」
2人はコン、と缶を合わせたあと、ビールを飲んだ。キャラメルに似た香りが鼻をくすぐり、どこか甘さを含んだ、だがしっかりとした苦みのある液体が舌の上を滑る。グラスに注いでいたなら、美しい琥珀の色も楽しめただろう。
「…やっぱり俺はこれだな。美味い」
満足げにキーアンがつぶやくと、パットもなつかしげに語る。
「俺も、昔はよくアシュリーがバーテンやってたパブで、ペールエールを飲んだよ。サンドイッチバーでの仕事が引けたあとの、それが楽しみだったんだ」
「へえ。ワイン党かと思ったら、ビールも飲むのか」
「飲むよぉ。パブと言えば、まずビールじゃないか。古いランプが灯った店内で、気のいいおじさんたちの大きな笑い声と、煙草の煙と、ビールの匂いに囲まれてさ。……アシュリーはね。デヴィッド・ボウイの盟友でギタリストの、ミック・ロンソンの大ファンでね。俺はといえば、ボウイがヒーローだっただろ。それで話が盛り上がってさ。同い年ってこともあって、一気に仲良くなったんだよ。以来、毎日のように2人でカウンターを挟んで音楽談義!あれは楽しかったなあ。時にはアシュリーの、当時のガールフレンドも顔を出したりしてね。週末なんかだと、そのまま3人で閉店まで飲んで、喋ってたよ」
目を細めて思い出を語ったパットは、それからふと思いだしたようにビールを飲む手を止め、キーアンを見た。
「…そういえば、例の噂。君と、君のガールフレンドに迷惑かけてない?」
「迷惑?」
キーアンが不思議そうな顔をすると、パットは安心したように笑った。
「俺との噂が原因で、君のガールフレンドに余計な誤解をさせたんじゃないかって、心配だったんだ。でも、その様子なら大丈夫なんだね。よかった!」
パットの言葉を聞いたキーアンは、一気に缶ビールを飲み干すと、大理石のセンターテーブルの上から2本めの缶を取り上げた。プシュッ、と音をたてて缶を開けた彼は、それも一気に半分ほど飲んだ。久しぶりのアルコールが体内を駆け巡り、それが彼をほんの少し饒舌にさせたかもしれない。
「彼女は…コリーンは………もういないからな。誤解のしようがない」
キーアンはポツリと答え、それを聞いたパットは笑顔を消して、真顔になった。
「いない…って?」
「死んだんだよ。もう10年以上も前に」
赤いビール缶を見つめてそう言ったキーアンに、パットは一瞬凍ったような表情をした。が、すぐにふうっと息を吐いてから、苦笑した。
「そっか。やっぱり————か」
「やっぱり?」
キーアンが怪訝そうな顔をすると、人気ヴォーカリストは率直に指摘した。
「妙だと思ってたんだよ。君と同じ部屋に寝泊まりしても、仕事で一緒に行動していても、君が電話をかける先といえば国連本部だけ。いくら任務中とはいえ、恋人なら朝昼晩、電話してもおかしくないのにさ。だけど聖誕祭の日にさえ、君にはそんな素振りが無かった。もちろん彼女の方からかかってくることも無かった。…あまりにも恋人の影が無さすぎて、不自然だったもん」
鋭く突っ込まれて、キーアンはオーロラの瞳を大きく見開いた。すると、銀河のオブジェのようにきらめくシーリングライトの光を吸いこんだ瞳の中に、いくつもの色彩が一瞬ゆら~っと揺らめいた。
「は…敵わないな。おまえ、やっぱり洞察力がハンパじゃない」
そうして30秒ほど間をおいたのち、キーアンはほうっと溜息をついた。白い天然大理石の床に視線を落とした彼は、近衛連隊の仲間にも明かしたことのない過去を、重々しい口調で語りはじめた。