(11)透視調査
12月29日、朝。前庭の一角にある駐車場で、パットが愛車の赤いジャガーに乗り込もうとすると、ロートアイアンの門前へ1人の少年が駆け寄ってきた。
「パットさーん!」
その声に、助手席に乗り込もうとしていたキーアンがまず振り向き、同時にパットも顔を上げた。すると、15~6歳だろうか。クルミ色の髪に、薄汚れたオリーブ色のジャンパーを着た少年が門扉にしがみつき、必死の形相で懇願した。
「パットさん!僕、あなたの大ファンなんです。サインを頂けませんか!」
少し濁りのあるその声は、真剣そのものだ。パットは愛車にかけようとしていた左足を下ろした。
「パットさん…!」
憧れのスターが自分にむかって歩いてくるのを見た少年は、感激で声を震わせた。
「君、名前は?」
「リックです。リック・ウェストン」
パットは少年からサインペンと、古ぼけて擦り傷がめだつ手帳を受け取ると、“Rick Weston,”と彼の名前を入れてからサインをし、さらに日付も入れてやった。
「はい。これでいいかな?」
パットがにっこりと微笑むと、歓喜と興奮で顔を真っ赤にした少年は、自分と頭ひとつほども違う大スターを見上げて言った。
「ありがとうございます!この家の前を通っていれば、いつかあなたに会えるかもしれないと思って、僕いつも遠回りして登下校していたんです。僕、あなたのようなミュージシャンになるのが夢なんです!いつかあなたとジョイントできるようになりたい……なんて、笑われそう…ですけど」
勢いで思わず口に出てしまった台詞に、少年は恥ずかしそうに後半の言葉を濁した。笑みを消したパットは、真面目な表情で答えた。
「笑わないよ。俺だって、最初はそういうところから始まったんだもん。リック、いつか君と同じステージで歌える日を、楽しみにしてるよ」
そう言って差し出された手を、しかしリック少年はすぐに握ることができなかった。
「ありがとうございます。…でも…僕はこんなふうに、濁ったダミ声でしょ。音楽は大好きだけど、親からも友達からも歌むきじゃないって言われるし、やっぱり無理…だと思います……」
消え入りそうな声で答えた少年は、悲しそうにうつむいた。するとパットは珍しく眉根を寄せ、きっぱり否と言った。
「無理って…あのさ。君、カン違いしてるよ。声質っていうのはね、綺麗ならいいってもんじゃない。透き通るような声は、もちろん美しい。だけどヴォーカリストにとっては、クセこそが武器になるんだよ」
「えっ?」
パットの指摘に、少年は驚いて顔を上げた。するとラベンダー色の前髪のむこうに、真摯な青い瞳があった。
「俺も独特のかすれ声で、けして声に恵まれた方じゃなかった。でも歌が好きだったから何とかしたくて、模索しまくった。ボイトレはもちろん、いろんなジャンル、いろんな楽曲、いろんな歌い方を練習して、練習して、練習して…何度か喉をつぶしたよ。だけど、そうやって模索を繰り返すうちに自分に似合わないものが削ぎ落され、逆に必要なものが身について、“クセ声”が洗練されていったんだ。そしてその洗練があるレベルに達した時、自分だけのオリジナリティーってやつが生まれた。プロにとって命とも言える、オリジナリティーがね。…わかるかい?クセってのは、個性なんだよ。その意味で、君はすでに才能の一片を手にしている。あとは君が、どこまで努力できるかだと思うよ?クセを、クセのままで終わらせるか。それともオリジナリティーという魅力に変えることができるか。————他人の10倍の努力なんて、言うのはたやすいけどさ。本当にそこまでできる人間は、なかなかいないだろ?…君はどうだい?そこまでやってやるって思えるほど、音楽が好きかい?」
「………………はい!」
少年はとび色の瞳を輝かせて、大きくうなずいた。
「よし、じゃあ握手だ。約束だよ。いつかステージの上で、また会おう」
再びパットがにっこり微笑むと、少年は今度こそしっかりとその手を握った。
「ありがとう…本当にありがとうございました、パットさん!」
少年はサインしてもらった手帳を大切そうに胸に抱え、満面の笑顔で手を振りながら、裸の並木がならぶ大通りの歩道を走って行った。その後ろ姿を見送り、あらためてパットがキーアンとともに愛車に乗り込もうとした瞬間だった。大通りの向こう側の歩道で、何かがキラッと強く光った。
「!」
一瞬のことだったが、ホイスト降下事件が頭にあるキーアンが、すかさず身を翻した。束ねた赤茶の髪をなびかせて歩道に出てみると、車道を挟んだ向かいの歩道に、望遠レンズつきカメラを構えた小太りの中年男性が見えた。門から飛び出してきたキーアンの姿を見た男は、“しまった!”というふうに咥えていた煙草をペッと吐き捨てると、ブラッスリー風のカフェや洒落たブティックが並ぶ歩道を、カメラを抱えて逃げ出した。
「待て!何者だ!」
キーアンは追いかけようとしたが、ひっきりなしに行き交う車の群れに阻まれた。彼が横断できずにいると、これ幸いと、男は人混みを割って全速力で走り、あっというまに角を曲がって消えてしまった。
「……パパラッチだね。さっきの子と話していたのを、盗撮されたかな」
追いかけてきたパットが、またかというような口調で言った。
「すまん。逃げられちまって」
男が走って行った方向をまだ見やりながらキーアンが謝罪すると、パットはカラカラと笑った。
「全然いいよ。ファンにサインするとこなんて、ネタにすらならない。どこへ持ち込んだって、誰も買わないよ…さ、行こう。生中継に間に合わなくなる」
この日バンドは、プロデューサーを交えて次のアルバムづくりの打ち合わせを行うことになっていたが、その前に海外の音楽番組から生中継が入る予定だった。パットに促されたキーアンは、黙ってジャガーの助手席に乗りこんだ。
パットの家があるセント・ジョンズ・ウッドからそう遠くない場所に、The Gapが契約しているレコード会社のスタジオがある。長屋を思わせる白亜の低層建築で、一見するととても音楽スタジオとは思えない佇まいだ。横長の建物前は駐車場になっており、関係者の車たちがずらりと列をなしている。その一角に、パットは愛車を停めた。
「ランボルギーニじゃないか。すごいのに乗ってる奴がいるんだな」
助手席から降りたキーアンが、すぐ隣に停めてあった黒いイタリア車をみて、思わず目を丸くしてつぶやいた。
「あー、それロジャーのだよ。ロジャーはね、結構なスピードマニアなんだ。今日はランボルだけど、他にもフェラーリとかポルシェとか持っていてね。俺は音楽をやっていなかったらレーサーを目指していたって、いつも言ってるよ」
「へえ。彼はスタイル抜群だし洒落っ気があるし、どっちかって言うとモデルの方が似合いそうだけどな。人は見かけによらないな」
キーアンが感心すると、不意にスタジオ2階の小窓が開いた。2人が見上げると、当のロジャーが細身の身体を乗り出して手を振った。
「おーい!遅いぞ2人とも!パット、受付にローレンスさんから電話が入ってるってよぉ!受付に寄ってから上がって来い!」
「えっ、ローレンス!?」
従兄の名を聞いたパットは、嬉しそうに顔を輝かせると、白亜の建物へ走りだした。その様子にキーアンは、やれやれ、まるで待ち焦がれた恋人からの電話だなと、呆れ半分で苦笑した。
「もしもし、ローレンス!?」
スタジオ正面玄関の茶色いドアを開けると、右側にクリスマスリースが飾られた受付カウンターがあった。パットの姿を見た係の中年男性は、電話が入っていますよと彼に言い、カウンター脇の小さな扉からキーアン共々、事務室内へ招き入れた。所属アーティストやバンドのポスターで壁が埋まっている狭い事務室で、パットが従兄の名前を呼ぶと、受話器越しに穏やかな声が響いた。
「やあ、パット。ごめんよ、忙しい時に。事務所に電話したら、今日はこっちにいると言われてね」
「いいんだよ。ローレンスなら、いつだって大歓迎さ。それで、どうしたの?……うん……うん。ああ、その件。えっ、わざわざブリストルまで、また行ってくれたの?……え?キーアン?うん、ここにいるよ。今、替わるよ」
パットがキーアンに受話器を差し出したところへ、バタン!と音をたてて事務室の扉が開き、大柄な人影が飛び込んで来た。イアンだった。
「パット!早く上階へあがってくれ。もうじき生中継が繋がる!他のみんなは、もうスタンバイ済みだ」
「…ああ。わかってるよ」
イアンの顔を見たパットは、今しがたまでの笑顔をスッと消した。そしてキーアンに受話器を渡すと、耳や唇にピアスを着けたパンク風のアシスタントマネージャーを振りきるように、早足で事務所を出て行った。
「……もしもし」
パットの後を慌てて追いかけるイアンの背中を、キーアンが横目で見ながら電話に出ると、やさしい声の同僚は思わぬことを告げた。
「キーアン!僕、今日またブリストルへ来ているんだけど…うん、例の件だよ。このまえ空港の現場を視たけど、何も掴めなかっただろ。おまけに切り込みを入れるのに使われた、ワイヤーロープカッターも見つかっていない。手掛かりがなさすぎて捜査が難航していると聞いて、放っておけなくてね。さっき警察へ行って、ロープを見せてもらったんだ。現物を見れば、念視で犯人が視えるんじゃないかと思って————ところがね、キーアン」
そこまで言うと、ローレンスは声のトーンを落とした。
「不可思議なんだ。カッターの刃がロープに入るシーンは、ちゃんと視える。なのにそのカッターを握っているはずの、犯人の姿が浮かんでこないんだよ!念のため、あのロープに触れた人物の方も念視で辿ってみた。だけどパットとホイストマン、そして整備士しか触れていない。本当に関係者しか触れていないんだよ!…でも、パットが自らロープを切るはずがない。となると、ホイストマンか整備士ということになるけど、2人に怪しい動きはまったくなかった。ごく当たり前に整備し、装置を操作する場面しか視えなかったよ」
「………!」
ローレンスといえば、近衛連隊透視班の中でもピカ一の実力を誇る。この夏、国連から東ベルリンへ向けて内密の小規模調査団が送られた際、透視班メンバーの枠はたった1名だった。間違いが許されない調査のその枠に、透視班長エンリケ・ヴェルデは迷わず彼を指名したというほどの、ぬきんでた実力である。その彼による透視調査の結果に、キーアンは言葉を失った。




