霊能探偵 呪の絵画
『霊能探偵 呪の絵画』を手に取っていただき、ありがとうございます。
本作は、霊能探偵・伊田裕美が、呪われた肖像画に秘められた怨念と対峙する物語です。
美術館やギャラリーを訪れた際、ふと「絵の中の人物がこちらを見ているような気がする」と感じたことはありませんか? それが単なる気のせいであればいいのですが、もし本当に何かの意思がそこに宿っていたら……そんな発想からこの物語は生まれました。
西洋絵画にまつわる怪異、血を求める貴婦人の怨念、そして霊的な謎を解き明かす探偵たちの活躍。
読者の皆さまが、この物語を通じて背筋が少しぞくっとするような、そして同時に探偵の推理と行動に心躍らせるような時間を過ごしていただければ幸いです。
それでは、物語の世界へどうぞ。
【登場人物】
伊田裕美:霊能探偵、旅行ルポライター、ショートカットの黒髪を持ち、知的な印象を与える黒のスーツに身を包んでいた。端正な顔立ちと鋭い眼差しが特徴で、どこか探偵のような雰囲気を漂わせている。全身には梵字の刺青が刻まれており、顔・胸・秘密の花園を除いてほぼ隙間がない。
伝兵衛:旅行雑誌編集長。
村田蔵六:陰陽師で湯川寺の住職、幽霊探偵の相談相手。
高橋霊光:自称怪奇事件解決人。裕美の弟子といったり、裏切ったりする。
第1章:呪われた絵画
東京・有楽町。
夕暮れ時の街は、ネオンと車のライトが交錯し、まるで流れる星屑のように輝いていた。通りを行き交う人々は、仕事帰りのサラリーマン、買い物を楽しむ若い女性たち、そして海外からの観光客。雑踏の中に紛れる無数の足音と、遠くから響く電車の警笛が、都会の喧騒を際立たせていた。
その有楽町の一角にある大規模な展示場で、西洋近世ヨーロッパ絵画展が開かれていた。会場の外には、高級感あふれるポスターが掲げられ、「神秘と狂気の肖像画展」と銘打たれたその文字が、観客の好奇心を掻き立てる。
中に入ると、そこは異世界だった。
厳かな雰囲気の中、黄金に輝く額縁が壁を埋め尽くし、数々の名画が静かに語りかけてくる。ロココ調の優雅な筆致、バロックの重厚な陰影、そしてどこか不穏な気配を漂わせる作品群。歴史に埋もれた逸品が、訪れた者たちの視線を奪っていた。
会場の奥に、ひときわ異様な空気を放つ絵があった。
それはポーランド貴族の貴婦人の肖像画だった。
絵の中の女性は、上品なドレスに身を包み、整った顔立ちで微笑んでいた。しかし、その微笑みの奥には、言いようのない悲しみと怨念がにじんでいるように見えた。瞳は鋭く、まるで絵を見つめる者の心を見透かすようだった。
その前で、一人の若い女性が足を止めていた。
彼女はじっと貴婦人の瞳を見つめ、魅入られたように動けなくなっていた。そして、その瞬間——。
「……今、目が動いた?」
彼女は小さくつぶやいた。
錯覚のはずだった。だが、どこかで確信していた。あの貴婦人の瞳が、確かに動いたのだ。
その瞬間、会場の空気が凍りついた。
突如、彼女の体が揺らぎ、まるで何かに吸い込まれるように消えたのだ。
「えっ?」
背後にいたカップルが、思わず声を上げた。
「今、あの女性が……呑み込まれた?」
「何を言ってるんだよ。そんなバカな——」
しかし、彼の言葉は途中で途切れた。
展示場内は静寂に包まれ、ただ恐怖だけがじわじわと広がっていった。
夜。
展示場の閉館時間が迫り、警備員が最終確認をしていた。
そして、彼は絵の前で座り込んでいる女性を見つける。
「お客様? もう閉館時間ですよ」
警備員が声をかけながら近づく。
しかし、返事はない。
彼がさらに一歩踏み出した瞬間——。
女性の体が崩れ落ちた。
「……!」
彼女は死んでいた。
その顔には、恐怖の表情が張り付いたままだった。
監視カメラの映像には、不可解なものが映っていた。
彼女は突然消え、その後、変わり果てた姿で発見されていた。
さらに不可解なことがあった。
警察が検案した結果——彼女の体内には、一滴の血液も残っていなかったのだ。
「血無し病——?」
この奇怪な事件はすぐにSNSで拡散され、大騒ぎとなった。
「血を吸う絵画」
「呪われた肖像画」
「また一人犠牲者が出た」
様々な憶測が飛び交い、噂は瞬く間に広がっていった。
この事件の報を受けた者がいた。
霊能探偵・伊田裕美。
彼女の全身に刻まれた梵字の刺青が、わずかに疼く。
——これはただの事件ではない。
そう直感した彼女は、陰陽師・村田蔵六とともに、有楽町の展示場へ向かうのだった。
第2章:呪われた展示場
都内の喧騒が遠のくような静けさが、展示場の空間を支配していた。
その空気を引き裂くように、伊田裕美の黒革のブーツが床を踏みしめる音が響く。
「……重苦しいな」
低くつぶやいた彼女の横で、村田蔵六が静かに頷いた。
警察の調査が終わった後も、異様な雰囲気は消えていなかった。いや、むしろ事件の後でさらに色濃くなっているように思えた。
展示場内には、名だたる画家たちの作品が並ぶ中、一際異彩を放つポーランド貴族の貴婦人の肖像画が飾られていた。
額縁の中の女性は、まるで現世に生きているかのように佇み、その瞳は不気味な光を湛えている。
「これか……」
裕美が絵の前に立った瞬間、彼女の全身に刻まれた梵字の刺青がわずかに疼いた。
「……邪悪な霊の気配がする」
彼女の肌に刻まれた刺青は、単なる装飾ではない。
その一つ一つの文字には、霊彫師惣兵衛の秘術が込められており、霊的な異変が起こると疼き、時には発光する。
過去に幾度となく、彼女を危険から守ってきたその刺青が、今は警鐘を鳴らしている。
「この絵を、しばらく湯川寺に預けるわけにはいかないか?」
裕美は絵画展の主催者に直談判した。
「いや……そんなことはできない。この展示の目玉作品だ。そんな怪しい話をされても困る」
主催者は裕美の申し出を即座に却下した。
「そんなことを言っている場合じゃないのに……」
裕美は歯がゆさを覚えながら、展示場を後にした。
その夜——。
展示場では、第二の犠牲者が出た。
警備員が定時の巡回をしていたところ、またしても女性が座り込んでいた。
しかし、彼女はすでに息絶えていた。
その顔には、またしても恐怖の表情が張り付いており、体内からは一滴の血液も失われていた。
警察が慌てて駆けつけるが、依然として事件の手がかりは見つからない。
そして、そんな中——。
「やぁ、お困りのようですね」
展示場の主催者のもとに、一人の男が現れた。
高橋霊光——自称怪奇事件解決人。
「私にお任せいただければ、この事件、解決してみせますよ」
彼はそう言いながら、不敵な笑みを浮かべた。
展示場の主催者は、半信半疑ながらも霊光に任せることにした。
その夜。
霊光は展示場で寝ずの番をすることになった。
だが、そんな彼の前で、貴婦人の絵が不気味に揺らめく——。
そしてその頃、裕美と村田蔵六は、この貴婦人の肖像画の正体を突き止めようとしていた。
調査の結果、貴婦人の名前が判明する。
「マリア・アンジュー……」
村田が呟く。
「彼女は拷問の末、血を抜かれて殺された。死の直前、肖像画が描かれ、その怨念がこの絵に宿った——そういう伝承がある」
裕美は眉をひそめた。
「つまり、あの絵画は……血を求めて人を襲っている?」
村田が静かに頷く。
「おそらく、今も……」
次の犠牲者が出ることを予感した裕美は、再び展示場へ向かう決意を固めるのだった。
第3章:操られた者
展示場の空気は冷たく張り詰めていた。
高橋霊光は肖像画の前に立ち、じっと貴婦人の姿を見つめていた。
「……美しい、だが……何かが違う」
彼は小さく呟いた。
夜の静寂の中、展示場の外では、時折通る車のエンジン音が微かに響く。それが、異様なまでに静まり返った展示場の闇を際立たせていた。
霊光の瞳が、次第にぼんやりと霞んでいく。
その視線の先——貴婦人の肖像画の瞳が、微かに光を宿した。
「……貴様も……血を……」
低い声が漏れた。
それは霊光自身の声ではなかった。
彼の体がわずかに震える。意識を何かに引っ張られるような感覚。
まるで、何かが自分の内側に入り込んでくるかのようだった。
「……やめろ……!」
霊光は抗おうとした。
だが、その意志は次第に霧散し、意識の奥底へと押し込められていった。
貴婦人の瞳が、赤く妖しく輝く。
霊光の唇が、勝手に動いた。
「血を……寄越せ……!」
その瞬間、彼はまるで何かに憑かれたかのように、展示場を飛び出した。
***
一方、その頃——。
伊田裕美と村田蔵六は、展示場の事件について更なる調査を進めていた。
「やはり、マリア・アンジューは実在した人物のようだな」
村田はそう言いながら、古い記録の書かれた資料を机に広げた。
「十六世紀末、ポーランドの貴族の娘……しかし、彼女は非業の死を遂げた」
裕美は資料に目を走らせながら、額に手を当てた。
「やっぱり……血を抜かれて殺されたのね」
「その通りだ。肖像画が描かれたのは、処刑される直前だと記されている。呪われてもおかしくはない……むしろ、何かを残すために描かせたのかもしれん」
その時——。
バタンッ!
部屋の扉が激しく開かれた。
「……霊光?」
裕美が目を見開いた。
そこに立っていたのは、高橋霊光だった。
だが、彼の目は尋常ではなかった。
赤黒く濁った瞳。
まるで、別人のような表情。
「……貴様も……血を……!」
そう呟くと同時に、霊光が飛びかかってきた。
「くっ……!」
裕美は咄嗟に体をかわし、机の向こうへと跳んだ。
霊光の動きは明らかに異常だった。
彼は普段よりも素早く、力も異様に強い。
「やめろ、霊光! お前は操られている!」
村田が叫ぶが、霊光の耳には届いていない。
彼の両手はまるで獣のように裕美を捕らえようとし、目には妖しい光が宿っていた。
その時——。
裕美の肌に刻まれた梵字の刺青が、微かに光を帯びた。
「……これが、お前の呪いなら……私の力で……!」
彼女は素早く懐から護符を取り出し、それを霊光の額に叩きつけた。
「はっ……!!」
霊光の体が激しく痙攣する。
次の瞬間——。
彼はその場に倒れ込んだ。
「……ぐ……は……」
霊光は荒い息をつきながら、目を見開いた。
瞳の赤黒い光が消え、元の焦点の合った目に戻る。
「……俺は……?」
裕美はゆっくりと護符を取り去った。
「……戻ったようね」
霊光はしばらく呆然としていたが、すぐに自分の置かれた状況を理解した。
「……俺、操られてたのか?」
「ええ、マリア・アンジューの霊にね」
裕美は立ち上がり、肖像画の方向を睨んだ。
「このままにしておくわけにはいかないわね……決着をつけるしかない」
霊光は立ち上がり、まだ震える手で自分の顔を押さえながら頷いた。
「……ああ、今度は俺も、きっちり手を貸すよ」
そして、彼らは再び戦いの準備を整えるのだった——。
第4章:決戦の地・湯川寺
翌朝、伊田裕美は展示場の主催者と再び対峙していた。
「いい加減にしてください! 幽霊だの吸血鬼だの……そんな話を信じるとでも?」
主催者は怒りをあらわにし、腕を組んで裕美を睨んだ。
「昨日も言いましたが、あれは呪われた絵画です。これ以上犠牲者を出す前に、然るべき対処をすべきです」
裕美は食い下がるが、主催者は鼻で笑った。
「あなた、一体何を言っているんですか? これは文化財です。霊能者気取りが何を言おうが、動かすつもりはありませんよ」
「……もういいわ」
裕美は深くため息をつき、諦めたように肩をすくめた。
このまま交渉を続けても無駄だ。
——自分の手で決着をつけるしかない。
***
夜、湯川寺。
境内は静まり返り、風が竹林をざわめかせていた。
満月が薄雲の隙間から光を落とし、闇を切り裂いている。
村田蔵六が、寺の奥深くにある結界の中心に護符を並べていた。
「円陣を組む……高橋霊光、お前はここに入れ」
「は?俺は戦えないのか?」
霊光は不満げに言ったが、村田は首を振った。
「お前はまだ未熟。戦いに巻き込まれるよりも、安全な場所で力を蓄えるべきだ」
「……チッ」
霊光は渋々円陣の中に入る。
一方、裕美は手にたむならの剣を握りしめ、境内の中央に立っていた。
「来る……」
その瞬間——。
風が止み、空気が歪んだ。
どこからともなく呻き声が聞こえ、やがて黒い霧がゆっくりと立ち上がった。
霧の中心、そこに現れたのは——マリア・アンジュー。
絵画の中の姿そのままに、彼女は妖しい微笑みを浮かべながら宙に浮かんでいた。
その背後には、無数の怨霊が渦を巻いている。
「……来たわね」
裕美は剣を構える。
マリアは手に持ったピッチフォークを軽く振り、地面に突き立てた。
その瞬間、怨霊たちが咆哮し、裕美へと襲いかかる。
「ふんっ!」
裕美は剣を振るい、怨霊を斬る。
だが、霊たちは斬っても斬っても消えず、次々と襲いかかってくる。
「ちっ、これじゃキリがない!」
その時、蔵六がたむならの鏡を掲げ、呪文を唱えた。
「破邪顕現——退け、亡者たちよ!」
鏡が光を放ち、霊たちを弾き飛ばす。
「効いてる……!」
裕美は再び剣を握り直し、マリアに突進した。
「お前の呪いはここで終わりよ!」
マリアもピッチフォークを構え、裕美の攻撃を受け止める。
刃と刃が交差し、火花が散る。
「あなたも、私と同じ運命を辿るのよ……!」
マリアが不気味な声で囁く。
「いいえ——私は、私の運命を選ぶ!」
裕美は力を込めて剣を振り抜いた。
刃はマリアの胸元を深く切り裂く。
マリアは叫び声を上げ、怨霊たちが一斉に震えた。
「蔵六、今よ!」
蔵六はすかさず呪文を唱え、たむならの鏡を掲げた。
「封印せよ——悪しき魂よ!」
鏡の光がマリアを包み込み、彼女は渦に巻かれながら吸い込まれていった。
「いやあああああああ!」
マリアの叫びが消えると同時に、無数の怨霊もまた消えていった。
すべてが終わった。
***
境内には静寂が戻った。
「終わったのか……?」
霊光が円陣から出てきて、辺りを見回す。
裕美は剣を納め、深く息を吐いた。
「ええ……終わったわ」
蔵六はたむならの鏡を慎重に包み込み、
「封印は完全だ……もう、マリアがこの世に現れることはない」
霊光は安堵の表情を浮かべた。
「よかった……もう、あんな化け物に操られるのはごめんだ」
裕美は微笑みながら、境内を見上げた。
「……これで、ひとまず解決ね」
夜空には、満月が穏やかに光を放っていた——。
第5章:終幕の静寂
夜が明け、湯川寺の境内には穏やかな朝の光が差し込んでいた。
鳥のさえずりが聞こえ、昨夜の激闘が嘘のように静寂が戻っている。
伊田裕美は、たむならの剣を鞘に収め、ゆっくりと息を吐いた。
戦いの余韻がまだ体に残っている。
「終わった……のよね」
傍らでは、高橋霊光が地面に座り込み、額の汗を拭っていた。
「マジで死ぬかと思った……。幽霊が実体を持って襲ってくるとか、聞いてねぇぞ……」
彼の声には安堵と恐怖が入り混じっていた。
「まったく、お前は最後まで役に立たなかったな」
村田蔵六が苦笑しながら霊光を見下ろした。
「うるせぇよ。円陣の中で見てただけの俺が悪いってのかよ?」
霊光が文句を言うが、誰も本気で責めるつもりはなかった。
彼が無事だっただけでも十分だったのだ。
「マリアは……本当に封印されたの?」
裕美が村田に問いかける。
村田は慎重にたむならの鏡を包みながら頷いた。
「ああ、完全に封印した。あの鏡の中に取り込んだから、二度と現れることはないはずだ」
「なら、もう大丈夫ね」
裕美はほっと息をついた。
***
数日後。
展示場では、まるで何事もなかったかのように通常の営業が再開されていた。
「結局、例の肖像画はどうなったの?」
カフェでコーヒーを飲みながら、裕美が村田に尋ねた。
「表向きには『急遽、海外の美術館へ貸し出された』ということになっている。実際には、寺の奥深くに封印してあるがな」
「なるほど。まぁ、あの主催者が事実を公表するはずもないわね」
裕美は苦笑する。
霊光がカップを置きながら、ため息混じりに言った。
「いや、それにしても、世の中って知らなくていいこともあるんだな……。もしあの事件が公になってたら、展示場は閉鎖されてるだろ」
「そうね。でも、それでいいのかもしれない」
裕美はカップの縁をなぞりながら呟く。
「人間って、時々都合の悪いことは見ないふりをするものよ。だからこそ、私たちみたいな存在が必要なのかもしれないわね」
村田が静かに頷いた。
「そうだな。我々が動くのは、そういう時だ」
窓の外には、春の日差しが降り注いでいた。
すべてが、何事もなかったかのように——。
だが、裕美は知っている。
この世には、まだ知られざる怪異が潜んでいることを。
そして——霊能探偵の戦いは、これからも続いていくのだった。
(完)
最後まで『霊能探偵 呪の絵画』をお読みいただき、ありがとうございました。
「もしも絵の中の人物が動いたら?」
そんな誰もが一度は考えたことがあるであろう疑問から、この物語は生まれました。
霊能探偵・伊田裕美を中心に、陰陽師・村田蔵六、怪奇事件解決人・高橋霊光といった個性的なキャラクターたちが、それぞれの役割を果たしながら事件の真相に迫っていきます。彼らの立場や能力の違いが、物語にさまざまな視点を加え、より深みを持たせてくれました。
本作では「恐怖」と「謎解き」のバランスにこだわりました。ただ怖いだけではなく、論理的に怪異に挑む探偵としての裕美の姿を描くことで、単なるホラーに終わらない物語を目指しました。
この作品を通じて、ほんのひとときでも現実を忘れ、異世界の扉を開くような感覚を味わっていただけたなら、これほど嬉しいことはありません。
また次の物語でお会いできることを楽しみにしています。
ありがとうございました。




