霊能探偵 孤児邪鬼 〜封印を破られし鬼〜
人は孤独の中で何を見出すのか——この問いを軸に、本作『霊能探偵 孤児邪鬼』を執筆しました。本作は、霊能探偵・伊田裕美が哀しき怨念の塊である孤児邪鬼と対峙し、その背後にある人間の業と向き合う物語です。
霊能、封印、呪いといったオカルト要素を取り入れながらも、人間の心の闇や孤独というテーマを重視し、単なる怪異譚ではなく、人間ドラマとしての側面も意識しました。物語の舞台となる信州の山々や旅館、そして湯川寺といった場所もまた、登場人物たちの心情を映し出す装置として機能しています。
本作を通じて、読者の皆様に「恐怖」だけでなく、「孤独に潜む本当の意味」についても考えていただければ幸いです。
【登場人物】
伊田裕美:霊能探偵、旅行ルポライター、ショートカットの黒髪を持ち、知的な印象を与える黒のスーツに身を包んでいた。端正な顔立ちと鋭い眼差しが特徴で、どこか探偵のような雰囲気を漂わせていた。
村田蔵六:陰陽師で湯川寺の住職、幽霊探偵の相談相手。
坂本達:息子を失った悲しみから意固地で捻くれた性格になる。
坂本登:坂本達の子で医師。日本のPKOに参加しバングラデッシュで活動する。
秋本奈緒子:信州の秋本旅館の女将。坂本達の大学時代の同級生。
第1章:悲劇の始まり
バングラデシュの灼熱の太陽が地面を焼きつける。空気は埃っぽく、町の喧騒の中に時折聞こえるアザーンの声が異国情緒をかき立てる。
坂本登は、国境なき医師団の一員として、この地で医療活動に従事していた。狭い診療所には、今日も多くの患者が詰めかけている。貧困と感染症に苦しむ人々のために、少しでも役に立ちたい──そう考えて、日本を飛び出してきたのだった。
「先生、次の患者です。」
看護師が声をかける。登は汗を拭いながら、診察室に入ってきた少女を迎えた。栄養失調で痩せこけた体に、大きな瞳だけが異様なほど輝いている。
「どこが痛む?」
少女は言葉を発せず、母親らしき女性が震える声で説明する。登は診察をしながら、静かに考えた。この国の現状は、日本では想像もつかないほど過酷だった。医師として、できる限りのことをしたい──そう誓いながら。
だが、その願いは突如として破られた。
診療所の入り口が激しく開かれ、数人の男たちが押し入ってきた。彼らは頭に布を巻き、武装している。その目は憎悪と狂信に満ちていた。
「先生、逃げて!」
スタッフの叫びが響く。だが、登は動けなかった。
「聖書『タメルラン』の最初の出だしを読み上げろ!」
銃を構えた男が命じる。登は目を見開き、言葉を失った。
「……」
「○○○○教徒以外は敵だ。」
その瞬間、銃声が響いた。
マシンガンの連射が診療所を襲い、登の体が激しく後方に吹き飛ぶ。血が舞い、周囲が騒然とする。彼は床に倒れ込み、視界が暗転する中で、かすかに聞こえるのは患者たちの悲鳴と、男たちの歓声だった。
過激派は、診療所にあった医薬品と貴重な物資を奪い去り、黒い砂埃を巻き上げながら去っていった。
***
日本のニュース番組では、無機質な声が事態を伝えていた。
「国連平和維持活動(PKO)に従事していた日本人医師、坂本登さんが、バングラデシュにて武装組織に殺害されました。現地当局は……」
***
東京北区の古びたアパートの一室。
遺骨を抱いた男が、ぼんやりと部屋の壁を見つめていた。
「こんな姿で帰ってきやがって……」
坂本達。息子を失った男の声は、疲れ果てていた。
彼は一人で登を育て、医師にまで育て上げた。その誇りと希望を抱えていた。しかし、今、彼の腕の中にあるのは冷たい骨壷だけだった。
「とうとう、一人になってしまった……」
そのとき、不意に窓が音を立てて開いた。冷たい風が部屋を駆け抜ける。
達は顔を上げ、窓の外を見た。そこには何か、大きな影が立っていた。
築四十年のこのアパート、どこが壊れてもおかしくない。だが、この気配は──。
「……誰だ?」
答えはない。ただ、寒気が背筋を這い上がる。
そこへ、突然電話のベルが鳴った。
「……もしもし?」
「あの、達くん?…あたし、奈緒子。」
懐かしい声が耳に届く。秋本奈緒子──大学時代の同級生だった。
「お前か……久しぶりだな。」
「うん……ニュースを見て、あなたのことが気になって……。今、ひとりなんでしょう? もし良ければ、長野の旅館に来ない? 少しでも気を紛らわせられればと思って……」
奈緒子の声は優しかった。だが、達の心は重く沈んでいた。
「……考えとく。」
短く答え、電話を切る。
窓の外を見た。さっきの影はもうなかった。だが、冷たい空気はまだ部屋の中に残っていた。
それが何を意味するのか──そのときの達には、まだ分からなかった。
第2章:鬼の召喚
長野の山間にひっそりと佇む秋本旅館。坂本達がこの地を訪れたのは、秋本奈緒子からの誘いがあったからだった。
「しばらくゆっくりしたら?」
奈緒子は昔と変わらぬ柔らかな笑みを浮かべていたが、坂本は無表情のまま返事をした。
「のんびりする気も起きん」」
六十五歳を迎えた坂本は、人生の最後に息子を失い、人間も社会も信じられなくなっていた。定年後の穏やかな日々は、すでに彼の心には存在しなかった。
それでも、ここでの滞在は悪くなかった。山の空気は清々しく、旅館の湯も心地よい。だが、その静寂が、余計に彼の心の奥に広がる虚無を際立たせていた。
ある日、彼はふらりと散歩に出た。旅館の女将や村人たちは、彼に忠告した。
「孤児山の方には行かないほうがいいよ。鬼が出るって昔から言われているんだ」」
孤児山──その名を聞いても、坂本は鼻で笑った。
「鬼? そんなもの、今どき誰が信じるか」」
だが、山道を進むうちに、どこか空気が変わった気がした。鳥の鳴き声が急に途絶え、風の音すらも不気味に感じられる。
やがて、彼の目の前に巨大な石が現れた。まるで蘇我馬子の石舞台古墳のような、異様な存在感を放つそれは、確かにただの岩ではなかった。その前には、風雨にさらされてボロボロになった立て札が立っていた。
「危険、この石に近づくな」
坂本はそれを見て、ふっと鼻で笑った。
「くだらん」」
そして、唾を吐き捨てると、石の上に登り、立て札に向かって小便をかけた。
「今のわしに怖いものは何もないのさ」」
そう呟きながら、彼は来た道を引き返した。
その晩、奇妙な夢を見た。
闇の中から、禿げ上がった頭に二本の角を持つ鬼が現れた。右目は異様に大きく、左目は小さく歪んでいる。黒ずんだ皮膚には無数のひび割れが走り、まるで長い間地中に封じ込められていたかのようだった。
「どうやら、わしとお前は気が合いそうじゃな」」
鬼の声は低く、重く、耳にまとわりつくようだった。
「お前も孤独じゃろう? わしを出してくれんか。お前の敵くらいは取ってやるぞ」」
坂本はしばし考えた。そして、不敵な笑みを浮かべる。
「出すって、どうやって?」
「石の下を掘るのじゃ。お前にできるかな?」
「できるさ」」
坂本は目を覚ました。額には汗がにじんでいた。夢の中の鬼の言葉が、妙に現実味を帯びていた。
翌朝、彼は旅館の倉庫からスコップを持ち出し、再び孤児山へと向かった。
まずは、立て札を引き抜き、捨てた。そして、巨大な石の周囲を掘り始める。
一日掘っても、何も出てこない。
二日掘っても、ただの土と岩ばかり。
三日目、坂本はスコップを振るいながら、ふと手を止めた。
「やっぱり夢か……」」
疲れた体を伸ばし、スコップを突き立てた瞬間、硬い感触が伝わった。
「ん?」
慎重に土を払いのけると、そこには茶色い壺が埋まっていた。何か古めかしい呪文のような模様が刻まれている。
「これか」」
彼は壺を持ち上げ、開けようとした。しかし、どれだけ力を込めても、蓋はびくともしない。
「クソが……!」
苛立った坂本は、壺を地面に叩きつけた。
次の瞬間、壺が粉々に砕けると同時に、黒い煙が勢いよく噴き出した。その煙の中から、夢で見た鬼が姿を現した。
「わしは孤児邪鬼じゃ……」」
鬼の声が山中に響き渡る。
「一人ぼっちの寂しがり屋に取り憑く鬼じゃ。今日からお前はわしの弟子じゃ」」
坂本はその言葉に微かに笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「……わかりました」」
第3章:災厄の胎動
信州の山々が連なる谷間に、巨大なダムが静かにそびえ立っていた。透き通るような青空の下、穏やかな水面が陽光を反射し、まるで鏡のように輝いている。ダムの下には、のどかな村が広がっていた。田畑が風に揺れ、農作業をする人々の姿が見える。人々は日々の営みを淡々とこなし、誰一人として、この平穏が突如として破られるなどとは想像もしていなかった。
「見るが良い」
孤児邪鬼が不気味に笑いながら両手を高く掲げる。その動作に呼応するかのように、空はたちまち黒雲に覆われた。雷鳴が遠くで鳴り響き、冷たい風が吹き抜ける。次の瞬間、大粒の雨が降り始めた。それはやがて激しさを増し、滝のように地面を叩きつける。
孤児邪鬼が低く呪文を唱えると、ダムの中央に小さな亀裂が走った。それは最初はほんの細い傷跡のようだったが、みるみるうちに広がり、蜘蛛の巣のようにダムの表面を覆い尽くしていく。すると突然、鈍い音が響いた。
バキッ……バキバキッ……!
次の瞬間、巨大な轟音とともに、ダムの壁が崩れ落ちた。水は怒涛の勢いで流れ出し、濁流となって山を駆け下りる。その奔流は、まるで獰猛な獣のように猛り狂い、村へと襲い掛かった。
村では、誰もが突然の出来事に驚愕した。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。だが、すでに遅かった。水は畑をのみ込み、家々を押し流していく。人々は必死に走るが、足元をすくわれ、次々と濁流に巻き込まれた。悲鳴があちこちから上がるが、孤児邪鬼はそれを見て腹を抱えて笑っていた。
「思えも笑え」
しかし、坂本は笑えなかった。村人たちが必死に助けを求める姿を見つめながら、胸の奥に鈍い痛みを感じていた。彼の表情は沈み、目はどこか悲しげだった。
***
翌日、信州の山々を見下ろす孤児邪鬼は、再び両手を掲げた。
「さて、次の遊びじゃ」
呪文が響くと、山の木々が突然揺れ始めた。風は吹いていない。それなのに、まるで何かが這い出るかのように、樹々が激しく軋んだ。そして次の瞬間、いくつもの木々から赤々とした炎が燃え上がった。
「ははははっ!」
炎は瞬く間に広がり、山全体を包み込んでいく。鳥たちは悲鳴のような鳴き声を上げながら飛び去り、鹿や狸、野兎が狂ったように走り回る。しかし、どこへ逃げても炎は迫ってきた。
村人たちは再び絶望の中で右往左往した。
「火事だ! 早く逃げろ!」
しかし、炎は執拗に村へと迫る。山の斜面を駆け下り、草を燃やし、家々の屋根に燃え移った。ひとたび炎が屋根を舐めれば、瞬く間に家全体が火に包まれた。
坂本は、そんな光景をただ見つめていた。
「お前も楽しんでいるか?」
孤児邪鬼がにやりと笑いながら坂本を振り返る。
「……」
坂本は何も答えなかった。鬼の邪悪な楽しみには、もはやついていけないと思いながらも、彼はただそこに立ち尽くしていた。
***
旅館へ戻ると、騒ぎを聞きつけた客や仲居たちは、恐怖のあまり全員逃げ去っていた。ただ、一人、女将の秋本奈緒子だけが旅館の前に立っていた。
「坂本くん……何です、この鬼は……!」
奈緒子の声は震えていた。
「すぐに出ていって! あなたたちは、この旅館から出て行くのよ!」
しかし、坂本は冷たい目で彼女を見下ろす。
「今日からここに厄介になる。わしに逆らうと、どうなるか……見せてやろうか?」
孤児邪鬼がくくっと笑い、指を弾く。
その瞬間、旅館全体が大きく揺れた。
「きゃあっ……!」
激しい地震が旅館を襲い、壁が軋み、天井からほこりが降ってくる。奈緒子は必死に手すりにしがみつき、震えながら叫んだ。
「……わかりました」
奈緒子は涙をこらえながら、唇を噛み締めた。
その日から、孤児邪鬼は旅館に住み着いた。そして、鬼の飢えはまだ満たされてはいなかった。直接村人を襲い、血を吸い、魂を奪う……そうして、さらなる災厄が広がっていくのだった。
第4章:鬼封じの刻
春の陽光が優しく降り注ぎ、湯川寺の境内に穏やかな風が吹き抜けていた。梅の花がほのかに香り、小鳥たちが楽しげに囀る。静寂の中に響く読経の声が、どこか心を落ち着かせるようだった。
境内の一角、霊能探偵・伊田裕美はスマートフォンのバイブレーションに気づいた。画面に表示された名前は「秋本奈緒子」。信州の旅館の女将だった。
「もしもし?」
「裕美さん……お願い、助けて……」
電話の向こうから聞こえる奈緒子の声は震えていた。何か恐ろしいものに追われているような、切羽詰まった様子だった。
「落ち着いて、何があったの?」
「坂本くんが……それに、鬼が……! 旅館に取り憑いて……!」
その言葉に、裕美の表情が一変した。
「鬼?」
彼女は視線を上げ、本堂の方を見やった。そこには、彼女の霊的な師とも言える湯川寺の住職、村田蔵六が座していた。彼は穏やかな顔でお茶をすすっていたが、裕美の緊張した声を聞くと、ゆっくりと目を開けた。
「右目が異様に大きく、左目が異様に小さい……」
裕美がそう口にすると、蔵六は眉を寄せた。
「それは孤児邪鬼ではないのか?」
「孤児邪鬼?」
「乱暴な鬼で、一人暮らしの孤独でひねくれた者に取り憑くのじゃ。昔、霊験あらたかな僧が封じたはずだが……誰かがその封印を解いてしまったようじゃな」
蔵六は長い白髪を撫でながらため息をついた。
「止めに行くのじゃろう?」
「ええ」
「ならば、たむならの勾玉・鏡・剣を忘れずにな」
「忘れるわけがないわ」
裕美は腰のバッグに手を伸ばし、すでに持ち歩いていた霊具を確認した。
「しかし……それだけでは足りぬかもしれぬ」
蔵六はしばらく考えた後、ゆっくりと本堂の奥へと歩き出した。
「本堂へ来い。胸を見せてくれ」
「えっ?」
「お前の体には、すでに霊的な梵字の刺青が施されている。しかし、顔、胸、花園にはない。せめて胸にだけでも、加護の梵字を書き足しておくべきじゃ」
裕美は少し戸惑ったが、やがて覚悟を決めた。
「……わかりました」
本堂の奥で、彼女はそっとスーツの前を開いた。露わになった肌に、蔵六は慎重に霊墨をつけた筆を走らせた。墨はただの墨ではない。霊墨と霊筆──特別な力を持つ道具だった。
「動くなよ」
蔵六が低く呪文を唱えながら、丹念に梵字を刻んでいく。その瞬間、裕美の肌がじんわりと熱を帯びるような感覚に襲われた。
「……これでよい」
蔵六はしばし裕美の胸を見つめ、静かに頷いた。
「ふむ……裕美の胸に梵字を書けるとは、生きていてよかったのう」
「な、なに言ってるんですか!」
裕美は顔を真っ赤にし、慌ててスーツを閉じた。蔵六はおかしそうに笑いながら、深く頷いた。
作業を終えた蔵六は、静かに筆を置いた。
「これで、やつの邪気を跳ね返しやすくなった。だが、気をつけろ。孤児邪鬼はただの鬼ではない。憎悪と孤独の塊……決して油断するでないぞ」
裕美は胸の奥で覚悟を決めた。
「ありがとう、蔵六さん」
そして彼女は、信州・秋本旅館へと向かうため、本堂を後にした。
第5章:霊能探偵対孤児邪鬼
夜の秋本旅館は異様な雰囲気に包まれていた。廊下には誰の姿もなく、部屋の襖はわずかに開いている。普段ならば穏やかな客の話し声や仲居の足音が響くはずの館内は、しんと静まり返っていた。その静寂の中、ふと、耳をつんざくような笑い声が響いた。
「ハハハハハッ!」
大広間の襖をそっと開くと、そこでは孤児邪鬼が宴を開いていた。座卓には豪勢な料理が並び、酒の瓶が乱雑に転がっている。豪快に酒をあおる孤児邪鬼の隣には坂本が座っていた。彼の顔はどこか虚ろで、深い影が落ちている。
「こんなにうまい酒は久しぶりじゃ!」
孤児邪鬼は腹を抱えて笑い、手元の酒を坂本の杯にも注いだ。しかし坂本はそれを見つめるだけで、口をつけなかった。
「どうした? さっきまで飲んでいたではないか?」
孤児邪鬼が目を細める。
坂本はゆっくりと口を開いた。
「……お前のせいで、どれだけの命が失われた?」
「フン、そんなことを気にするとは思わなかったぞ? 村も山も人も、すべてお前を拒んだではないか。わしが浄化してやったのじゃ!」
孤児邪鬼は楽しげに笑う。しかし、その言葉に、坂本の顔がわずかに歪んだ。
「浄化……? ただ壊して喜んでいるだけではないか……」
「ふん、つまらん奴よ」
そのとき、孤児邪鬼の耳がピクリと動いた。
「……誰か来るな」
孤児邪鬼は立ち上がり、戸口へと視線を向けた。その目がぎらりと光る。
「ほう、霊能探偵殿か」
【孤児邪鬼との対決】
旅館の入り口には、黒いスーツに身を包んだ霊能探偵・伊田裕美が立っていた。鋭い眼差しで孤児邪鬼を見据え、ゆっくりと足を踏み出す。
「孤児邪鬼……ここでの悪行は、もう終わりよ」
「ほう……その細腕でわしを止められると?」
孤児邪鬼は不敵に笑いながら両手を掲げた。
「風よ、吹け! 雨よ、降れ!」
その瞬間、空が瞬く間に黒く染まり、雷鳴が轟いた。大粒の雨が降り注ぎ、強風が旅館の回廊を吹き抜ける。裕美の髪が風に舞い上がり、視界が揺れる。
「くっ……!」
裕美は腰の鞘から「たむならの剣」を抜いた。しかし、強風が彼女の足元をすくい、前に進むことさえ困難になった。
「どうじゃ? わしの弟子になるなら、許してやってもよいぞ?」
「お前なんか……負けない!」
裕美は剣を両手で握りしめ、霊力を込めた。しかし、孤児邪鬼は余裕の笑みを浮かべたままだ。
「坂本、この女を羽交い締めにせよ」
坂本がよろめきながら立ち上がった。だが、そのとき、彼の脳裏にあの日の光景が蘇った。
──決壊したダム、濁流に呑まれる村人。
──山火事で逃げ惑う動物たち。
──孤児邪鬼が狂ったように笑いながら破壊を楽しんでいた姿。
坂本の拳が震えた。彼はかつて、息子を失った悲しみから世界を憎んだ。しかし、その憎しみが、さらなる悲劇を生んだのではないか。
「……いやだ……」
「何?」
孤児邪鬼が怪訝そうに坂本を見る。
「お前の言うことを聞くくらいなら……死んだほうがましじゃ!」
「そうですよ、おじいさん!」
裕美が叫び、剣を構え直した。
「貴様……!」
孤児邪鬼の顔が怒りに歪む。
【最終決戦】
孤児邪鬼は咆哮を上げ、鋭い爪を振りかざしながら裕美に襲い掛かった。風を切る音が響く。ほんのわずかでも反応が遅れれば、その爪が肉を引き裂いていたことだろう。
しかし、裕美はすんでのところで身を翻し、素早く後方に跳ぶ。荒れ狂う風の中、彼女は剣を構え直し、横薙ぎに振るった。刃が闇を裂くように走るが、孤児邪鬼は不気味なまでに素早く後退し、ぎりぎりのところで回避した。
「ハッ、そんな攻撃ではわしを倒せんぞ!」
孤児邪鬼は嘲笑しながら、両手を天に掲げた。すると、周囲の空気が急激に変わり、暴風がさらに勢いを増した。黒雲が渦を巻き、雷鳴が轟く。雨粒が鋭い刃となって降り注ぎ、地面を抉るほどの勢いで叩きつける。
「ククク……絶望の味はどうじゃ?」
孤児邪鬼が嘲るように言う。裕美は歯を食いしばりながら、前へと歩みを進める。風の抵抗が激しく、足を踏み出すごとに押し戻されるような感覚に襲われる。
「こんなもの……!」
裕美は剣を逆手に持ち替え、一歩ずつ大地を踏みしめながら進む。彼女の目は強い意志を宿し、決して折れることはなかった。
「封印の呪詠——!」
その瞬間、剣が激しく光を放ち、周囲に結界の波紋が広がった。大地が震え、雷鳴とは異なる重い響きが空気を揺るがす。次の瞬間、地面が裂けた。
「何ィィィィッ!?」
孤児邪鬼の体が傾き、足元の大地が崩壊するように裂け目に吸い込まれていく。鬼は必死にもがき、片手で地面を掴んだ。鋭い爪が土を削り、必死に這い上がろうとする。
「いや、まだ終わらん……!」
鬼の顔には焦燥が滲んでいた。だが、裕美の動きは止まらない。彼女はさらに剣を深く地面に突き刺し、両手でしっかりと握りしめる。
「これで終わりよ!」
彼女の声が夜空に響き渡るとともに、剣の周囲にまばゆい光の波紋が広がった。それはまるで力の鎖のように孤児邪鬼の身体を縛り、裂け目の奥へと引きずり込んでいく。
「グオオオオオオッ……!」
孤児邪鬼は最後の抵抗を試みたが、封印の力がそれを許さなかった。鬼の身体は徐々に沈み込んでいき、ついには腕までもが闇に呑み込まれた。
裂け目が徐々に閉じ、孤児邪鬼の叫びもまた、地の底へと消えていく。
雨はやみ、黒い雲が静かに消えた。
空には、満天の星が煌めいていた。
第6章:エピローグ
静かな朝日が信州の山々を照らし、昨夜までの激しい戦いがまるで幻だったかのように、世界は穏やかさを取り戻していた。
坂本は旅館の帳場で、秋本奈緒子に封筒を差し出した。
「これは……?」
「今回の損失分だ。迷惑をかけたな」
奈緒子は封筒を受け取ったが、その手はわずかに震えていた。
「坂本くん……」
何か言いたげだったが、言葉にできない。結局、奈緒子は小さく息を吐き、微笑んだ。
「気をつけてね。また、何かあったら……ここに来ていいから」
坂本は短く頷くと、静かに旅館を後にした。
***
夕暮れ時、伊田裕美は秋本旅館の風呂に浸かっていた。
湯けむりが静かに舞い、朧げな灯りが肌を照らす。彼女は胸元に刻まれた梵字を指でなぞる。封印のために刻まれたその印は、役目を終えた今、もう必要のないものだった。
「……終わったのね」
呟きながら、彼女は湯に手を浸し、ゆっくりと梵字を洗い流した。墨が薄く溶け、湯面に淡く広がっていく。
ぬるめの湯が全身を包み込み、緊張がほどける。戦いの余韻が消え去り、静寂とともに訪れる安堵。目を閉じると、体の芯からゆるやかな感覚が広がっていった。
指先が、無意識に動く。
水面にわずかな波紋が広がり、肌にまとわりつく湯気が、甘くくすぐるように感じられた。湯の温もりが心地よく、長い戦いの疲労がじんわりと溶けていく。
ゆっくりと、指が滑る。
肌をなぞる指先は、まるで遠い記憶に触れるように慎重で、それでいて確かに熱を帯びていた。
湯の中、波打つ水面にそっと沈み込む指先。
目を閉じたまま、彼女は深く息をついた。静寂に包まれた湯殿には、わずかな水音だけが響いていた。
(完)
『霊能探偵 孤児邪鬼』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作では、人間の孤独が鬼へと変わるというテーマを掲げ、坂本達という男の喪失と怨念、そして、彼が鬼へと心を売り渡していく過程を描きました。一方で、霊能探偵である伊田裕美の強さは、単なる霊力ではなく、人の「縁」を重んじる心にあります。彼女が孤児邪鬼を封じる戦いは、単なる鬼退治ではなく、過去の悲しみを断ち切るための儀式でもありました。
また、最終章では、戦いを終えた裕美の心情を描くことで、霊能探偵という存在の持つ「人間らしさ」に焦点を当てています。怪異と対峙し続ける彼女もまた、一人の人間であり、傷つき、癒され、そして前に進むのです。
本作が、単なるホラーやオカルト作品にとどまらず、人間の持つ光と闇を考えるきっかけになれば、これ以上の喜びはありません。
次作でまたお会いしましょう。
ありがとうございました。




