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霊能探偵 呪馬(のろいうま)の哭く夜

 『呪馬のろいうまの哭く夜』は、古の呪いと対峙する霊能探偵・伊田裕美の戦いを描いた物語です。

 かつて名馬と称えられた存在が、何者かの呪詛によって異形の怪物へと変わり、百年を経てもなお闇の中を彷徨っています。貴族の末裔である田村麻呂は、知らず知らずのうちにこの宿命を背負い、やがて己の家に潜む「呪い」と向き合わざるを得なくなります。

 その呪いに立ち向かうのが、霊能探偵・伊田裕美。彼女は、知性と冷静な判断力を武器に、この事件の真相へと迫っていきます。

 本作は、伝説や民間信仰をベースにしながら、「現代に生きる者たちが、過去の因果とどう向き合うのか」をテーマにしました。戦うだけでなく、どう決着をつけるか——それこそが、裕美に課せられた真の試練なのかもしれません。

 静かな夜、ふと馬の嘶きが聞こえたら、それは呪馬の記憶が呼びかけているのかもしれません。

 さあ、呪いの眠る森へと、共に足を踏み入れましょう——。

 【登場人物】

 伊田裕美いだ ひろみ:霊能探偵、旅行ルポライター。ショートカットの黒髪に、知的な印象を与える黒のスーツを身にまとう。端正な顔立ちと鋭い眼差しが特徴で、冷静沈着な態度が探偵らしさを際立たせる。

 伝兵衛でんべい:旅行雑誌の編集長。裕美の上司であり、彼女の霊能活動には懐疑的。

 村田蔵六むらた ぞうろく:陰陽師で湯川寺とうせんじの住職。裕美の相談役であり、時に協力者となる。

 惣兵衛そうべい:彫師であり、霊彫を施すことができる特殊な技術を持つ。

 石川田村麻呂いしかわ たむらまろ:旧華族の家系に連なる貴族の末裔。代々伝わる家の呪いに苦しむ。


 第1章:奇妙な夢

 石川田村麻呂の家系は、戦前は華族の称号を受け、裕福な暮らしを享受していた。戦後は家柄による特権が失われたとはいえ、旧家としての威厳と財力を保ち、今もなお一般の人間とは一線を画した生活を続けている。

 田村麻呂はその風貌もまた、かつての貴族を彷彿とさせるものだった。端正な顔立ちに、どこか儚げな印象を漂わせる鋭い目。背筋の伸びた姿勢と気品のある振る舞いは、生まれながらにして特別な環境で育ったことを物語っていた。

 そんな彼が、ある夜、奇妙な夢を見た。

 広大な草原が広がっている。その中央を、一頭の馬が駆けていた。

 馬はしなやかで美しく、その動きはまるで風そのもののように軽やかだった。しかし、その馬の身体には、どこからともなく黒い影が這い寄っていた。無数の邪気が、馬の四肢から絡みつき、背を這い上がり、やがてその全身を覆い尽くしていく。

 馬は苦しげに(いなな)いた。もがき、足を激しく蹴り上げ、それでも邪気から逃れようともがく。

 しかし、抵抗は無駄だった。

 ついに馬は完全に邪気に飲み込まれ、その目には狂気の光が宿った。

 そしてその瞬間——

 「悲しい……」

 どこからともなく、そんな言葉が響いた。

 田村麻呂は汗だくで目を覚ました。心臓が激しく打ち、喉がひどく乾いている。まるで現実に体験したかのような、生々しい恐怖が胸を締めつけた。

 なぜこの夢を見たのか。

 そして、なぜその夢の中で、あれほどの悲しみを感じたのか。

 なんとなく気になり、翌朝、家族に夢の話をした。しかし、誰もが軽く笑うばかりで、まともに取り合おうとはしなかった。

 「夢なんてそんなものだろう?」

 「疲れているんじゃないか?」

 そう言って、家族はいつもの日常に戻っていった。

 だが、田村麻呂の胸には、消えない違和感が残った。

 そして、その日を境に、彼の周囲で異変が起こり始めるのだった——。


 第2章:迫りくる呪い

 悪夢は終わらなかった。それどころか、日に日にその輪郭を強め、田村麻呂の精神を蝕んでいった。

 夢の中の草原は、最初はただの幻想にすぎないように思えた。しかし、繰り返されるごとに現実味を増し、風の音や馬の蹄の響き、草の匂いまでもが鮮明に感じられるようになった。そして、その馬は変わらず駆け続けていた。だが、邪気が覆い尽くす速度は加速し、馬の嘶きは悲鳴と化していった。

 「助けて……」

 ある夜、はっきりとそう聞こえた。

 目を覚ました田村麻呂は、息を荒くしながら天井を見つめた。汗が額から滴り落ち、心臓が激しく鼓動し続けている。彼は急いで部屋の電気をつけ、何かに取り憑かれたかのように手を握りしめた。

 そして、それから数日後。

 異変は彼の屋敷に広がっていった。

 夜中、廊下から何者かが歩く音が聞こえた。だが、家族の誰もそこにはいなかった。開けたはずのない襖が音もなく開閉し、誰もいない部屋から嗚咽のような音が漏れ聞こえてくる。

 屋敷の者たちは、ひとり、またひとりと体調を崩し始めた。

 まず、使用人のひとりが突然、高熱を発し、そのまま苦しみながら息を引き取った。医者の診断では特に病気の兆候はなく、原因不明の死とされる。

 次に、祖母が激しい衰弱に襲われた。食事を摂ることもできず、みるみるうちに痩せ細っていく。そして数日後、静かに眠るように息を引き取った。

 田村麻呂の両親もまた、同じように体調を崩した。いつもは威厳に満ちた父が、床に伏し、まともに会話をすることすらできなくなっていた。母もまた、身体に異変を感じ、言葉少なに寝室にこもるようになった。

 この屋敷の空気が変わっていくのを、田村麻呂は肌で感じていた。

 彼は、この呪いの根源を突き止めなければならないと悟った。

 「先祖の墓……何か関係があるのかもしれない……」

 そう思い、彼は先祖の墓へと足を運んだ。

 重い空気が漂う墓地。歴代の石川家の墓石が並ぶ中、彼は祖父母の墓へと手を合わせた。しかし、そこには何の異変も感じられなかった。

 しかし、田村麻呂はここでは何も感じなかった。ただ、異様に朽ち果てた石碑が目に入った。表面は風化し、刻まれていた文字のほとんどが判読できない。その墓石に手を触れた瞬間、田村麻呂の頭の中に、異様な光景がよぎった——

 戦場。血まみれの騎馬兵。暴れ狂う馬。無念の嘶き。そして、封印される闇。

 その映像が脳裏に流れた瞬間、激しい悪寒が背筋を這い上がった。

 「これは……」

 田村麻呂は、呪いの正体が少しずつ姿を現し始めていることを感じていた。しかし、その意味を理解することはできなかった。

 その夜、屋敷ではさらなる怪異が発生することになる。

 ——そして、伊田裕美のもとへと、助けを求める一通の手紙が送られることとなる。


 第3章:霊能探偵・伊田裕美

 東京都荒川区日暮里。ここには、伊田裕美が務める旅行雑誌『旅人ジャーナル』の編集部がある。

 編集部の室内は、朝から電話の音やキーボードを叩く音が響き、活気に満ちていた。裕美は今日も忙しく、デスクの上には取材メモや企画書が山積みになっている。

 「裕美、コーヒーを頼むよ」

 編集長の伝兵衛が、机から顔を上げる。

 「はいはい、ただいま」

 裕美は立ち上がると、手際よくコーヒーを淹れ、編集長のデスクに置いた。

 「助かるよ。で、来週の信州温泉特集、準備は進んでるか?」

 「ええ、スケジュール通りに進めています。取材は来週行う予定ですから、問題ありません」

 伝兵衛が満足げにうなずいたそのとき、編集部のドアが開き、一人の男が入ってきた。

 「あの、伊田裕美さん、いらっしゃいますか?」

 背筋を伸ばした青年が、少し緊張した面持ちで立っている。

 「はい、あたしですが」

 裕美が振り向くと、青年——田村麻呂は丁寧に一礼し、自己紹介の後、今までの経緯を語り始めた。

 「実は、私の住む地域で奇妙な出来事が続いていまして……」

 彼の話は、幽霊の目撃談や不可解な現象についてのものだった。裕美は真剣に耳を傾けるが、その途中で伝兵衛が大げさに手を振った。

 「駄目!駄目だよ、裕美! 来週は信州の温泉旅行の取材があるんだから、余計なことに首を突っ込むな」

 「編集長、大丈夫ですよ」裕美は肩をすくめ、微笑んだ。「信州の取材は来週ですし、それまでに片付けますわ」

 伝兵衛は呆れたようにため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。裕美の中には、すでに探偵としての好奇心が芽生えていた。この依頼、何かただならぬものを感じる——。


 第4章:目覚める怨念

 裕美は田村麻呂の案内で、彼の家へと向かった。

 古びた日本家屋の前に立った瞬間、今まで感じたことのないほどの強い霊気が肌を刺すように伝わってきた。まるで家全体が何かに取り憑かれているかのようだった。

 玄関の引き戸を開けた途端、奥の部屋の窓ガラスがいきなりガタガタと鳴り、突然開いた。風のないはずの室内で、ふわりと冷たい空気が流れる。

 「……これは、なかなか強いわね」

 裕美は静かに呟いた。霊の気配が、そこかしこに漂っている。家の中に入るたびに、誰かの視線を感じるようだった。

 この日は田村麻呂の家に泊まることになった。彼の部屋に布団を敷き、隣同士で寝ることにしたが、夜中、田村麻呂が突然、うめき声を上げた。

 「う……うぅ……」

 苦しげな寝息が聞こえ、裕美はすぐに彼を揺り起こした。

 「どうしたの?」

 田村麻呂は額に汗を滲ませながら、息を荒くしていた。

 「怖い……寝るのが怖いんです」

 「怖い?」

 「同じ夢を、何度も見るんです」

 彼の顔は青ざめ、手が小刻みに震えていた。

 「どんな夢?」

 「誰かに……呼ばれてるんです。黒い着物を着た女の人が、暗闇の中から……」

 裕美は眉をひそめた。それは、単なる悪夢ではない可能性が高い。何かが田村麻呂を引き寄せようとしている——。

 【翌朝】翌朝

 朝食を囲みながら、裕美は田村麻呂に問いかけた。

 「お墓参り、ちゃんとしていますか?」

 田村麻呂は箸を止め、少し考え込んだ後、ぽつりと答えた。

 「ええ、祖父母や親戚のお墓には定期的に行っています」

 「他には?」

 「明治時代になって、一族の墓はひとつにまとめて火葬するようになったんですが……」

 「江戸時代以前のものは?」

 「いくつもあると思います。でも、正確な場所はわかりません」

 裕美は静かに頷いた。どうやら、何かが埋もれたままになっているようだ——。


 第5章:封じられた記憶

 田村麻呂とともに、裕美は他の墓を訪れた。古い墓石が並ぶ中、それら自体には特に異変は見られなかった。だが、ふと寺の入口に目を向けると、そこに建てられていた馬頭観音の石が無残に壊れているのが目に入った。

 「……これは?」

 裕美が指差すと、田村麻呂が顔をしかめた。

 「最近、誰かが壊したんでしょうか。でも、こんな大きな石を砕くなんて……」

 裕美は破損具合を注意深く観察した。角が砕け、ひびが深く入り、まるで何か大きな衝撃を受けたような形跡がある。

 「この感じ……おそらくトラックか何かがぶつかったのね」

 だが、ただの事故にしては、不穏な空気が漂っている。まるで何かが目を覚ましたかのような——。


 【馬頭観音と封じられた呪い】

 田村麻呂の家系には、ある伝説が残されていた。

 「昔、先祖が魔物を退治したと聞いています。そして、その亡骸を埋め、その上に馬頭観音を建てたとか……」

 「魔物?」

 「一応、鵺だったと伝わっています。でも、もしかすると違うのかもしれません」

 彼の話を聞きながら、裕美は1つの可能性を思い描いた。

 ——そもそも、退治されたのは本当に鵺だったのか?

 「もしかして、その魔物って、元々は馬だったんじゃないかしら?」

 「馬?」

 「あなたの先祖が飼っていた名馬が、戦場で無念の死を遂げた。でも、その馬には何かしらの呪詛がかけられていたのでは?」

 田村麻呂は息をのんだ。

 「それで……?」

 「結果として、その名馬は異形の存在へと変化し、暴れ出し、最終的に討たれた。そして、その魂を鎮めるために建てられたのが、馬頭観音だったのよ」

 しかし、寺の貧困や戦争の影響で、墓地の土地は切り売りされ、馬頭観音も本来の場所から移動されていた。封印は弱まり、今や完全に破られようとしている——。

 「つまり、馬頭観音が壊れたことで、その呪詛が解き放たれ、怨霊が鵺の姿を取ったってことか……?」

 その瞬間——。


 【突如、暗闇が襲う】

 ふいに、周囲の光がすっと消えた。まるで太陽が一瞬にして落ちたかのように、世界が闇に沈む。

 「……っ!」

 風が荒れ狂い、耳をつんざくような獣の唸り声が響き渡る。

 「来るわ!」

 裕美が身構えた瞬間、闇の中から巨大な影が躍り出た。

 「——鵺!」

 それは、まさに伝説の怪物の姿をしていた。しかし、よく見ると、その体の一部は異様に長い馬の脚のようにも見える。

 「やっぱり……!」

 その正体は、呪詛によって変異した名馬の怨霊——。

 次の瞬間、鵺が凄まじい勢いで飛びかかってきた。裕美は咄嗟に避けようとするが、完全には間に合わず、鋭い爪が腕をかすめた。

 「くっ……!」

 火傷のような痛みが走り、裕美の腕に血が滲む。

 「裕美さん!」

 田村麻呂が叫ぶ。しかし、怪物はさらに大きく口を開け、二人を呑み込もうと迫ってきた——。


 【間一髪の逃走】

 裕美は痛みをこらえながら、咄嗟に周囲を見渡した。鵺の動きは素早く、このまま逃げるだけではいずれ追いつかれる。ならば——。

 「田村麻呂、走るわよ!」

 「えっ、でも——」

 「いいから!」

 裕美は田村麻呂の腕をつかみ、一気に駆け出した。鵺がギャアアアッと咆哮し、地面を蹴って追いかけてくる。

 「やばい、追ってきてる!」

 裕美は必死に頭を回転させた。このままでは危ない。しかし、幸いにもこの土地の地形は彼女の味方だった。

 「こっちよ!」

 彼女はとっさに寺の裏手へと向かった。そこには、かつて本堂だった建物の残骸がある。

 「ここなら!」

 裕美は素早く、倒れかけた木の柱の影に身を潜めた。田村麻呂も息を殺し、じっとする。

 鵺はしばらく周囲を嗅ぎ回っていたが、次第にその動きが鈍くなり、やがて唸り声を残して姿を消した。

 「……行った?」

 田村麻呂が小声で呟く。裕美は深く息をついた。

 「ひとまず、撒いたみたいね」

 しかし、これで終わりではない。鵺は確かに目覚めた。問題は、どうやって封じ直すか——。

 「田村麻呂、やっぱりあなたの家系の過去をもっと詳しく調べる必要がありそうね」

 戦いは、まだ始まったばかりだった。


 第6章:蔵六の秘策

 【湯川寺本堂】

 蝋燭の炎が揺らめく静かな堂内。村田蔵六と伊田裕美が向かい合っていた。

 「……今まで、お前が怪我をしたことなんて一度もなかったのに」

 蔵六は険しい顔をして腕を組む。

 「今度ばかりは……」

 裕美は腕の傷をちらりと見た。霊的な力を持つ彼女は普通の攻撃なら防げるはずだった。だが、今回は違った。

 「『たむならの勾玉』、『たむならの鏡』、『たむならの剣』があるわよ」

 「……それで勝てるのか?」

 「勝てるわよ。他に何か手があるの?」

 蔵六はしばし沈黙した後、静かに呟いた。

 「……裕美の身体に霊彫を施せば、より確実だろう」

 裕美の眉がピクリと動く。

 「霊彫?」

 「そうだ。お前の体に梵字の刺青を入れるのだ」


 【霊彫の決断】

 霊彫——それは、ただの刺青ではない。

 古来、強力な霊力を持つ者や呪術師たちが、魔除けや防御のために身体に刻んできた秘術だった。

 「そんなの、簡単に入れられるものじゃないわ」

 裕美は腕を組み、顔を背ける。

 「必要なのはわかる。でも……」

 「お前も感じてるだろう?」

 蔵六の目が鋭く光る。

 「今までの霊とは格が違う。お前一人の力だけでは、これから先、確実に命を落とすぞ」

 裕美は返す言葉を失った。

 確かに、鵺との戦いでは勝てたものの、ほんの一瞬の隙で怪我を負った。それが致命傷になっていてもおかしくなかったのだ。

 「……わかった」

 裕美は小さく息をついた。

 「でも、顔・胸・股間には絶対に入れないからね」

 霊彫の儀式——裕美、苦痛に耐える。

 湯川寺の奥にある一室。

 そこに待っていたのは、屈強な男——彫師・惣兵衛。

 「……本当にやるんだな?」

 惣兵衛の声は低く、まるで石を転がしたような響きがあった。

 「ええ」

 裕美は覚悟を決めたように頷く。

 彫刻刀が火にかざされ、浄められる。

 「さあ、始めようか」

 惣兵衛が裕美の背中に手を当て、梵字を彫り始める。

 「……っ!!」

 裕美は歯を食いしばった。

 肌に針が刺さる鋭い痛み——いや、それだけではない。

 彫られた瞬間、まるで皮膚の奥深くまで何かが焼き付けられるような、強烈な熱と痺れが広がった。

 「くっ……!」

 背中の神経が剥き出しになったような感覚。額に汗が滲む。

 「……無理なら、中断するか?」

 惣兵衛が手を止めて尋ねる。しかし裕美は、かぶりを振った。

 「続けて……」

 たとえ痛くても、必要なことだった。

 蔵六は黙って様子を見守る。

 再び彫刻刀が動き出す。

 ズブズブと皮膚の下にまで食い込むような感覚。痛みは波のように襲い、背骨を駆け上がる。

 「……っ!」

 息が詰まる。手のひらがじっとりと汗で濡れる。

 「いい根性だ」

 惣兵衛が微かに笑った。

 「ほかの奴なら、とっくに悲鳴を上げてるぞ」

 「……だったら……あたしは、その“ほかの奴”とは違うってことね……」

 言葉を搾り出しながら、裕美は痛みに耐える。

 梵字の刺青は、ただの装飾ではない。

 「霊力を封じる」「攻撃を防ぐ」「一時的に強化する」——そんな効果を持つ。

 だからこそ、痛みも尋常ではなかった。

 やがて、背中から腕、足へと彫り進められていく。

 痛みは徐々に、感覚を超えた苦痛へと変わる。

 まるで霊そのものが、裕美の体の中で暴れ回っているようだった。

 「……っ、あと、どれくらい……?」

 「もう少しだ」

 惣兵衛の手は、迷いなく動き続ける。

 ガリッ……ガリッ……

 皮膚に刻まれていく梵字が、微かに光を放つ。

 「っ……!」

 裕美の全身に熱が走る。

 そして——。

 「……よし、終わった」

 惣兵衛が彫刻刀を置いた。

 裕美は大きく息を吐き、全身の力を抜いた。

 「……やっと、終わったのね」

 苦痛の余韻が残る身体を抱えながら、彼女はゆっくりと起き上がった。

 裕美の本音——「普通の愛」への一抹の希望。

 霊と戦い続ける人生。

 それが裕美の宿命だった。

 だが、心の奥底には、捨てきれない想いがあった。

 ——「いつかは普通の愛を得るかもしれない」

 もし、全身に霊彫を刻んでしまえば、二度と普通の女性には戻れない気がする。

 だからこそ、顔・胸・股間だけは守りたかった。

 「ここに霊彫を入れなければ、まだ普通の人生の可能性は残る」

 それは、裕美が自分の中に持ち続けていた、最後の希望だった。


 【蔵六の反応】

 「顔に入れたら仕事に支障が出るだろうが……なぜ股間とおっぱいはダメなんだ?」

 「……」

 裕美はわずかに頬を染め、目を逸らした。

 「……そのうち、必要になるかもしれないでしょ」

 蔵六は首を傾げる。

 「何が?」

 裕美は無言で、蔵六の額を軽くデコピンした。

 「鈍感なんだから」

 「……???」

 納得がいかないまま、蔵六は不満そうに裕美を見つめた。

 こうして、裕美の身体には最小限の霊彫が刻まれた——。

 新たな力を得た裕美。戦いは、まだ終わらない。


 第7章:鵺との対決

 【霊的防御の穴】

 湯川寺の裏山。

 夜の闇に包まれた森の中で、重い気配が漂っていた。

 風もなく、静寂が支配しているはずなのに、何かがうごめいている——。

 「来るわ……」

 裕美はじりじりと後退しながら、視線を四方に巡らせた。

 すると——。

 ギャアアアアアッ!!

 凄まじい叫び声とともに、闇の中から黒い影が飛び出してきた。

 「鵺!」

 それは馬のような体躯を持ち、燃えるような赤い目をした異形の怪物だった。

 「っ……!」

 裕美はすぐに反応し、身を翻す。しかし、鵺は彼女の動きを見極めるかのように、一瞬動きを止め、次の瞬間には猛然と突進してきた。

 そして——。

 「……ッ!」

 その爪が向かう先は、彼女の「防御の薄い部分」だった。

 刺青を入れていない箇所に、攻撃が集中する!

 「ちっ……察知されたか!」

 裕美は体をひねり、なんとか直撃を避けるが、爪の先が腕をかすめた。布が裂け、血が滲む。

 「やっぱり……こいつ、私の弱点を狙ってくる……!」

 霊彫を施した部分には攻撃が通じないと理解したのか、鵺は執拗に無防備な箇所を狙ってきた。

 「なら……先に仕掛けるしかない!」

 裕美は「たむならの勾玉」「たむならの鏡」「たむならの剣」を素早く構え、呪文を唱えながら立ち向かう。


 【田村麻呂、覚悟の一閃】

 そのとき、傍らで状況を見ていた田村麻呂が、刀を抜いた。

 「……俺も、戦います!」

 「何言ってんのよ! あなたは普通の人間なんだから——」

 「でも、俺の家の呪いを終わらせるには、俺自身が戦わないといけない!」

 彼の目には迷いがなかった。

 裕美の力を目の当たりにしたことで、「この女性なら、自分の家の呪いを終わらせてくれるかもしれない」と希望を抱いていた。

 そして、彼はその戦いの一員になることを決意したのだった。

 「なら——足を引っ張らないでよね!」

 裕美がにやりと笑い、再び鵺に向き合った。

 「来い!」


 【決着、呪われた馬の正体】

 「——はっ!」

 田村麻呂の刀が、鵺の体を切り裂く。

 同時に、裕美の「たむならの剣」が霊的な光を放ち、鵺の動きを封じた。

 「……終わりよ!」

 最後の一撃を叩き込むと、鵺は激しくのたうち回り、やがてその体が淡い光となって消えていった。

 残ったのは、黒焦げた馬の骨——。

 「やっぱり……この鵺の正体は、呪われた馬だったのね」

 田村麻呂の家に伝わる伝説。

 それは、かつて田村麻呂の祖先が飼っていた名馬が、戦場で無念の死を遂げたことに端を発していた。

 何者かによって呪詛がかけられたその馬は、異形の存在へと変わり、怨霊となった——。

 「でも、これで……」

 裕美は田村麻呂を振り返る。

 「あなたの家の呪いは終わったわよ」

 田村麻呂はしばらく呆然としていたが、やがてほっと息をついた。

 「……本当に、ありがとう……」

 その後、田村麻呂は馬頭観音を再建することを決意した。

 その夜、彼は夢を見た。

 ——そこには、爽快に駆ける馬の姿があった。


 第8章:エピローグ

 「ん〜……極楽……」

 温泉の湯に身を沈めながら、裕美は深いため息をついた。

 鵺との戦いを終え、田村麻呂の家の呪いも解けた。

 ようやく、心からの安堵を感じられる時が訪れたのだった。

 「んふふ……」

 湯に浸かりながら、自分の胸と花園をそっと撫でる。

 「……守られたわね……」

 戦いのために体に刻まれた霊彫。

 それでも、この部分だけは、普通の自分として残したかった。

 いつか、普通の愛を得られる日が来るかもしれない——。

 そんな淡い希望を胸に抱きながら、裕美はゆっくりと湯に沈んでいった。

 (完)


 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 本作『呪馬の哭く夜』は、歴史の中に埋もれた「未完の因果」を描くことを目的として執筆しました。過去に起こったことは変えられなくとも、その意味を問い直し、新たな解釈を見出すことで、人は前に進むことができる——そう信じています。

 伊田裕美というキャラクターは、ただ霊を退治するだけの存在ではなく、「この世とあの世の狭間に立ち、迷える者たちの声を聞く者」として描いています。彼女にとって、事件の解決とは単なる「霊の浄化」ではなく、残された者たちの「未来」を見据えた決断なのです。

 また、田村麻呂の成長も本作の重要な要素でした。呪いに翻弄されるだけだった青年が、最終的に己の意志で戦い、未来を切り開いていく。その変化こそが、この物語の核心だったのかもしれません。

 今回の物語が、読者の皆様にとって「単なる怪異譚」ではなく、「受け継がれるものと、それに向き合うことの意味」を考えるきっかけとなれば幸いです。

 最後に、また次の物語でお会いしましょう。

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