霊能探偵と呪われた混浴温泉
温泉——それは古くから日本人の心と体を癒やしてきた場所である。しかし、時としてその穏やかな湯煙の中に、恐怖と陰謀が潜んでいることもある。
『霊能探偵と呪われた混浴温泉』は、そんな温泉を舞台にしたミステリーであり、怪奇と謎が絡み合う物語である。本作では、旅行ルポライター兼霊能探偵である伊田裕美が、大方温泉で発生した不可解な死と怪奇現象を調査し、隠された真実を暴く。
混浴文化が残る温泉地、老人介護施設と隣接する異色の温泉、財閥を巡る遺産相続の争い——そして、怨霊たちの復讐。事件の背後には、人間の欲望と執念が渦巻き、超常現象すらも引き起こしていく。
本作を通じて、ただの怪談ではなく、人間の業や欲望、そして真実を追い求める探偵の姿を楽しんでいただければ幸いである。
【登場人物】
伊田裕美:霊能探偵、旅行ルポライター、ショートカットの黒髪を持ち、知的な印象を与える黒のスーツに身を包んでいた。端正な顔立ちと鋭い眼差しが特徴で、どこか探偵のような雰囲気を漂わせていた。
伝兵衛:旅行雑誌編集長。
村田蔵六:陰陽師で湯川寺の住職、霊能探偵の相談相手。
大方正恵:大方温泉の女将で大方老人介護施設のオーナー。
孤児宮孤児男:大方老人介護施設の専属医師で福島県の監察医。
長汐早苗:大方老人介護施設介護士
宮崎英二:東京の宮崎財閥の実質の後継者。宮崎トメの次男。
宮崎紀子:英二の嫁。
宮崎英一郎:故英一の長男。
第1章:湯煙に消えた老女
福島の山間にひっそりと佇む大方温泉。四方を木々に囲まれ、朝には白い湯気が立ち上り、夜には湯面に映る月が揺れる。その静寂を求め、遠方からの客も少なくない。しかし、ここはただの温泉ではなかった。隣には大方老人介護施設が併設されており、入居者たちは温泉の恩恵を受けながら余生を過ごしていた。
この大方温泉には、もう1つ特徴がある。それは、男女混浴という伝統だ。時代の流れに逆行するこの風習は、長年地元で受け継がれ、今もなお続いていた。地元の老人たちは、気兼ねなく温泉に浸かり、日々の憂いを洗い流していた。しかし、その静かな日常に突如として暗雲が立ち込めた。
ある晩、一人の老婆が温泉の中で死んでいるのが発見された。その名は宮崎トメ、享年九十歳。東京に本社を構える宮崎財閥の一族であり、財閥の創設者である宮崎太郎の妻だった。
大方老人介護施設の専属医師であり、福島県の監察医でもある孤児宮孤児男が死亡診断を下した。
「死因は脳卒中。高齢者であることを考えれば、不自然ではありません」
彼は淡々とそう言い切った。確かに、九十歳ともなれば、温泉の湯気や温度変化が血圧に影響を与える可能性は十分にある。突然死が起こっても不思議ではない。しかし、その死に疑問を抱いた者は少なくなかった。
なぜなら、トメは生前、自身の健康には細心の注意を払っていた。食事は栄養管理が行き届いており、適度な運動を欠かさず、頭脳明晰で認知症の兆候すら見られなかった。さらに、彼女の死をきっかけに、大方老人介護施設の経営者である大方正恵に対する批判の声が上がった。
「大方老人介護施設の管理がずさんなのではないか?」
「高齢者が安心して入浴できる環境になっていなかったのでは?」
地元の新聞や週刊誌は、施設の安全管理の問題を取り上げる記事を次々に掲載した。しかし、不思議なことに、それらの批判の声はすぐにかき消されるように収まった。報道機関も、次第にこの事件を追わなくなっていった。
それはまるで、何者かが意図的に世間の関心を逸らそうとしているかのようだった。そして、その影には、宮崎トメの財産を巡る思惑が渦巻いていた。
トメには次男である宮崎英二がいた。宮崎財閥の実質的な後継者と目される存在であり、彼の妻・紀子もまた、財閥の財産を手中に収めることに関心を寄せていた。もし、トメが財閥の遺産を長男の息子である宮崎英一郎に相続させようとしていたのなら?
そして、宮崎財閥の財産管理を巡る権力争いの中に、監察医である孤児宮孤児男が関与していたとしたら? 彼がトメの死を「自然死」と断定し、遺産相続の計画に協力していたのではないか?
不可解な死。消される批判の声。湯煙の向こうにうごめく陰謀。
この静かな温泉街に、隠された真実が眠っていた。
第2章:棺が語る違和感
宮崎トメの孫、宮崎英一郎(18)は東京の大学に通い、一人暮らしをしていた。彼にとって祖母のトメは特別な存在だった。幼い頃から可愛がられ、何かあるたびに助言をくれた祖母。そんな彼女の突然の死は、英一郎にとって受け入れがたいものだった。
祖母の葬儀が静かに執り行われる中、英一郎は棺の前で手を合わせていた。僧侶の読経が響く厳かな空間に、突如として違和感が走った。
——棺が動いた?
一瞬、彼の目の錯覚かと思った。まばたきをしてもう一度見つめるが、棺は静かに横たわっている。
「まさか……そんなわけないか」
しかし、胸の奥にざわめきが広がる。この違和感を誰かに伝えずにはいられなかった。
「おじさん、おばさん……今、棺が動いたような気がしたんだけど」
英一郎の言葉に、義理の叔母である紀子がピクリと反応した。そして、すぐに冷ややかな声を放つ。
「何を言っているのよ。バカなことを言うんじゃないわよ」
「でも、本当に——」
「いい加減にしなさい!」
紀子の剣幕に、英一郎は口をつぐんだ。その場にいた親族もざわついたが、すぐに何事もなかったかのように読経が再開された。
(……無理もないか。こんな場で騒ぎを起こすのはよくない)
英一郎はこれ以上言うのはやめようと決めた。しかし、祖母の遺体が火葬場で焼かれた後、彼はこっそりと5cmほどの骨をポケットにしまった。それが何の意味を持つのか、彼自身にも分からなかった。ただ、どうしても手放したくなかったのだ。
葬儀が終わったその日から、英一郎の周囲で奇妙な出来事が起こり始めた。
強風が吹き荒れる日、大学の近くで外壁工事中の鉄骨が落ちてきた。しかし、それは彼の目の前ギリギリのところで止まり、英一郎はかすり傷1つ負わなかった。
また、大学からの帰り道、誰かに尾行されているような感覚に襲われることが増えた。振り向いても誰もいない。しかし、確かに視線を感じる。さらには、自宅のドアを施錠したはずなのに、帰宅すると開いていることもあった。
「まさか……おばあちゃん?」
次第に英一郎は、これらの怪現象が祖母の霊からのメッセージなのではないかと考え始めた。何かを伝えようとしているのではないか——。
「おばあちゃんの遺言状とか、何か残されていなかったのかな……?」
英一郎の胸には、不安と疑念が渦巻いていた。
第3章:財閥を揺るがす死
宮崎財閥の運営は、次男である宮崎英二が引き継いだ。彼は父・宮崎英一の遺志を継ぎ、財閥の安定運営を目指していた。しかし、そのわずか1か月後、英二は水死体となって発見された。
発見場所は、大方温泉の小浴場。温泉の湯に沈んだままの英二の顔は、苦悶に歪んでいた。彼の遺体を発見した宿の従業員は、恐怖に震えながら警察に通報した。
「こんな……ありえない……」
英二の死は事故と判断されたが、関係者の間では不吉な噂が飛び交った。
「トメ様の呪いではないのか?」
「いや、これは何者かの陰謀では……?」
財閥の運営は、英二の妻・紀子が引き継ぐこととなった。しかし、彼女が後を継いだその日から、大方温泉と宮崎家には怪奇現象が頻発するようになった。
——たとえば、ある夜。
大方温泉の大浴場の湯船から、不気味な黒い影が立ち昇った。番頭が異変に気づき、明かりをつけた瞬間、影は一瞬にして消えた。しかし、湯船の中には人の手形が無数に浮かんでいたという。
——また、ある日。
大方老人介護施設では、夜勤の介護士・長汐早苗が異変を感じた。入居者の部屋を見回っていた彼女は、廊下の奥に白い着物を着た老婆の影を見た。
「……どなたですか?」
恐る恐る声をかけると、老婆はゆっくりと振り向いた。目はくぼみ、異様にやせ細った顔。その口元が不自然に吊り上がる。
「……逃げて……」
次の瞬間、老婆の姿は霧のように消えた。驚愕した早苗はその場に倒れ込み、翌朝発見されたときには、意味不明の言葉をつぶやき続けていた。
——さらに、宮崎家でも。
英二の葬儀の後、紀子が自室の鏡を覗くと、背後に見知らぬ影が映っていた。慌てて振り返るが、誰もいない。しかし、鏡の中にはなおも、その影が立っていた。
「な、何なの……?」
震える手で鏡を拭おうとした瞬間、影の口が不気味に開いた。
「……返せ……」
その声は、まぎれもなく、死んだはずの宮崎英二のものだった。
紀子は恐怖のあまり、その晩から屋敷の別の部屋で寝るようになった。しかし、それ以降も宮崎家では、誰もいないはずの廊下を歩く音や、夜な夜な響くすすり泣きの声が絶えなかった。
大方温泉と大方老人介護施設、そして宮崎家。
まるで死者がこの世に未練を残し、何かを訴えかけているかのようだった——。
第4章:霊能探偵の出動
東京都荒川区日暮里——この下町の一角に、旅行雑誌『旅と秘湯』の編集部がある。ここで働くのが、霊能探偵こと伊田裕美である。彼女は本業の旅行ルポライターとして活動しながら、超常現象や怪奇事件の調査にも携わっていた。
ある日、編集部の扉が開き、二人の訪問者が姿を現した。ひとりは福島の大方温泉を経営する女将・大方正恵。そして、もうひとりは東京の大学に通う青年、宮崎英一郎だった。二人とも切羽詰まった様子であった。
「伊田さん、お願いがあります」 正恵が深々と頭を下げた。
「うちの温泉と老人介護施設で、説明のつかない怪奇現象が起こっているのです。夜な夜な聞こえるすすり泣き、突然止まる温泉の湯、そして……浴場に映るはずのない人影」
「それに加えて……」と英一郎が続ける。
「僕の祖母・トメと叔父・英二が亡くなりました。二人とも大方温泉に関係していたのに、死因は偶然として片付けられてしまった。でも、どうも納得がいかないんです。もしかしたら、何か裏があるのではないかと思って……」
裕美は腕を組んで考えた。興味深い話ではある。しかし、編集部の方針として、オカルト調査を直接の仕事にすることはできない。そこで、編集長・伝兵衛が口を開いた。
「うちは旅行雑誌だ。基本的に旅行ルポ、温泉ルポ以外は扱わん」
この冷たい言葉に正恵は怯むことなく即座に応じた。
「それなら、私の温泉の取材をお願いします」
「……なるほど、そういう手できたか」
伝兵衛は苦笑しつつも、正恵の依頼を承諾した。福島の温泉取材として話を進めるならば、編集部としても問題はない。こうして、裕美は大方温泉へと向かうことになった。
【大方温泉の背景】
大方温泉は、正恵の祖父が発見し、父の代では老人介護施設が併設された歴史ある温泉だった。しかし、最近になって悪い噂が立ち始めていた。
「トメさんも英二さんも亡くなって、うちの温泉はすっかり“呪われた場所”になってしまったんです」
地元の人々はトメと英二の死に何か裏があると噂し、観光客も次第に遠のいていった。そして、その影響はSNSにも現れていた。
《心霊スポット化してる温泉ってヤバくね?》 《夜中に風呂場で誰かの声がするって話、まじ?》 《大方温泉、やばい温泉ランキングNo.1!》
こうした投稿が相次ぎ、温泉の評判はますます悪化。まともな日本人客が来なくなり、代わりに訪れるのは外国人ばかりになった。
【変わりゆく客層】
「ここ最近、日本人はほとんど来なくなりました……。代わりに中国人住人が増えて、正直、対応に困っています」
正恵は深いため息をついた。
「マナーが悪い人も多くて……。公共の場で唾を吐く、トイレを使わず野外で済ませる、部屋の備品を勝手に持っていく……。以前、テレビを持ち帰ろうとした客に注意したら、“部屋にあるものは自由に持ち帰っていい”と思っていたらしくて……」
「それはひどいですね」
裕美も苦笑いしながら頷く。日暮里も池袋も同様の状況で、中国人住人が急増していた。池袋の方は比較的裕福な層が多いが、日暮里は低所得層の中国人が多く、マナーの問題が深刻化していた。
「私たちの温泉は、ずっと地元の人に愛されてきた場所でした。それなのに、こんな形で評判を落とされてしまうなんて……」
正恵の嘆きに、裕美は静かに考え込んだ。トメと英二の死、怪奇現象の頻発、そして急激に変わる温泉の客層——。すべてが絡み合っているように思えた。
(この温泉には、まだ隠された何かがある……)
裕美は決意を固め、大方温泉への取材兼調査に向かうことを決めた。
第5章:呪われた遺言
長汐早苗は、高熱にうなされながら、うわ言を繰り返していた。もともと痩せ型だった彼女の体はさらにやつれ、頬はこけ、肌は青白く、髪は抜け落ちてぼさぼさになっていた。まるで何かに生命を吸い取られているかのようだった。
ある夜、裕美と英一郎、正恵が温泉の入口に差し掛かったとき、不意に叫び声が響いた。
「来ないで……来ないで……!」
それは、早苗の声だった。彼女は何かに怯えながら、裸足でこちらへ駆けてきた。しかし、彼女の背後には誰もいない。
「早苗!」
正恵が驚いた声を上げた。
「早苗さん、どうしたの!?」
しかし、早苗はまるで聞こえていないかのように、怯えた目で周囲を見回し、そのまま林の奥へと走り去っていった。
誰もが追いかける間もなく、彼女の姿は森の暗闇に溶け込んでいった——。
【早苗の行方】
翌朝、温泉街の青年団と共に早苗の捜索が始まった。山中を何時間も探し続け、ついに大きな木の切り株のそばで彼女を発見した。
早苗は力尽きたように地面に倒れていた。彼女の顔は驚愕と恐怖に歪み、その両手は何かを掴もうとするように宙を彷徨っていた。正恵は彼女の胸元に何かが挟まっているのに気づいた。
「……これは?」
慎重に紙片を取り出し、広げる。
そこには震える文字で、こう記されていた。
——宮崎トメの遺言—— ——宮崎英一郎を後継者とする—— ——財産は宮崎奉公会を通じて英一郎に相続される——
「これは……トメさんの遺言!?」
正恵が顔をしかめた。まるで遺書のようだ。しかし、なぜ早苗がこれを持っていたのか?
裕美も英一郎も、この遺言状の存在を知らなかった。本物の遺言状は宮崎紀子に渡った後、処分されたはずだった。
「つまり、紀子はこの内容を隠すために、遺言を処分したのね……」
英一郎が唾を飲み込む。ようやく全貌が見えてきた。
思考を巡らせながら、正恵は裕美に視線を向けた。
「伊田さん、これ……どう思いますか?」
裕美は紙片を見つめながら、スマホを取り出し、東京の村田蔵六に連絡を入れた。
「内容はわかったよ。しかし、霊を鎮めるか、それとも成敗するか……それが問題じゃな」
電話口の蔵六の声は重々しかった。
「人は死んでも、皆が霊になるわけではない。だが、強い執念を持った者は、時にこの世に強烈な痕跡を残す。今回のケースは、その典型かもしれん。もしかすると、大方温泉には神功皇后の聖なる銅剣が眠っておるかもしれんぞ」
「銅剣?」
「うむ。古来より霊を退ける神具として伝えられておる。それがおぬしを守ってくれるかもしれん。こんなことなら、身体中に梵字の刺青でも入れておくのじゃったな!」
「馬鹿言わないでよ!」
裕美は呆れながらも、心のどこかで蔵六の言葉が引っかかっていた。神功皇后の銅剣——。
これが、すべての呪縛を断ち切る鍵なのかもしれない。
第6章:亡霊の裁き
東京から紀子がやってきた。彼女は孤児宮と密談するためだった。
「宮崎さん、もう少しはずんでもらわないと」
孤児宮は紀子にさらなる金を要求していた。紀子も最初は冷静に装っていたが、次第に苛立ちを隠せなくなった。
「何を言ってるのよ、あたしも手を貸してるんだから!」
そこへ裕美、英一郎、正恵が乗り込んできた。
「介護士の長汐早苗さんは、宮崎トメさんの介護をするかたわら、遺言状を盗み出していました。その内容は、孫の英一郎を後継者と定め、大学卒業までは宮崎奉公会がサポートするというものだった。そして——」
裕美は紀子を鋭く指差した。
「あなたは孤児宮と共謀し、温泉でトメさんを溺死させ、監察医である孤児宮が心臓発作と偽った。さらに、夫である宮崎英二をもおびき出して、同じように溺死させた。そして、その処理を孤児宮が行った……違う?」
紀子は肩をすくめ、冷笑を浮かべた。
「そんな証拠がどこにあるというの? 出してみなさいよ! あるなら!」
裕美は鞄から遺言状を取り出した。それは、介護士早苗が持っていたものだった。
「早苗さんはしっかり写しを残していたのよ! もう逃げられない! トメさん、英二さんのためにも潔くしなさい!」
「そんなの証拠になるか!」
孤児宮が叫んだ瞬間、非常に大きな落雷があった。晴れていた空は突如として暗雲に覆われ、大雨が降り始めた。そして、部屋の隅からもくもくと白い煙が立ち上り、それはゆっくりと人の形を成していく。
——トメの霊だった。
紀子は腰を抜かし、孤児宮は恐怖に駆られて外へと逃げ出した。
「待て!」
英一郎が追ったその瞬間、再び落雷が走り、孤児宮の身体に直撃した。彼は悲鳴を上げる間もなく、火柱となって燃え尽きた。
【霊の裁き】
部屋の中では、紀子の首が見えない手に締め上げられていた。
「苦しい……苦しい……!」
彼女の顔は赤く腫れ上がり、息も絶え絶えだった。そして、ついに彼女は叫び出した。
「そうよ! そうよ! その女の言う通りよ! 私たち3人でやったのよ! 宮崎財閥を自分のものにするために……!」
正恵は震え上がり、声すら出せない。トメの霊はさらに紀子の身体を蛇のように締め上げると、まるで裁きを下すように、彼女をそのまま床に叩きつけた。
紀子の最期の叫びが響き渡る。
——「ああっ!」
そして、彼女は動かなくなった。
「トメさん……あなたのお孫さんの英一郎さんは、私たちで守り抜きます。どうか成仏してください」
裕美が静かに語りかけると、トメの霊は一瞬頷いたように見えた。しかし、次の瞬間——。
トメの身体が引き裂かれ、そこから新たな霊が姿を現した。
それは、宮崎英二だった。
「俺は……子供の頃から兄貴の英一に虐げられ、生きてきた……。兄貴が死んだと思ったら、今度は嫁の紀子に裏切られた……。俺は……まだまだ復讐するんだ……! 俺は人間が憎い……! この温泉も、老人養護施設も、すべて破壊し尽くす……!」
英二の霊は、怒りと絶望に満ちた黒い瘴気を放ち、辺り一面を包み込んだ。
【最後の戦い】
「くっ……!」
裕美は鞄から『たむならの鏡』を取り出し、英二の霊に向けた。しかし、雷雨のため、鏡が必要とする月の光がない。
「ダメ……光が……!」
そのとき——裕美の胸元で『たむならの勾玉』が眩い光を放ち始めた。
「これは……!」
その光に呼応するように、正恵が玄関に展示してあった神功皇后の聖なる銅剣を手に取った。
「裕美さん、これを……!」
裕美は剣を受け取り、英二の霊に向かって振りかざした。
「英二さん……あなたの恨みはわかる。でも、これ以上はダメ!」
聖なる銅剣は、英二の霊を貫き、その身体をずたずたに切り裂いた。黒い瘴気が消え、英二の霊は静かに霧散していく。
さっきまでの嵐が嘘のように晴れ、月が夜空に浮かび上がった。
「……こんなことってあるのね」
裕美は息をつき、夜空を見上げた。
「英二さん……あなたが悪いわけではなかったのに……」
夜の温泉街には、ようやく静寂が戻っていた——。
第7章:静寂の温泉、そして新たな旅路
翌日、英一郎は東京へと戻った。手には祖母・宮崎トメの遺言状の写しが握られていた。その紙切れ一枚が、これまで彼を取り巻いていた謎を解く鍵となり、未来を切り拓くものとなるかもしれない。
「これが法的な根拠になるかはわからないけど……きっと宮崎奉公会の皆さんも英一郎さんに協力してくれるわね」
裕美は英一郎を見送りながら、そう呟いた。彼の表情にはまだ迷いや不安が残っていたが、以前のような暗い影はもうなかった。
【温泉に残るもの】
裕美にはまだ仕事が残っていた。大方温泉の取材だ。
事件の舞台となったこの温泉に、歴史と伝説があったことを知る者は少ない。彼女は改めて館内を見渡し、ふと玄関の展示ケースに目を留めた。
「ここに……神功皇后の聖なる銅剣があったなんて……」
それはただの装飾品のように見えたが、昨晩の出来事を思い出すと、その存在が持つ意味の重さを感じずにはいられなかった。
夜、正恵の計らいで、裕美は旅館で特別なもてなしを受けた。豪勢な食事が並び、事件の終焉を祝うかのように静かな宴が開かれた。
そして深夜——。
裕美と正恵は温泉へと向かった。
【すべてを洗い流して】
湯煙が立ち込める露天風呂。夜の静寂に包まれた湯に浸かると、ようやくすべてが終わったのだという実感が湧いてきた。
裕美は桶で湯をすくい、自分の肩にかけた。
「悪いことは、綺麗さっぱり洗い流して……」
正恵は微笑みながら頷く。
「今回は本当に大変でしたね……」
二人は湯に身を沈め、静かに目を閉じた。温泉の熱が、心の奥底に残る疲れまでも解きほぐしていく。
【新たな旅路へ】
翌日、裕美は温泉の取材を終え、東京へと戻ることになった。
駅のホームで列車を待ちながら、彼女はふとスマホを取り出し、撮りためた写真を見返した。温泉の風景、旅館の料理、そして何より——事件を共に乗り越えた人々の顔。
「また、どこかの温泉で」
小さく呟きながら、彼女は静かに列車へと乗り込んだ。
車窓の外に広がる福島の風景を眺めながら、霊能探偵・伊田裕美の新たな旅が始まろうとしていた。
(完)
本作を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
『霊能探偵と呪われた混浴温泉』は、温泉という日本独特の文化を背景に、ミステリーと怪奇現象を絡めた作品として執筆しました。湯煙の奥に潜む恐怖や、温泉地に生きる人々の思惑、そして霊能探偵・伊田裕美の活躍を描くことで、読者の皆様に一風変わった推理小説の魅力を感じていただけたなら幸いです。
現代社会においても、温泉は人々に癒しを与える場所でありながら、時にさまざまな問題を孕んでいます。本作では、温泉街の衰退や外国人客との文化摩擦など、現実社会にも通じる要素を取り入れつつ、そこに超常現象を絡めることで物語の深みを増しました。
霊能探偵シリーズは、これからもさまざまな場所で不思議な事件に挑みます。次回作では、どのような謎と対峙するのか、楽しみにしていただければと思います。
最後に、ここまで読んでくださった読者の皆様に心より感謝を申し上げます。また、次の物語でお会いしましょう。




