霊能探偵 呪の掛け軸
本作『霊能探偵 呪の掛け軸』は、古物に秘められた怨念と、それに翻弄される人々を描いたホラー・ミステリーです。骨董品というのは時を超えて様々な人々の手を渡り歩き、その歴史の中には名もなき者たちの苦しみや悲しみが宿ることがあります。本作では、そんな“呪われた品”の恐怖と、それに立ち向かう霊能探偵・伊田裕美の活躍を描いています。
物語の発端は、とある寺の売却に始まります。その寺から発見された一枚の掛け軸が、次々と人々の運命を狂わせていく。掛け軸に封じられた霊の怨念とは何なのか、そして、それを解き放ったことで起こる悲劇とは——。
読者の皆様には、この物語を通じて、単なるホラーとしての恐怖だけでなく、「人の業」や「残された者の想い」にも思いを馳せていただければ幸いです。
伊田裕美:霊能探偵、旅行ルポライター。ショートカットの黒髪を持ち、知的な印象を与える黒のスーツに身を包んでいる。端正な顔立ちと鋭い眼差しが特徴で、どこか探偵のような雰囲気を漂わせている。
村田蔵六:陰陽師で湯川寺の住職。霊能探偵の相談相手で、霊に関する豊富な知識を持つ。
後藤利勝:医師で、骨董品収集が趣味。幽霊の掛け軸を手に入れたことで事件に巻き込まれる。
第1章:奇妙な売出し札
茨城県の牛久市。
古くから続く町並みは、近年の人口過疎により活気を失っていた。特に郊外の寺院は、跡継ぎ不足や管理の困難さから、次々と廃寺となりつつあった。
その1つ、最明寺も例外ではなかった。歴代の住職が守ってきたこの寺も、最後の和尚が亡くなり、相続人もいないままに放置され、ついには売却が決定された。
しかし、日本人でこの寺を買おうとする者は皆無だった。そこへ目をつけたのが、中国の富豪、梁俊明であった。
梁は一目で成金と分かる男だった。派手な高級服に身を包み、葉巻をくゆらせ、金縁のメガネをかけていた。太りすぎた腹のせいで、ジャケットのボタンは留まらない。彼は文化財などには一切興味がなく、ただの投資目的でこの寺を買い取った。
そして、日本の風情を無視し、勝手に寺の外装を中国風に改造した。古き良き佇まいは破壊され、真っ赤な屋根瓦と金の装飾が施された異様な姿へと変貌した。
梁は寺の内部を見回しながら、金目の物を探した。しかし、期待に反して、価値のある品など何1つ見つからなかった。
失望した梁は、古い倉庫を荒らし始めた。そこには埃まみれの葛籠が放置されていた。
「何かいいものがあるかもしれん」
好奇心から葛籠の蓋を開けた梁は、そこに一枚の掛け軸を発見した。
それは日本画の掛け軸だった。古ぼけており、中央には一人の女性の幽霊が描かれていた。顔は美しく、白い衣をまとい、足元はもやのように消えている。
梁は「どうせ古いガラクタだろう」と軽く考え、その掛け軸をヤフーオークションに出品した。
すると、驚くべきことに、すぐに買い手がついた。予想以上の高値で落札され、梁はほくそ笑んだ。
だが、その日を境に、梁の体に異変が起こり始めた。
次第に食欲を失い、どんなに食べても体重は減るばかり。かつての肥満体が、見る影もなく痩せ細っていった。周囲の人間が心配するも、梁は「問題ない」と言い張るばかりだった。
しかし、ある日、彼は突然意味不明な言葉をつぶやき始めた。
「掛け軸の中に…何か…いる……」
そう言い残し、梁は自室で息を引き取った。
その顔は、まるで何かに怯え、苦悶の表情を浮かべていたという。
第2章:死の兆し
東京都とは思えないほど簡素な街並み。高層ビルが立ち並ぶ繁華街とは違い、どこか昭和の面影を残す住宅地。その一角に、後藤利勝のクリニックがあった。
彼はこの街で長年、地域医療に従事しながら、趣味で骨董品を集めていた。ある日、オークションで手に入れた掛け軸を気に入り、自宅の床の間に飾ることにした。
しかし、それから奇妙な出来事が続くようになった。
最初は些細な異変だった。掛け軸に描かれた幽霊の姿が、ふとした瞬間に違って見える気がする。目の焦点が合わなかったはずが、いつの間にかまっすぐこちらを向いている。さらに、口元がわずかに開いているように見えることがあった。
次第に、幽霊の背景に変化が現れた。もともと薄墨で描かれた静かな佇まいの背景に、かすかに浮かび上がる無数の手の影。やがて、それは明らかに人の手となり、掛け軸全体を覆い尽くすように広がっていった。そして、ついには幽霊の顔にわずかな笑みが浮かぶようになった。
その異変と呼応するように、後藤の身の回りで人の死が相次いだ。
医師という職業柄、人の死には慣れているはずだった。年老いた患者が亡くなり、通院していた老人が急死する。僧侶や医者は死と隣り合わせの職業だ。だからこそ、最初はさほど気にも留めなかった。
だが、不思議なことがあった。
人が死ぬたびに、掛け軸の下に白いもやもやとしたものが現れるようになった。はじめは紙魚かと思った。だが、それは日に日に増えていく。まるで何かが掛け軸の底から染み出しているように。
ある晩、飼っていた猫がいつものように布団に入ってきた。
朝目覚めたとき、猫は冷たくなっていた。
驚愕する後藤。しかし、その驚きが恐怖に変わったのは、猫の死をきっかけに、掛け軸の下の白いもやもやが一段と濃くなったことだった。
後藤はようやく、自宅で起きる怪奇現象の異常さを認めざるを得なくなった。
何とかしなければならない。しかし、どこに相談すればいいのか分からない。
悩んだ末、後藤はSNSを駆使し、霊的な現象を調査できる人物を探した。
そして、ついにある名にたどり着く。
――霊能探偵・伊田裕美。
第3章:悪夢の兆し
後藤はついに決断し、霊能探偵・伊田裕美に連絡を取った。
「……家の中で奇妙な現象が続いている。正直なところ、科学では説明できない。霊能探偵というあなたに、一度見てもらいたい。」
電話口の裕美は短く頷いた。
「分かりました。詳しい話を伺います。」
後藤の要請を受け、裕美は霊的な専門家である陰陽師・村田蔵六を伴い、後藤の家を訪れた。
到着した途端、蔵六は家の玄関で足を止めた。
「……嫌な気が漂っているな。」
彼の低い声が家の中に染み渡る。裕美もまた、ただならぬ気配を感じ取っていた。後藤は戸惑いながらも、二人を家の中へ案内する。
掛け軸が飾られている部屋に足を踏み入れると、室内の空気は異様に重く、どこか湿ったような匂いが漂っていた。
「これは……。」
裕美が掛け軸に目を向ける。そこに描かれた幽霊の顔が、何かを訴えかけるように歪んでいた。背景には、かすかに人影のようなものが無数に揺らめいている。
「……この家に泊まり込んで様子を見ましょう。」
そう判断し、裕美と蔵六は後藤の家で一夜を過ごすことにした。
その晩、九品仏の銭湯で湯に浸かり、簡単な夕食を済ませた後、三人はそれぞれの部屋で眠りについた。
しかし、深夜。
裕美は突然、身体を押さえつけられるような圧迫感を感じ、目を覚ました。
目の前には、見たこともない異様な光景が広がっていた。
荒れ果てた廃屋。崩れかけた壁。湿った空気に満ちた薄暗い部屋。そして、その中央に立つ、一人の女性。
長い黒髪。痩せ細った身体。白い着物がぼろぼろになり、血のような黒い染みが、不気味に広がっていた。
彼女はゆっくりと顔を上げる。
裕美の背筋が凍りついた。
その女の顔は、掛け軸の幽霊と同じだった。
「……お前たちも、連れて行く……。」
女の唇がゆっくりと動いた。
次の瞬間、彼女の背後から、無数の手が伸びてきた。
裕美は息を呑んだ。
「……くっ!」
その時、別の部屋で寝ていた蔵六もまた、同じ夢を見てうなされていた。
二人の悪夢は、まるで現実のように生々しく、ただの夢では済まされない何かを感じさせた。
これは、ただの幽霊の仕業ではない。
掛け軸に秘められた、深い怨念の気配が、確かにそこにあった。
第4章:掛け軸の由来
裕美と蔵六は、荒い息をつきながら目を覚ました。
夢の余韻が重くのしかかる中、二人は無言で顔を見合わせる。
その時——。
掛け軸が突然、壁から外れ、床に落ちた。
静寂の中、微かに響く布の擦れる音。そして、掛け軸の中央から白い手がゆっくりと床を這い、やがて一体の女の幽霊が這い出てきた。
「……お前たちも、連れて行く……。」
低く、冷たい声が部屋に響く。
幽霊は、ゆっくりと顔を上げた。長い黒髪が乱れ、痩せ細った顔は蒼白で、闇の中に沈むような深い目をしていた。その口が、ゆっくりと動き出す。
「……戦後まもない頃……貧しい両親は、あたしを女衒に売り渡した……。」
幽霊は淡々と語り始めた。
「……あたしの名前は秀子。しばらく軽業一座で働いていたが、ある日、同僚の男と関係を持ち、一座を逃げ出した。……だが、男は結核にかかり、死亡。あたしも、結核にかかっていた。ホームレス同然となり、十日も何も食べられなかった。
そんな時、旅の絵師があたしを見つけ、介抱してくれた。でも、もう遅かった……。」
秀子は空を見上げるように顔を上げた。
「……あたしは、絵師に頼んだ。……この最期の姿を描いてほしい、と。そうして、絵師は掛け軸を作り、あたしを売り渡した両親の元へ届けた……。」
幽霊の視線が、裕美を捉えた。
「……文京区音羽の武蔵野うどん屋……それが、あたしの両親の店だった……。」
幽霊の声が僅かに震えた。
「……流行らない店だった。……でも、絵師は何も言わずに、この掛け軸を店に飾るよう伝え、置いていった。
……すると、奇妙なことが起こった……。客が、次々とこの掛け軸を見に来るようになった……。
……そして、店は繁盛した……。」
だが——。
「……繁盛と引き換えに、身近な者たちが次々に死んでいった……。
……まずは、大家……。
……次に、飼っていた犬……。
……そして——あたしを捨てた両親が……。」
幽霊の目が細められ、口元が歪んだ。
「……あたしを捨てた両親が、狂い死んだ……。」
静寂が部屋を包んだ。
「……その後……たまたま、うどん屋のそばを通りかかった最明寺の上念和尚が、あたしの掛け軸を見て、不吉を感じた……。
和尚は町の名主に頼み、この掛け軸を引き取らせた……。」
幽霊は、まるで自らの記憶を反芻するかのように、ゆっくりと続けた。
「……上念和尚は、茨城の最明寺で七日間の魔除けの儀式を行い、この掛け軸を葛籠に封じ込めた。
……しかし、和尚も死に……跡を継いだ上念和尚も死んだ……。
……寺は荒れ果て、やがて自治体の手に渡り……売りに出された……。」
ふと、幽霊の唇が歪む。
「……あたしは、蘇ったのよ。」
その声には、明確な悪意が滲んでいた。
「……あたしは、人間が憎い。あたしを見世物にした人間すべてを……。
……だから、あたしは殺す。
……あたしを売った人間も。
……あたしを封じた人間も。
……あたしを弄んだ人間も。
……すべて、許さない……。
……お前も……死ねばいい……。」
幽霊の黒い目が、裕美の瞳を射抜いた。
その瞬間、部屋全体が冷気に包まれ、掛け軸の布が大きくはためいた。
それは、ただの怨霊の語りではなかった。
あたしの呪いが、今ここに確かに存在しているという、宣告だった——。
第5章:対決 – 掛け軸の呪いを断て
掛け軸が音を立てて揺れた。暗闇の中、冷たい風が部屋を包み込む。裕美と蔵六は背筋を凍らせながら、掛け軸の前に立ち尽くしていた。
突然、掛け軸から黒い煙のようなものが溢れ出し、空間がねじれ始めた。次の瞬間、部屋の光景は一変した。
そこは戦後の荒廃した町だった。崩れた瓦屋根、焦げた柱、地面には泥と血の跡が残っている。歪んだ空には赤黒い月が浮かび、無数の亡者の影が揺らめいていた。
「お前たちも、あたしと同じにしてやる……」
低く冷たい声が響き渡る。裕美と蔵六は振り向いた。そこに立っていたのは、掛け軸から解放された女——秀子だった。
彼女の体は半透明で、白い着物は風に揺れながらもどこか異様な重みを持っていた。長い髪がゆっくりと宙を漂い、顔には歪んだ笑みが浮かんでいる。その背後には、黒い影が無数の手となり、二人に伸びてきた。
「ちっ……!」
裕美は瞬時に後退し、蔵六もまた咄嗟に呪符を構えた。しかし、異空間では物理の法則が乱れ、二人の足元は次第に不安定になっていく。
「見世物にされた怨念が、この空間を支配している……。」
蔵六が低く呟く。秀子の手が動くたびに、周囲の亡者たちが呻き声を上げながら広がっていく。彼らは皆、顔が歪み、眼球が抜け落ちたように黒い空洞が広がっていた。
「お前はもう、見世物じゃない!」
裕美が叫んだ。その声が秀子に届いたのか、一瞬、幽霊の動きが止まる。
「……何……?」
「お前の呪いは、他人に強制されたものじゃない。今のあんたは、自分から見世物になろうとしている!」
秀子の瞳がわずかに揺らぐ。だが、すぐに激しい怨念が渦巻き、空間が再び軋み始めた。
「……違う……あたしは……」
秀子の表情に、一瞬の迷いが浮かんだ。しかし、彼女の背後から這い出る黒い手が彼女自身を絡め取るようにして、その身体を引き戻そうとする。
「……あたしは、愛していた男を失い……誰にも助けてもらえなかった……あの時、誰一人として……!」
彼女の声が震え、怨念がさらに強く膨れ上がる。
「あたしは……捨てられた……。あたしは……飢えに苦しみ、死んでいった……!」
その言葉に、裕美は息を呑む。
「秀子……!」
しかし、彼女はすでに激情の渦に飲み込まれていた。黒い手がうねり、空間が崩れ始める。
「……黙れ……黙れぇぇぇっ!」
黒い手が裕美を捉えようと襲いかかる。蔵六は素早く呪符を床に叩きつけ、破邪の結界を張った。
「ぐっ……!」
しかし、怨念は強すぎた。結界は完全には発動せず、秀子の怨霊が揺らぎながらも押し寄せてくる。
「もう時間がない……決断しろ、裕美!」
蔵六が叫ぶ。
裕美の選択は、ただ一つだった。
「……終わりにする……。」
裕美は掛け軸を掴み、勢いよく破った。裂けた布が空間を切り裂き、異空間の歪みが激しくなる。蔵六が驚愕する間もなく、裕美は破れた掛け軸を庭へと投げ捨てた。
彼女は素早くカバンから『たむならの鏡』を取り出し、それを月の光にかざした。
次の瞬間、掛け軸が青白い光に包まれ、燃え上がる。
「いやあああああ!」
秀子の悲鳴が響き渡る。彼女の体は歪み、炎に飲み込まれるかのように揺らいだ。
黒い手が次々と霧散し、付随していた怨霊たちも塵となって消え去った。
あっけないほど簡単な最期だった。
だが——。
秀子は消えた。
しかし、秀子の無念さは、本当に消えたのだろうか?
第6章:エピローグ
翌日、後藤は上機嫌で裕美と蔵六をレストランに招待した。事件の解決を祝うために、彼は惜しみなく料理を振る舞った。
「いやあ、まさか本当に幽霊がいたとはね。君たちには感謝してもしきれないよ」
そう言いながら、後藤は満足げにワイングラスを傾けた。
レストランは落ち着いた雰囲気で、テーブルには上品なティーセットが並べられている。この店では紅茶の茶葉を選ぶことができた。
「ダージリン、アッサム、ウバ、ヌワラエリア、キーモンか……どれにしようかな」
後藤がメニューを見ながら迷っている横で、裕美は迷うことなくアッサムを選んだ。
「あたしはダージリンが苦手」
彼女はさらりと言いながら、淹れたての紅茶を口に運ぶ。湯気が立ち上がり、アッサム特有の深みのある香りが広がる。
蔵六もまた、静かに紅茶を手に取り、一口飲む。
「いい香りだな」
緊張と恐怖に満ちた夜を過ごした二人にとって、その一杯の紅茶は、まるで別世界の安らぎを与えてくれるかのようだった。
束の間の静寂の中、レストランの窓から差し込む朝の光が、穏やかに彼らの顔を照らしていた。
後藤はふと肩をすくめ、苦笑いを浮かべながら言った。
「もう骨董品は買わないことにするよ!」
その言葉に、三人は顔を見合わせ、大笑いした。
(完)
最後まで『霊能探偵 呪の掛け軸』をお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、古くから伝わる“物に宿る呪い”というテーマを基に、怨念の連鎖とその断ち切り方について描きました。登場する掛け軸は単なる道具ではなく、その背景にある“人間の欲望”や“報われなかった想い”が絡み合い、悲劇を生んでいきます。
主人公・伊田裕美は冷静かつ知的な探偵ですが、彼女自身もまた、数々の怪異に触れる中で少しずつ成長し、また新たな事件へと向かっていきます。今作を通じて、彼女の新たな一面を楽しんでいただけたなら、嬉しく思います。
また、作中に登場する紅茶のシーンは、ホラーの緊張感を和らげるための工夫の一つでした。裕美は紅茶に詳しく、産地や種類による味の違いを知っており、その知識が彼女の新たな魅力として物語に彩りを添えています。恐怖に立ち向かった後の一杯の紅茶が、いかに安らぎを与えてくれるのか——そんなちょっとした日常の温かみも感じていただけたら幸いです。
次回作では、また違った角度から「霊能探偵」の活躍を描いていきたいと思っています。これからも、ぜひお付き合いいただければ幸いです。
それでは、また次の物語でお会いしましょう。
ありがとうございました。




