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消えた自殺志願者

人は時として、人生の崖っぷちに立たされることがあります。

成功を夢見て努力しても、理不尽な出来事や避けられない運命の波に飲み込まれ、気がつけば絶望の淵に立っている――そんな経験をしたことのある人もいるでしょう。


本作の主人公・田村誠もまた、人生に絶望し、命を絶とうとした男でした。

しかし、彼はその湖畔で"白いワンピースの女"と出会い、奇妙な出来事に巻き込まれることになります。

それは単なる偶然なのか、それとも運命の導きなのか――。


本作は、成功と代償、そして「見えざるものの存在」に迫るサスペンスホラーです。

読者の皆様には、田村の運命がどのように揺れ動き、そして"幽霊探偵"伊田裕美がどのように謎を解き明かしていくのか、最後までじっくりと見届けていただければ幸いです。


それでは、恐ろしくも魅力的な"湖の物語"へとご案内しましょう。

【第一章】

【自殺志願】

田村誠たむら まことは、宛てもなく歩いていた。 冷たい夜風がコートの隙間から入り込み、身震いしそうになる。 どこへ向かうとも知らず、ただ無心に足を前へと運ぶ。 倒産した会社、膨れ上がる借金、そして希望の見えない未来。 かつては夢もあった。しかし、それも今や遠い幻。

気がつけば、彼は湖にたどり着いていた。 ここは自殺の名所として知られる場所。 月明かりに照らされた湖面が静かに波打ち、まるで底の見えない深淵へと誘うかのようだった。

「……ここで終わらせるか」 誰に言うでもなく呟いた声は、夜の闇へとすぐに吸い込まれた。

この湖では、数えきれないほどの人間が命を絶ってきた。 自分がその一人に加わったところで、何も変わらない。 そう思いながら、湖に向かって歩を進めた――そのときだった。

湖のほとりに、ひとりの女性が立っていた。 白いワンピースを纏い、長い黒髪を風になびかせながら、遠い湖面をじっと見つめている。 月の光を受けたその姿は、どこか儚げで、現実のものとは思えないほどだった。

田村の胸が、不意にざわめいた。 (まさか……)

瞬間、彼の体は勝手に動いていた。 人間とは不思議なものだ。 自分が死のうと思っていたはずなのに、目の前で誰かが同じことをしようとしていると、 助けなければならないという気持ちが先に立つ。

「おい!」 思わず駆け寄った瞬間、彼女が静かに湖へ向かって足を踏み出した。

田村は迷わず手を伸ばす。

彼は彼女の腕を掴み、ぐいっと引き寄せた。彼女の足は水面のすぐ手前で止まり、ぎりぎりのところで間に合った。

「やめろ!」 「離して……お願い、もういいの……!」

彼女は必死に抵抗する。 だが、田村はその手を離さなかった。

「ふざけるな、死んではいけない!」

彼の強い声に、彼女の体がピタリと固まる。 しばらくの沈黙の後、彼女は静かに力を抜いた。 肩が小さく震えている。

田村の足元では、湖水が静かに波を打っていた。 体は冷えていたが、大したことはない。

――この湖では、何人もの人間が命を絶ってきた。 だが、今この瞬間、田村が救った命が、確かにここにある。 そして、それは彼自身の命もまた、救うことになるのかもしれなかった。


【二人の一夜】

田村は、くたびれた財布を取り出し、中を確かめた。 折れ曲がった千円札が数枚と、小銭が少し。 一晩、旅館に泊まるくらいの金額は、かろうじてあった。 ため息をつき、湖畔に立ち尽くす女性を見やる。

濡れたワンピースが体に張り付き、冷たい夜風が容赦なく彼女を襲っている。 このまま放っておけば、間違いなく風邪をひくだろう。 ――いや、それ以前に、彼女はまた湖へ戻ってしまうかもしれない。

「あなたは、今どこに泊まっているんですか?」 田村の問いに、彼女はわずかに肩を揺らし、ぽつりと答えた。

「……どこにも」

田村は舌打ちした。 「なら、一晩泊まりましょう」

彼女は驚いたように顔を上げたが、すぐに視線を落とした。 否定もしなければ、肯定もしない。 それは、暗に「拒否しない」という意思表示だった。

田村は黙って歩き出し、彼女もまた、静かにその後をついてきた。

【旅館の受付】

旅館の入口は古びていて、木製の引き戸がぎしりと音を立てた。

中に入ると、カウンターの奥から年老いた主人がじろりと二人を見た。

「……泊まりかい?」

「部屋は空いていますか?」

「シングルは満室だな。二人なら、和室しか空いてないが」

田村は一瞬だけ迷った。

視線を横に向けると、彼女はうつむいたまま、小さく頷く。

拒否するつもりはないらしい。

「じゃあ、それでお願いします」


【部屋の中での会話の微妙な違和感】

部屋に入ると、畳の上に布団が二組敷かれていた。

小さな照明がぼんやりと灯り、窓ガラスには外の闇が映っている。

遠くでフクロウの声が響き、夜の静寂を際立たせた。

彼女は部屋の隅に立ち尽くしたまま、動こうとしない。

「……ありがとう」

かすれた声が聞こえた。

田村は上着を脱ぎながら、ぶっきらぼうに言った。

「別にいい」

沈黙が流れた。

田村はふと彼女を見たが、名を尋ねるのはやめた。

彼女がここにいる理由を聞くこともしなかった。

「俺も名乗るのはよそう」

不意にそう口にした。

彼女は驚いたように田村を見たが、すぐにわずかに頷く。

名前を知れば、あとでニュースで自殺者の名前を聞いたときに――

**『あのときの……』**と気づいてしまうかもしれない。

だから、互いに名乗らないことにした。

今夜限りの、名もなき二人だった。


【名もなき夜の果てに】

田村は、静かに口を開いた。

畳の上に座り込んだまま、ぽつりぽつりと語り出す。

「俺は、小さな会社を経営していたんだ」

彼女は黙って田村の言葉を聞いていた。

「最初は順調だった。だが、コロナ禍で売上が落ちて、取引先も次々と離れていった。政府の支援金じゃ足りなかったし、借金をしてでも社員の給料を払おうとした。でも、それも限界がきて……結局、会社は潰れた」

彼は肩を落とし、かすかに笑った。

「最後は、社員の給料すら払えなかったよ」

田村は静かに天井を仰ぐ。

「俺は、もう終わりだと思ってた。だから……あの湖に行ったんだ」

それを聞いた途端、彼女がわずかに身じろぎした。

「……私も、似たようなものよ」

小さな声だったが、その一言に込められた重みを、田村は感じた。

互いの境遇を語るうちに、少しずつ心の壁が溶けていくのを感じた。

名も知らぬ相手なのに、不思議と分かり合えた。

この先、どうするかは考えていなかった。

ただ、今夜はお互いの存在を確かめるように、静かに時間が過ぎていった。


【朝】

田村は、窓の外から差し込む淡い朝日に目を覚ました。

寝ぼけ眼で隣を見ると、布団はきれいに畳まれ、彼女の姿はなかった。

その代わり、畳の上に小さな人形と、一枚の紙が残されていた。

紙には、こう書かれていた。

「昨日はありがとうございました。近くにある大蔵家土葬の墓に行ってください」

田村は、紙を握りしめたまま、呆然とする。

大蔵家の墓……?

彼女の意図は分からなかったが、なぜか無視する気にはなれなかった。

田村は旅館の勘定を済ませるため、受付へ向かった。


【旅館の女将】

帳簿をめくる年老いた女将が、ふと顔を上げた。

「昨日は一人なのに、ダブルの部屋に泊めさせて悪かったねえ」

田村の手が止まる。

「……え?」

一瞬、意味が分からず、思考が停止した。

(いや、何を言ってるんだ……)

確かに彼女と一緒に泊まったはずだ。だが、説明するのも面倒だった。

「……そうですか」

田村はそれ以上何も言わず、旅館を後にした。

ふと、昨夜の手紙を思い出す。

――大蔵家の墓へ行ってください。

なぜか分からないが、行くべきだという気がした。


【大蔵家の墓】

田村は地元の人に道を尋ねながら、大蔵家の墓へ向かった。

この地域では、いまだに土葬の風習が残っているという。

「大蔵家の墓」と呼ばれているが、それは単なる墓石ではなかった。

古びた小屋のような、巨大な納骨堂だった。

長年の風雨にさらされた木造の扉は黒ずみ、軋んでいた。

周囲には無数の古い墓標が並び、雑草が伸び放題になっている。

まるで時間が止まったかのような、静寂が広がっていた。

扉には鍵がかかっていなかった。

田村は、そっと押してみた。


【墓の中へ】

ぎぃ……

扉はわずかにきしみながらも、簡単に開いた。

内部はひんやりと冷たく、かすかに湿った土の匂いが漂っている。

蝋燭が立てられた跡があるが、最近誰かが訪れた形跡はない。

奥へ進むと、五つの棺が整然と並んでいた。

(……ここに、何が?)

そのときだった。

――棺のひとつが、微かに光った気がした。

普通なら、こんな場所で棺に手を触れるなんてありえない。

だが、なぜか田村は強く引き寄せられる感覚を覚えた。

気になって、その棺にそっと手をかけてみる。

すると――

「ガコン」

拍子抜けするほど簡単に、棺の扉は開いた。


【棺の中の秘密】

棺の中には、古びた白骨があった。

それだけではない。

白骨の横には、紙袋がひとつ。

田村は、震える手で紙袋を開けた。

「……なんだ、これは……?」

そこに詰まっていたのは、大量の新札だった。

紙幣の束が、いくつも重なっている。

ざっと数えてみたところ、三千万円はくだらない。

すべてが、ほぼ新品のように綺麗な札だった。


【彼女の正体】

田村は、呆然としながらも、ふと昨夜の彼女を思い出した。

湖で出会った彼女。

何も語らず、名前も明かさなかった彼女。

朝には消え、手紙だけを残した彼女。

「……これは、彼女が俺にくれたものなのか?」

信じがたい話だったが、今は何も考えられなかった。

田村は、札束の入った袋をしっかりと握りしめた。

「……こんな場所に長居はできないな」

そう呟くと、彼は足早にその場を後にした。


【帰還】

田村は、その金を持って、急いで東京に戻ることにした。

この金が何なのか、誰のものなのかは分からない。

だが、確かなのは、これは彼女が残したものだということ。

そして、これが彼の人生を変えるかもしれないということだった。

新幹線の中で、田村はポケットに入れた小さな人形を握りしめた。

車窓の外には、もう湖は見えなかった。

だが、彼の中には、昨夜の出会いが深く刻まれていた。


第二章

【影の代償】

田村誠は、成功を掴んだ。

過去の破産と絶望を乗り越え、投資家として巨万の富を築いた。

高級スーツを纏い、一流の人々と肩を並べ、東京の一等地にオフィスを持つまでになった。

しかし、彼は決して派手な生活を送らなかった。

豪華な車を買うこともなければ、派手な夜遊びをすることもない。

ただ、静かに仕事をこなし、必要最低限の交流だけを持ち、慎重に生きていた。

それは――

彼の成功が、ある「奇妙な出来事」から始まったことを、誰にも話せなかったからだ。

あの夜、湖畔で出会った彼女。

旅館の不自然な出来事。

そして、大蔵家の墓で見つけた、三千万円の新札。

すべてが彼を成功へと導いたが、それが「正しい道」だったのか、いまだにわからなかった。

何より――あの金が何だったのかも、誰がそこに置いたのかも、今もわからないままだ。

それでも時間は流れ、田村はただ「運が良かった」と自分に言い聞かせながら、慎重に成功の道を歩んでいた。

しかし、成功すればするほど、心の奥底にある感情が膨らんでいった。

――もう一度、あの女性に会いたい。

彼女が何者なのかを知りたい。

あの湖での出来事が何だったのかを確かめたい。

その衝動が、彼を動かした。


【湖への帰還】

夜の帳が降りるころ、田村は一人、車を走らせていた。

行き先は、あの湖。

カーナビには載っていない場所だったが、彼の記憶には深く刻み込まれていた。

静まり返った山道を進みながら、彼はふと手のひらを見つめた。

すべては、あの夜から始まった。

彼女と出会わなければ、あの金を見つけなければ――

今の成功はなかった。

そう考えると、彼女の存在は、彼の運命を大きく左右した「何か」だった。

もう一度、会いたい。

彼女の正体を知りたい。

湖にたどり着くと、辺りは異様な静けさに包まれていた。

街灯もなく、闇の中で、月明かりだけが湖面を照らしている。

――波がない。

まるで湖全体が、鏡のように静まり返っている。

田村は車を降り、ゆっくりと湖へ近づいた。

足元の小石が音を立て、夜の静寂に響く。

湖畔に立ち、水面をじっと見つめた。

「……あなたは、そこにいますか?」

誰に呼びかけるでもなく、そう呟いた。

その瞬間――湖面に波紋が広がった。

まるで、何かが底から動き出したかのように。

田村は息をのんだ。

そして、次の瞬間。

水面から、白い影が浮かび上がった。


【水の底から】

それはゆっくりと、しかし確実に姿を現した。

白いワンピース。

長い黒髪。

濡れた髪が顔に張り付き、闇の中で異様な光景を作り出している。

それは間違いなく、あの夜の女性だった。

「……あなたは……」

田村の声がかすれた。

彼女は、湖面の上に立っていた。

いや、違う――浮いている。

足元は水の中に沈んでおらず、まるで湖の表面に立っているかのようだった。

その異様な姿に、田村は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

――この世のものではない。

その瞬間、彼は確信した。

彼女は、人間ではない。

彼女はゆっくりと微笑んだ。

「あなた、成功しましたね」

「……あなたは、何者なんですか?」

彼女は答えなかった。ただ、静かに湖面を歩くように近づいてくる。

「成功の代償を、払ってもらいましょう」

田村の心臓が跳ね上がった。

「代償……?」

「ええ。あなたは受け取りました。

だから、それに見合うものを、こちらにいただきます」

田村は、強く拳を握った。

「……何を、望んでいる?」

彼女は、まるで楽しむように微笑み、静かに言った。

「あなたの娘を」

その言葉を聞いた瞬間、田村の血の気が引いた。

「……何?」

「あなたの長女を、私に差し出しなさい」

田村の手が震えた。

「ふざけるな……!」

「ふざけてなどいませんよ。すでに"それ"は始まっています」

「……どういう意味だ?」

「あなたの娘に、何か"異変"はありませんか?」

田村の脳裏に、数日前の出来事がよぎった。

長女・美咲みさきが、突然高熱を出し、学校を休んだ。

病院に連れて行っても原因がわからず、医師は首をかしげていた。

「……あれは、ただの風邪ではないのか?」

「ええ。彼女の"存在"が、少しずつ失われているのです」

「……!」

田村は息を呑んだ。

「彼女を救いたいなら、選択肢は二つです」

「……二つ?」

彼女は指を二本立て、静かに言った。

「一つは、あなたがすべてを捨てること」

「すべて……?」

「あなたの成功、財産、地位――すべてを失い、元のあなたに戻ることです」

田村は拳を握りしめた。

「……もう一つは?」

彼女は、にこりと微笑んだ。

「別のものを差し出すこと」

「……別のもの?」

「ええ。"あなたの家族"です」

田村の体が震えた。

「選んでください。あなたの長女を差し出しますか?

それとも、代わりに何か"別のもの"を?」

彼女の微笑みは、どこまでも穏やかだった。

しかし、その奥には、何か恐ろしいものが潜んでいるように感じられた。

田村は、口を開こうとしたが、言葉が出なかった。

――自分の成功か、娘の命か。

どちらを選ぶのか――。


第二章

【幽霊探偵との出会い】

田村は酒に溺れていた。

ワイングラスを傾ける手はすでに震えており、テーブルの上には開けたばかりのウイスキーのボトルが置かれている。

成功者としての生活は続いていた。

だが、彼の心はすでに限界を迎えていた。

――成功の代償を払え。

――娘を差し出せ。

湖でのあの夜から、田村の心の中では、その言葉が呪いのように響き続けていた。

家に帰れば、妻と娘が笑顔で迎えてくれる。

娘の美咲は少しずつ回復しているように見えたが、それでも彼の中には拭い去れない不安があった。

「すでに、それは始まっている」

あの女の言葉が、何度も脳裏をよぎる。

どうすればいいのか。

どうすれば、家族を守れるのか。

解決策は何も見えず、ただ酒をあおる日々が続いた。


【幽霊探偵・伊田裕美】

そんなある夜、田村は酔ったままスマホをいじっていた。

ろくに食事も摂らず、頭はぼんやりとしている。

SNSのタイムラインをスクロールしていると、不意に目に留まる投稿があった。

「あなたの周りで不可解な出来事はありませんか?」

「幽霊探偵・伊田裕美が、見えざる存在の真実を暴きます。」

幽霊探偵――?

馬鹿馬鹿しい、と思った。

だが、気づけば手が勝手に動いていた。

どうにかなるわけではない。

しかし、もしこれが最後の望みだとしたら?

田村は酔った勢いのまま、指定されたメールアドレスに連絡を送った。

「会いたい。話を聞いてほしい。」

そう打ち込み、送信ボタンを押した。

返信は来ないかもしれない。

だが、それでもいい。

もう、何かにすがるしかなかった。

そう思っていた――。

だが、数分後、スマホが振動した。

「明日、午後六時。旧市街の喫茶店『黒猫館』でお待ちしています。」

田村は、一瞬だけ画面を見つめ、それからゆっくりとスマホを置いた。

彼女は、本当に存在するのか?

答えは、明日わかる。


【黒猫館】

翌日、田村は久しぶりにスーツをまとい、旧市街の喫茶店「黒猫館」へ向かった。

薄暗い路地に佇むその店は、古びたレンガ造りの建物だった。

扉を開くと、カランとベルの音が鳴る。

中には、客はほとんどいなかった。

アンティーク調のランプがぼんやりと店内を照らし、静かなジャズが流れている。

そして、窓際の席に――

一人の女性が座っていた。

ショートボブの黒髪に、端正な顔立ち。

シンプルな白いブラウスに黒いジャケットを羽織っている。

田村は息を呑んだ。

彼女の瞳は、まるで全てを見透かしているかのようだった。

「田村誠さんですね?」

田村は喉が乾くのを感じた。

「……あなたが、幽霊探偵?」

「ええ。伊田裕美です。」

彼女は淡々と告げた。

「あなたの話を聞かせてください。」

田村は、深く息を吸った。

ここからが、全ての始まりだった。


【幽霊探偵、湖へ】

田村は、湖での出来事をすべて話した。

美しいが、どこか不気味なあの湖。

湖面から現れた白いワンピースの女。

「成功の代償」として娘の命を要求されたこと。

伊田裕美は黙って田村の話を聞いていた。

話が終わると、彼女はコーヒーカップを置き、静かに言った。

「興味深いですね。」

「……何が?」

「私の本業は、旅行ルポライターです。」

「それがどうした?」

「つまり、私は『現地に行って確かめる主義』なんです。」

田村は目を見開いた。

「……湖に行くのか?」

「ええ。すぐに。」

「そんな……危険だ!」

「あなたが体験したことを、私も体験してみなければ、真相にはたどり着けません。」

彼女は、まるで「そこに行けばすべてがわかる」とでも言うように、あっさりと言った。

田村は迷った。

もうあの湖には近づきたくない。

しかし――

もし、彼女が何かを解明できるなら?

「……俺も行く。」

「いいですよ。」

幽霊探偵と共に、田村は再びあの湖へ向かうことになった。


第三章

【湖の秘密】

田村と伊田裕美は、夜明け前に湖へ向かった。

都会の喧騒を離れ、車はひたすら山奥へと進む。

朝霧がうっすらと立ち込め、あたりは静寂に包まれていた。

「……本当に行くつもりか?」

田村は助手席でぼんやりとつぶやいた。

ハンドルを握る裕美は、淡々と前を見つめたまま答えた。

「当然です。現地に行かないと、何も分かりませんから。」

「だが……あの湖は普通の場所じゃない。」

「だからこそ、行くんです。」

田村はため息をついた。

彼女の冷静さが、逆に不気味だった。

幽霊探偵――その肩書きに見合うほど、彼女は「見えざるもの」に対して何かを知っているのかもしれない。

「それに、私はジャーナリストですから。」

裕美は軽く笑いながら言った。

「ジャーナリスト……?」

「私は元々旅行ルポライターです。旅先での怪奇現象や未解決事件を調べて、記事を書くのが本業なんです。」

「……つまり、こういう話には慣れてるってことか?」

「ええ。でも、今回の件は特に興味深いですね。」

裕美はちらりと田村を見た。

「あなたの話が事実なら、この湖には何か隠されている。過去の事件、未解決の出来事、そして"あなたが見た女性"の正体――すべてがつながるはずです。」

田村は黙った。

そう簡単に、答えが見つかるとは思えない。

だが、今の彼にとって、唯一の希望はこの女性だった。

車は山道を抜け、湖へと近づいていった。


【湖に眠るもの】

湖に到着したのは、ちょうど朝日が昇り始める頃だった。

水面は、まるで鏡のように静かだった。

「……やっぱり、気味が悪いな。」

田村は湖を見つめながらつぶやいた。

裕美は、バッグから小型カメラを取り出した。

「まずは写真を撮って記録を残します。」

彼女はカメラを構え、湖、周囲の森林、そして岸辺の岩場を撮影し始めた。

「この湖、何かの伝承が残っているんじゃないか?」

「ええ、事前に少し調べました。」

裕美はスマホを取り出し、メモを確認した。

「この湖は、江戸時代から"人喰い湖"と呼ばれていたそうです。」

「……人喰い湖?」

「昔から、ここで行方不明になる人が多かったらしいですね。落ちた者は浮かび上がらないとか。」

田村の背筋が寒くなった。

「それだけじゃありません。」

裕美は続けた。

「湖のすぐ近くには、大蔵家という名家があったらしいです。」

「……大蔵家?」

田村は、あの墓を思い出した。

裕美はスマホの画面を田村に見せた。

「明治時代、大蔵家の当主が失踪する事件がありました。噂では、家族の誰かが彼を湖に沈めたとも言われています。」

田村は息をのんだ。

「……湖に沈めた?」

「ええ。でも、遺体は見つかっていません。」

「じゃあ、ただの噂だろう?」

「普通ならそう思いますよね。」

裕美は湖をじっと見つめた。

「でも、こうも言われているんです。"湖は何かを求めている"って。」

田村はギクリとした。

――成功の代償を払え。

娘を差し出せ。

湖は何かを求めている。

それは、あの女の言葉と一致していた。

「……大蔵家の墓を調べるべきだな。」

田村が呟くと、裕美は小さく頷いた。

「ええ。でも、その前に、もう少し湖の周囲を歩いてみましょう。」

二人は湖畔を歩き始めた。

すると――

「……ん?」

裕美が足を止めた。

「どうした?」

「足元、見てください。」

田村が視線を落とすと、そこには――

古びた髪飾りが落ちていた。

まるで、誰かが最近ここにいたかのように。

田村は息を呑んだ。

――これは、まさか。

裕美は慎重に髪飾りを拾い上げ、指先でなぞった。

「……奇妙ですね。」

「……何が?」

「これ、明らかに江戸時代のものですよ。」

田村の体が震えた。

湖の底から、何かがこちらを見ているような気がした。

【大蔵家の墓】

湖畔で見つけた古びた髪飾りを手に、田村と伊田裕美は湖を後にした。

次に向かうのは、大蔵家の墓。

あの夜、田村が棺の中から三千万円を手に入れた場所。

そして、彼の人生が一変するきっかけとなった場所だった。

田村の手は、じっとりと汗ばむ。

「……また、あそこに行くのか。」

助手席でぼそりと呟くと、運転する裕美がチラリと彼を見た。

「怖いですか?」

「……まあな。」

「でも、行かなければ、答えは出ませんよ。」

田村は息をのんだ。

そうだ。

彼の人生を狂わせたすべての始まり――

あの墓に、答えがある。


【封印された真実】

大蔵家の墓は、山の奥深くにあった。

長い年月に晒され、木造の小屋は朽ちかけていた。

扉はギシギシと軋み、かろうじて立っているといった状態だ。

「……こんな場所、普通なら誰も来ないな。」

田村は、墓の前に立ち、ゴクリと唾を飲み込んだ。

裕美は冷静に建物を観察している。

「誰かが管理していた形跡はありますね。でも、もう長いこと放置されているみたいです。」

「そりゃそうだろうな……。」

田村は扉に手をかけた。

「開けますよ。」

「ええ。」

ギィィィ――

扉を押し開けると、冷たい空気が流れ込んできた。

墓の中は相変わらず薄暗く、ひんやりとした湿気が漂っている。

奥には、五つの棺桶が並んでいた。

田村は、かつて自分が三千万円を見つけた棺をじっと見つめる。

「……また、開けるのか?」

「もちろん。」

裕美はバッグから手袋を取り出し、ゆっくりと棺に近づいた。

そして、慎重にその蓋を押す。

ギィ……ッ

蓋がわずかに動いた。

中には、かつて田村が見た白骨が残っていた。

「……何も変わっていないな。」

田村は安堵すると同時に、ぞっとした。

あの金を持ち去ったとき、呪いのようなものがなかったのか――

そんな考えが脳裏をよぎる。

裕美は懐中電灯で棺の中を照らした。

すると――

「……おかしいですね。」

「何が?」

「この白骨、どう見ても"最近"ここに入れられたものですよ。」

田村の心臓が跳ねた。

「……は?」

「つまり、これが埋葬されたのは、"昔"ではない可能性があるということです。」

「それって……誰かが最近、ここに遺体を入れたってことか?」

「ええ。」

田村は寒気を覚えた。

自分が三千万円を見つけたときには、確かに白骨はあった。

だが――

それは、もっと古いもののはずだった。

なのに、今目の前にある白骨は、まるで"最近"埋められたように見える。

「……どういうことだ?」

裕美は、棺の中をさらに調べた。

すると、何かを発見したようだ。

「これは……?」

裕美が取り出したのは、古びた日記帳だった。


【大蔵家の秘密】

日記帳は、表紙がボロボロになっていた。

「……読めるか?」

「多少は。」

裕美は、慎重にページをめくった。

そこには、大蔵家の最後の当主の日記が綴られていた。


「明治三十五年十月五日」

「また一人、湖に引きずり込まれた。母は『湖が求めている』と言った。」


田村は息をのんだ。

「湖が……求めている?」

裕美はページをめくる。


「十一月一日」

「今度は弟が消えた。湖の底で何かが蠢いている気がする。」


田村の背筋が寒くなった。

この日記は、明治時代に大蔵家で何かが起こっていたことを示している。

湖で行方不明になった人々――

そして、湖が何かを"求めている"という言葉。

――あの女の言葉と同じだ。

「湖は……人を喰っているのか?」

田村が呟くと、裕美は真剣な表情で頷いた。

「可能性はあります。」

「馬鹿な……!」

「過去に何度もこの湖で行方不明者が出ているのなら、それは偶然ではなく"意図的なもの"だったのかもしれません。」

田村の手が震えた。

自分は、そんな場所で取引をしてしまったのか?

「そして、もう一つ。」

裕美は、日記の最後のページをめくった。

そこには――


「湖が求めるものは、"血の繋がった者"だ。」


田村は目を見開いた。

「血の……繋がった者?」

「ええ。大蔵家の人間が、代々"湖に生贄を捧げていた"可能性があります。」

田村の全身が凍りつく。

「つまり……俺の娘を求めた理由は……」

「あなたが、その"取引"に関わってしまったから。」

田村の手が震えた。

湖が求めるのは"血"。

そして、自分が持ち帰った金は、湖と契約した者が残したものだった。

「俺は……どうすればいい?」

裕美は静かに湖の方を見た。

「湖の正体を探るしかありません。」

田村は喉を鳴らした。

この先にあるのは、さらなる恐怖なのか、それとも――

すべての謎が、湖の底に眠っている。

【湖の底へ】

大蔵家の墓で発見した日記が示していたのは、恐るべき事実だった。

湖は"血の繋がった者"を求めている。

そして、大蔵家は代々"何か"と取引をし、その代償として生贄を捧げていた。

田村が手にした三千万円は、その取引の証だったのか?

「……この湖、普通の場所じゃないな。」

田村は、緊張した面持ちで呟いた。

「最初から、そう言ってたじゃないですか。」

裕美は冷静だった。

だが、彼女の目は、これまでになく鋭さを増していた。

「ここまで情報が揃った以上、次にやるべきことは明白です。」

「……まさか。」

「はい。湖の底を調べます。」

田村は息を呑んだ。

「本気か?」

「もちろん。」

「だが……どうやって?」

裕美はスマホを取り出し、すでに連絡を終えたようだった。

「知り合いのダイバーに頼んでおきました。明日、湖に潜ります。」

「……ダイバー?」

「湖の底を見れば、何があるのか分かるでしょう。」

「待て、もし本当に"何か"がいるなら……」

「だからこそ、調べるんです。」

裕美の瞳は、揺らがなかった。


【湖の調査】

翌日、湖のほとりに、一人の男が立っていた。

全身ウェットスーツに身を包んだその男は、ベテランのダイバーらしい。

「本当に潜るのか?」

田村が不安げに尋ねると、ダイバーの男は軽く笑った。

「幽霊が出るかもしれないって話なら、俺も慣れてるよ。」

「……頼もしいですね。」

裕美は頷いた。

男は酸素ボンベを背負い、湖へと歩み寄る。

「一応、ここにカメラを装着しておきます。水中の映像はリアルタイムでこちらに送られますから。」

裕美が示したモニターには、男のヘルメットに設置されたカメラの映像が映し出されていた。

「……本当に、何かあるんだろうな。」

田村は落ち着かない様子で湖を見つめる。

ダイバーはゆっくりと水に入り、徐々に深く潜っていった。

「さて……何が出てくるか。」

裕美が小さく呟いた。


【湖の底の異変】

カメラの映像は、暗い湖の底を映し出していた。

水は思ったよりも濁っておらず、視界はそれなりに確保されている。

「おかしいですね。」

裕美が画面を見ながら言った。

「何が?」

「水の中なのに、妙に"静かすぎる"。」

通常、湖の中は小さな魚が泳ぎ、流れがあるものだ。

だが、この湖には、それがない。

ただ、暗闇が広がるばかりだった。

「……これは、気味が悪いな。」

田村も異変を感じ始めていた。

「さらに深く潜ります。」

ダイバーが無線で報告した。

水圧が増し、映像がぶれ始める。

その時――

カメラの視界の先に、何かが映った。

「……これは?」

湖の底に、何か巨大な影が沈んでいる。

人の背丈ほどの木箱がいくつも並び、それらはまるで棺のようだった。

「……棺?」

田村は息をのんだ。

「湖の底に……遺体がある?」

ダイバーは慎重に近づいた。

「開けてみます。」

「待って、それは……!」

裕美の制止も間に合わず、ダイバーはゆっくりと蓋を開けた。

その瞬間――

映像が乱れた。

「……くそ、ノイズが……!」

田村が焦る。

だが、ノイズの合間に、カメラははっきりと"それ"を映し出した。

中にいたのは、白骨ではなく、朽ちていない"人間の遺体"だった。

まるで、つい最近まで生きていたかのような、異常な保存状態。

さらに――

その遺体の口が、微かに動いた。

「……見つけた……」

田村の背筋が凍りつく。

「誰か……誰かを……代わりに……」

カメラが完全にブラックアウトした。

ダイバーの無線が途絶える。

「……まずい!」

田村と裕美は、湖へと駆け出した。


【消えたダイバー】

「応答しろ!」

裕美が無線機に叫ぶ。

だが、応答はない。

湖の水面は、異様なほど静まり返っていた。

田村は恐る恐る湖を覗き込む。

ダイバーの姿は――どこにもない。

「まさか……」

彼は湖に飲み込まれたのか?

「田村さん、離れて!」

裕美が警戒の声を上げる。

その瞬間、湖の水面が不自然に波打った。

まるで、"何か"が水の中から這い上がろうとしているかのように――。

田村はすぐに後ずさる。

だが、湖の底から這い上がるように、ゆっくりと"白い腕"が現れた。

「……嘘だろ。」

田村の顔が蒼白になる。

水の中から現れたのは、あの白いワンピースの女だった。

湖畔で出会った時と同じ姿。

しかし――

顔がない。

いや、顔が"歪んでいる"。

まるで、幾人もの表情が一つに集まったような、異形のものだった。

「成功の代償を、払え……」

低い囁き声が湖全体に響いた。

「くそ……!」

田村は反射的に後ずさる。

「田村さん、車へ!」

裕美が叫ぶ。

田村は走った。

背後で、水の中から這い上がろうとする"それ"の気配を感じながら――。

【湖へ――契約を断ち切るために】

田村は震える手で湖の水面を見つめていた。

「……行くしかないな。」

ダイバーが消えてからすでに数時間が経っていた。

まだ間に合うのか、それとも手遅れなのか。

湖の底で"何か"が起こっているのは確かだ。

「田村さん、これを。」

裕美が、彼に小型の防水ライトと、無線を手渡した。

「潜水の装備はないけれど、これなら最低限、水中でも会話ができます。」

「お前は……いや、あなたはどうする?」

「私は湖のほとりでサポートします。何か異変があったら、すぐに引き上げられるように準備しておきます。」

田村は深く頷いた。

ここまで来たら、もう後戻りはできない。

彼がこの湖の"契約"を破らなければ、娘が代償として奪われる。

それだけは、絶対に許せなかった。

「じゃあ、行ってくる。」

田村はゆっくりと湖の中へと足を踏み入れた。


【湖の底の真実】

冷たい水が田村の体を包み込む。

足を踏みしめるたびに、湖の底に沈んでいく感覚があった。

視界は徐々に暗くなり、息苦しさが増していく。

防水ライトを点けると、ぼんやりと湖底が浮かび上がる。

「……何も、見えないな。」

しかし、確かに"何か"の気配を感じた。

水中を進むうちに、田村は徐々に湖の奥深くへと入っていく。

すると――

目の前に、並ぶ棺が見えた。

「……これが、湖の底に沈んでいる遺体……?」

棺の数は五つ。

それらは湖の底に沈み、まるで封印されたかのように並んでいた。

田村は慎重に近づき、そのうちの一つの棺の蓋に手をかけた。

ギギ……

静かに蓋を開ける。

その瞬間、息が詰まった。

中にいたのは、まるで生きているかのような遺体だった。

腐敗しておらず、白いワンピースを纏った女の姿――

「……嘘だろ。」

その顔は、湖の上で彼に"代償を求めた女"と同じだった。

「お前は……」

すると、その"遺体"がゆっくりと目を開けた。

「あなたが……契約を破るの?」

水中に、静かに響く女の声。

田村の背筋が凍りついた。

「成功の代償を……払わなければならないのよ……」

湖全体が、震えた。

周囲の水が、まるで生き物のように波打ち始める。

田村は、全身が硬直するのを感じた。

「……お前は、何者なんだ?」

女はゆっくりと、棺の中から立ち上がる。

そして――

彼の目の前で、湖底に沈む五つの棺が、全て開いた。

その中から、"何か"が這い出してくる。

田村は必死に無線を握りしめた。

「裕美……! 何か、いる!」

だが、無線は途絶えていた。

湖の底で、田村は"湖の秘密"と向き合うことになる。

湖底の契約

湖の底で、棺の蓋が次々と開かれる。

中から這い出してきたのは、五体の人間の遺体――いや、"それら"は既に人間ではなかった。

白く膨れ上がった皮膚。

動くはずのない関節が、不気味に曲がりながら水中を漂う。

無表情の顔が、田村をじっと見つめている。

「あなたは"契約者"……代償を払わなければならない。」

"女"の声が響く。

田村は必死に体を動かし、湖底を離れようとした。

だが、"何か"が足を掴んだ。

「代償を払え……」

低く響く声とともに、田村の体は湖底へと引きずり込まれる。

「成功の報いとして、"血の繋がった者"を湖へ捧げなさい。」

田村はもがく。

「ふざけるな……!」

彼は叫んだ。

「俺の娘は、お前らに渡さない!」

その瞬間――

湖の水が激しく渦を巻いた。

五体の亡者たちが、一斉に田村に襲いかかる。

「お前が拒めば、代償を直接奪うまで……!」


【裕美の決断】

その頃、湖のほとりでは――

裕美が湖面をじっと見つめていた。

田村の無線は途絶えた。

「……やはり、湖自体が"何か"を求めている。」

彼女は、手に握りしめた資料を見つめた。

そこには、こう記されていた。


「湖に沈んだ者の魂を解放すれば、契約は破れる。」

「ただし、"契約を交わした者"がそれを望まなければならない。」


「田村さん……あなたが決断しなければ、この呪いは終わらない。」

裕美は深呼吸し、湖に向かって叫んだ。

「田村さん! あなたが"代償"を拒めば、湖の力は弱まるはずです!」

だが、返事はない。

湖面には、不気味な波紋が広がるだけだった。

「くそ……」

裕美は迷わなかった。

彼女は、田村を助けるために湖へと飛び込んだ。


【呪いを断つために】

田村の意識は、徐々に薄れていた。

水の圧力が彼の体を締め付ける。

朽ち果てた亡者たちが、彼を囲んでいた。

「湖は……血を求める……」

「……俺は、もう……」

絶望しかけたそのとき――

突然、強い光が差し込んだ。

「田村さん!」

水の中から、裕美の声が響いた。

彼女は、水中ライトを手に、田村の元へ泳いできた。

「くそ……助けに来るな!」

「あなたは、選ばなければならない!」

裕美は彼を強く睨んだ。

「あなたの成功が、"何を対価にしていたのか"を!」

田村の心臓が激しく鳴る。

そうだ――

この成功は、誰かの犠牲の上に成り立っていた。

自分はそれを見て見ぬふりをしていた。

「……でも、俺は!」

「あなたは、もう知っているはずです!」

裕美は叫ぶ。

「成功は、犠牲の上にあるものじゃない! そんな取引を、今ここで終わらせるんです!」

田村は歯を食いしばった。

「俺は……もう、誰も犠牲にしない……!」

その瞬間――

湖全体が震えた。

水の流れが変わり、亡者たちの姿が薄れ始める。

湖底に眠っていた"女"の体が、ひび割れ、ゆっくりと崩れていく。

そして――

湖に沈められた魂たちが、ゆっくりと湖の底から解放されていった。


【終焉】

田村と裕美は、気がつくと湖のほとりに倒れていた。

空は夜明け前の淡い青色に染まっていた。

「……終わったのか?」

田村は、震える声で呟いた。

湖は、以前とは違い、ただ静かに佇んでいた。

契約は、破れたのだ。

「あなたの娘さんも、もう狙われることはありません。」

裕美が安堵の息を漏らした。

田村は、ようやく理解した。

"成功の代償"など、本来はない。

本物の成功とは、誰かを犠牲にしないものなのだ。

彼は、空を見上げた。

静かな風が、湖の水面を揺らしていた。


【エピローグ】

数日後――

田村は、家に戻った。

娘の美咲は、驚くほど元気になっていた。

「パパ!」

彼女が駆け寄る。

田村は、彼女を強く抱きしめた。

「……もう、絶対に守る。」

その言葉は、湖の呪いが消えたことを実感させるものだった。

一方、裕美はまた新たな調査のために旅立っていた。

「幽霊探偵」

彼女の調査は、これからも続いていく。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


「成功には代償が伴う」という考えは、現実の世界でもよく語られるものです。

しかし、それがもし"本当に命を賭けた取引"だったとしたら――?

そんな思考実験から生まれたのが、本作『幽霊探偵・伊田裕美 消えた自殺志願者』です。


田村は一度絶望しながらも、成功という新たな道を手にしました。

けれども、その裏には"見えざる何か"が潜んでいた。

そして、それを暴くために現れたのが"幽霊探偵"伊田裕美でした。


彼女の存在は、単なるオカルト的な要素ではなく、「真実を追い求める者」として描いています。

科学では解明できない現象に対して、ジャーナリストの視点から冷静に分析し、"人の心"の奥深くに隠された闇をも照らし出す存在――それが彼女の役割でした。


果たして田村の選択は正しかったのか?

この物語の最後で、彼が手にしたものは"成功"なのか、それとも"救済"なのか?

読者の皆様それぞれの解釈で、この物語の結末を受け取っていただければと思います。


また、"幽霊探偵"伊田裕美の調査はこれで終わりではありません。

彼女の旅路の先に、新たな謎が待っていることでしょう――。


次回作で、またお会いできることを願っています。


ありがとうございました。

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